無意味の中にある意味③

 平成から令和に移り変わる前あたりから、毎朝とはいかないが早起きをし、気が向いた時は朝から文字を書いている。文字の練習をしているというわけではなく、文字を書くことである一定の時間何も考えることなく〝ただ文字を書く〟ということに集中する時間となっている。
 頭の中で平行次元に考え事をしてしまいがちな私にとって、一つの課題のみに集中するという練習にもなっているようで、自分でも思っていた以上に心地良く、五月に入ってからは『写経』のなぞり書きなんてことにまで発展してしまった。
 なぞり書きにしたのも、般若心経を覚えるために見て書き写すということではなく、ただ、なんとなくその文字群を書き写したいという欲求を満たすだけのために始めた。見て書き写していくと時間がかかりすぎるだろうと思うので、〝なぞり書き〟にしたのだがそれがよかったようだ。なぞり書きをしてれば、そのうち読み方でも覚えられたらラッキーみたいな軽いノリで安易に始めてはみたものの、真面目にそれを行っている方からしたら、罰当たりといわれてしまうかもしれない…。
 ただ、なぞり書きにしたことは、私の場合には良かったと思うことになっている。それは何故かというと、模写をする場合には、覚えた情報を脳内から引っ張り出しながら筆記するので、お手本を見て、視線を移し筆記するという二つ以上の動作を同時で行うことになる。でも、〝なぞる〟だけならば視線は一定の場所で見ており、それを思い出すことなく〝なぞる〟といった動作になるのがいいように思う。
 それと、元正解幻想の住人だった私には、そういう動作だからハマるのかもしれない。ようは1対1の作業でもあるし、型はめのようなものになるからかもしれない。
 ただ、〝なぞる〟という作業は、意味がなく感じてしまう人が多いだろうと思う。それに一見意味のないことにも感じるように思う。覚えるつもりがないのに、何故?そんなことを朝の貴重な時間に費やすの? それより洗濯や掃除をするべきじゃない?と思う人もいるだろう。 
 いや、他人様に言われなくたって、私の中にいる糞真面目でいい子な私だってそう思ってる。それでも、続けることが中々難しい私が、その〝写経などのなぞり書き〟が日課になりつつあるのだから不思議だ。
 それと、実は想定外の効果(当社比)も感じている。文字を書くことで不思議と心が穏やかになるのだ。集中できてない自分や心がざわついていることにも気がついたりすることもある。あっなんかモヤモヤしてたんだとかって…。あと、椅子に座っている時の自身の姿勢などにも気持ちが向くようになってきた。数年前の自分からするととても想像できない。それくらい私は日常生活の様々なことを同時進行で考えていたのだということも思い知っている。それでも、意味のない時間を費やしているように感じ、罪悪感を時には感じることにもなっていたが、そんな意味のない時間が、最近は〝特別な時間〟になった。

無意味の中にある意味④へつづく


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