障害は個性ではなくただの違い
『障害は個性』という人が
世の中には存在するが
私は『障害はただの障害』
だとつくづく思う
それでは「個性とは?」
と聞かれたらなんと答えるのか?
それは、私にとって
長年の問答の1つでもあったけれど
「僕のこと」という歌の
“ボクとキミとでは何が違う?”
という一文が
私なりの答えに導いてくれた
では一体、他者と自分とでは
何がどう違うのだろうか?
思い出せるだけ
書き出してみようかな…
生まれた場所
顔、身体、性別、誕生日、
名前、血液型、
学生や職業…etcになるだろうか?
同じ人間というカテゴリーでも
互いに必ず“違い”はあって
その“違い”を探しはじめれば
大きい小さい関係なく
キミとボクの違うところが
たくさんあることに気がつくと思う
大小様々な“違い”を持っていても
カテゴリーの括りを大きくすれば
“地球上の生命体”という
ワンチームになることも解る
その大小様々な “違い” の中には
“障害”や“病気”も存在する
だとするなら
「やっぱり個性じゃないか…」
と思う人もいるだろう
昔の私ならそういった答えに
戸惑ったかもしれない
でも、今の私なら
ハッキリ “NO ‼” といえる
それは何故か?
何故、障害や病気が
“個性” に当てはまらないのか?
それは、ボクや君に共通している
アイデンティティの
一部の名称は同じでも
その中身は“違い”があるということ
それは個体差ともいう
個体全体ではないから
識別するためのコードネームとも違う
同一名称のグループでも
クローン人間でもないのだし
同じ親から生まれ似ていても
どこか “違い” があるように
その “違う” ところが
その人の “個性” になるのではなかろうか?
そして、その “違い” は決して
悪でもなければ善でもないし
優劣で切り捨てられるものでもない
個体差のありすぎる生命体が
『標準規格』で線引きされ
私たちはいつの頃からか
その四文字に振り回され続け
輪廻を重ねただけなのだろうと思う
そして、それらに疑念を抱きながらも
それらが『あたりまえ』となって
ただの平均値や分類が
優劣や分断の原因に
なっただけなのかもしれない
互いの違いを認め
多様な世界の中で
同じ未来の
違った次元の場所ででも
このままずっと私たちが
どこかで共に
歩き続けられますように…
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