無意味の中にある意味④

 自身では気がついてはいない『無意味のようで意味のある物事』というものは案外あるように思う。 養老氏が『バカの壁』の著書の中で〝解剖する時、何を研究するのかは決まっていない〟といったくだりは〝未来は決まってない、又は決めていない状況になる〟ように思うのだが、この世に産まれた時からある程度決められた状況の下、日々を過ごしてきただろう私たち現代人にとって、そういった状況に身を置くことになった時、果たして一体どれくらいの人が、全くのゼロ地点から何かを見出だしていけるのだろうか?もし、存在するとするのであれば一体どれくらいの人になるのだろうか?
 個人的にはそういったことができる人は一握りの人に限られるように思う。おそらく大抵の人が意味のない物事には目を向けない日々を過ごしているように思うし、無意味に感じる世界の中で、希望を持ちながらポジティブな世界線を探索したいと思う人は少ないように思う。それくらい、ある程度決められた何かの枠の中で幼い頃から生きていると思うし、それはすでに決まっており変えられない〝宿命〟だと思いこんでいる人ばかりなのではないのだろうか?とそんな気持ちも湧き上がってくる。
 己の役割や使命なんて、その時に誰かに指名されたり、自分自身でそう感じたとしても、その場所に留まり続ける必要が果たしてあるのだろうか? 役割や使命を担ったとしても、自分自身が自分じゃなくなるのであるなら、その役を手放してもいいと思うし、負の方向性に向いているようなら辞めてもいいと思うし、何かをやり遂げた後にそれらがどうだったのかと意味づけするくらいでいいのではないだろうか?と思うのだけども…(個人的見解なのであしからず…。) 
 そもそも、たとえ、使命だとしても決められてはいない。決まっていると思い込んでいるだけでもあるように思う。 それらは〝いつ、誰が、決めたのか〟又は〝そう思い込んだのはいつなのか〟一度過去を振り返り、自身と対話をしてみればいいとも思うけれど、そういうことをしないために、日々心を忙しくしたり、お酒や何かで誤魔化すことで、本当は見直したほうが良いのだろう物事や己と向き合うことから逃げている人が大多数なのかもしれない。だからこそ、一見意味のある活動や物事にこだわるってるだけなのかもしれないとも思う。
 坦々と何事もなく過ぎゆく日々は、確かに無意味な時間を費やしているだけなように思うかもしれない。そういった繰り返しの毎日の中で、私やあなたに残ったものがたとえ無駄で意味のないようなことに感じたとしても、相対的にみれば役割や使命にみえることもあるのだし…。とどのつまり、客観視した目線がどんな自分だと望ましいかといった要望だか希望だかの欠片が垣間見えるようにも思う。ということは客観視できてはいないようにも思う。そういったものが他人軸でもあるように思う。客観視もどんな見方をするかで違うとは思うが、ただ、我が身を振り返らずにいた時間が長くなれば長くなるほど、それらはビッグバンとなって増大され自身でも抱えきれなくなっていくようにも思う。それが、自死又は犯罪や殺人ということにもなるように思う。だから気がつかないほうが楽だったりもするのだ。己の過ちは己にしかわからないのだし…。
 その時、そうせざるを得なかった私やあなたは一体、どんな世界の中に身を置き何を見ていたのだろうか。そして、その景色はどんな風にみえていたのだろうか。本当に意味のない世界の中であなたは生きていたといえるのだろうか? 
 ゲームのRPGでは、同じ場面で同じ人に尋ねた時、ただの挨拶程度の言葉のみしかいわない村人もいる。「……」といった一言もうんともすんとも言わない村人もいる。でも、ゲームがある程度進み何かを成し遂げた後、ただ『こんにちわ』程度や何も応えてくれなかった村人が、再度接触してみると、次の展開に進むための『大きなヒント』を話し始めることもある。
 そういったことは、ゲームの世界だけではなく実は現実の世界でも起こりうることなのだと私は思うし、私はそういう体験を何度かしたことがある。それが〝奇跡〟といわれることにもなるのだろうと思う。
 その時、相手は何も応えてくれなくても、その人を信じ続け、様々なアプローチや視点を変えた導きを経た事柄から、いつの日かその相手との世界線が繋がることもあるような気がする。ただ、RPGとは違いリアルの世界では、設定や価値観を意識して変えるだけではだめなようにも思う。意識だけじゃなくやはり体験を通した物事は、言葉足らずとも伝わるように思うのだ。それが〝癒し〟とか〝許し〟といわれるようなものにもなるように思うのだけれど…。 
 そして、それらに小手先のテクニックなんて必要もないように思う。与えられた環境や決められた枠の中だけで生きてきたからこそ、想定外の未来が訪れてもそれを受け入れる器が共に備わっていなければ、結局受け取れないまま終わってしまように思う。 逆もしかりで、その先を知ってるからこそ、先に器ばかりを大きくしたところで、想定外の未来を受け取ることができたとしても、それらを扱える意識の持ちようや知識が備わっていなければ、それらに対応できず宝の持ち腐れになることもあるように思う。だから、どれかでもどちらかでもなく、結局『バランス』といわれるのだろうとも思う。

無意味の中にある意味⑤へつづく

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