無意味の中にある意味⑥
私は今年に入ってから生活保護を受け生活している。自分なりに行政を頼ったりして、いろんな行動をしたにも関わらず、保護世帯にならざるを得なかった。元々、息子に障害があることだけでなく、自身も心身を壊したことで福祉や医療のお世話になってしまったので、様々な制度を利用するにあたり、もしかしたら支援者や行政のそれぞれの担当者よりも私のほうが知り得ていることもある。というかそれらのデータは私の中で上書きされ蓄積されてしまうのだ。おそらく健常者の域でそのまま暮らしていられたなら、国の制度を知ることも利用することもなかっただろうとも思う。
とにかく制度を利用するのは簡単なようだが、実はイロイロな条件が揃いはじめて認定をされ使えるようになることが多い。そして何よりも時間がかかる。しかもメンドクサクテ小難しい文書や書類作成のオンパレード。そして、一年に一度それらは行われるだけではなく、新しい制度ができたり改訂されたら、また新たな手続きが必要となる場合もある。本当にメンドクサイのだ。
助成金関係や福祉サービスの利用などにおいては、かれこれ15年続いているので、もうそれは当たり前の年間行事みたいなものとなっているが、生保を受けるにあたっての諸々の作業は、それ以上の作業に感じることとなった。だから当事者となる本人が心身共に元気じゃない状態の場合だと、本人の納得のいかないままそれらの作業は進められ、本人の意思はどこか無視されたまま結果的にその人を更に追い込むことになる場合もあるということは、現場の人たちの心のどこかに留めてもらいたい。安易にそこに追い込んでも、その人たちの生活が本当の意味で豊かになるとは限らないケースもあるからだ。
私はどう考えても、ただその場所に追い込まれただけだったとしか思えなかった。 心身ともに元気になってメンタルが強化される度に、あの頃のことを幾度となく振り返り改めて考え直しても、私の落ち度だけというよりも、周囲の計算ミスとかシナリオの設定ミスとしか思えないのだ(苦笑)
とにかく、その世界線に押し込むような…いや、追いこまれるような現実のみせられ方を私はイチイチ受け入れてきた。そして、無駄なことを何度もしざるを得なかった。このエッセイのタイトルとなっている『無意味の中にある意味』という言葉がピッタリといってもいいくらいなのだ。
そんな日々の中でいろいろな〝気づき〟は起こったのだが、私自信が一番気がつかないといけなかったことは、現実から目をそらして生きていた分時間は過ぎていただけで、そこにとどまることのない時間軸の中で、宙ぶらりんな自分を演じていただけだったと気がつくこととなった。向き合っていたつもりだったけれど、自身がその当時、ぶれていたことで現実に直視できなかったり、めんどくさがりな自分を優先するほかなかったことが、未来の私のエネルギーを奪う事になってしまうということだ。
もし、その時、現実から目を反らすことなく、きちんと向き合えていたなら、しなくてもよかった無駄なことをせずに済んだかもしれない。だからこそ、元気な未来の私からすれば、そのメンドクサイ案件を直視させられ、メンドクサイ案件を片づける現実を味わうことになった。そして、よーく考えてみれば、どちらを選んでも結果は同じだったのに…。それに、それらの無駄なことを私が経験をしてもしなくても特に問題もない情報処理をだった。それらを行うことで、それがいつか何かの役にたつことになるとするのであれば、私が支援者やアドバイザーの立場になった時だけだ。しかも、私はそういうことに全く興味がないのに…。先を急ぎたい私にとってそんなの無駄な財務処理みたいなものだからこそ、キャパの少ない脳みそが沸騰するくらいの怒りが溜まっていくことになっていくだけだった。これを単語で表せば『理不尽』という3文字になるのだと思う。そもそも、意味を感じることで自身を窘めるエネルギーにしている私からすれば、意味のない作業を行うということがいかに自身にとって〝無駄〟だと感じているのかということも思い知ることとなったのだから、まぁ、それだったら仕方がないのかもしれないと思うことにはなっている。あぁでも、正直いってそういった行政絡みの新しい情報は知りたくもない。というより、私の脳みそのメモ帳に残しておきたくない案件でもある。
⇒無意味の中にある意味⑦へつづく
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