無意味の中にある意味⑤

 さて、このシリーズもそろそろ終わりにすることにしようと思うのだが、なかなか終わりがみえてこない。いやはや、そりゃそうだ。ただ、私は今現在自身から溢れている言霊をただこうして言語化しているだけとなっており、無意味なことかもしれないことをただ淡々とつづっているだけなのだ。だから、そこから意味をみいだすのは、これを書き終えた後の私や、この記事を読んでくださっている方のほうが意味を見だせるかもしれない。私の場合、最中には意味がわかってないことが多く、書き終えた後に何度か読んでやっと腑に落ちたりもすることが多いので…。
 さて、私は自身を〝変態な凡人〟だと思って生きてきた。幼い頃から自分よりも容姿に留まることなく、全てにおいて何かに長けている人に出会ってきたし、常に上の人がいるということを心に留めて生きてきた。だから、賞をいただいたり、意中の殿方がど真ん中なタイプの人と両想いになっても、それは私の自信には繋がることがなくムシロ劣等感は増大していくだけだった。だからこそ〝変態な凡人〟の自分を〝普通の魅力的な女性〟を目指し、いろんな努力をしたりもしたのだが、それが私自信を蝕むことにもなってしまった。私の場合には、自分を磨くことよりも、自身の中にある〝負の感情〟やその起因となっていたことを模索することのほうが必要だったのだが、その当時は気がつけないまま、人や場所を変え繰り返しの無駄な時間を過ごしていた。
 ただ、私の場合には人よりもその当時の記憶をうっすらでも覚えており、その当時の感情も一緒に脳内の引き出しの中にしっかりしまってあったことが、今現在の私の土台となっている。だからこそ、自身が無駄に過ごしていたと思っていた時期をこうして言語化できるのだから、過ぎてみれば意味があったことになる。だからこそ、『意味のないことなんて何一つない』と言われるのだろうとも思う。ただ、その最中は絶対気がつかないというより、気がつけないようにも思う。でも、それでいいんだと思う。毎分毎秒自己反省していたら、自身の〝動き〟を抑制しながら動くことになるように思うし、そういった〝動き〟が、その人本来の持ち味を失くす要因になったり、ぎこちなさや本人のストレスにもなってしまうのではないのだろうかとも思う。生き物だからこそ、反省する機能が備わっており、それが〝トライ&エラー〟だったり、オートファジーの世界でもあるのだろうと思うのだけれど、どうだろうか?
 絶えず細胞は生まれ変わっている。細胞という小さな粒が織り成しているのが生物であって私たち人類の場合人体となっているなら、細胞レベルで記憶が甦り感情が生み出されても仕方がないようにも思ったりする。そこまで考える人はいないのだろうけれど、私はそういったことで自身の負の感情の源泉となっていることが一体何だったのか気がついたことから、自身の生の在り方の問が一旦完結し次元上昇したようなものだった。ただ、そのことに気がついた時は死にたいくらい自身のことが無知で恥ずかしい人間だったと思い知ることになり、相当落ち込んだこともある。※そんなに難しくかんがえなくてもいいと思われるかもしれないけれど…。
 ただ、だからこそ〝フィードバック機能〟があって、その機能があることが脳みその運動にもなるのだろうと思う。それが、反省とか復習するということでもあるように思うのだけれども、私は〝問〟だと感じている。というより、私の場合には〝問うてきた〟といってもいいのかもしれない。そしてそれが、言葉や物事が生み出される新たな世界への糸口に感じていたりもする。いや、難しいことはわからないが、ただただ、こうやって内側からそういった言葉がこんこんと静かに湧き上がってくるのである。

無意味の中にある意味⑥へ続く

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