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あれから5年‐やまゆり園事件を通して思うこと②‐

自分史を仕上げる前に『やまゆり園』の事件を通して感じている記事を数回に分けて綴りたいと思います。本日は2回目


 我が子の障害が発覚するまでにも無差別な殺人事件は起きていたのは知っていたが、どこか他人事だった。ただ、我が子に障害が発覚し間もない頃に知った〝西鉄バスジャック事件〟がきっかけで、大人の発達障害も注目されるようになったように記憶している。

 詳しくは調べてはいないが、簡単に事件を振り返ってみると、犯人が事件を起こしてしまうにいったった経緯は〝仕方がなかった〟としかいいようがなく、ただただ、犯人が不憫でならない。自身の中で渦巻いていた様々な思いを〝犯罪〟という形、しかも〝殺人〟ということで〝自己表現〟をする術しか思いつかなかったのが〝残念〟でならない。

 そして、この事件の犯人が通院していた精神科に、私も1年程通院していたことがあることを、今更知り驚いている。いや、私がその病院(肥前精神医療センター)を受診するきっかけになったことは、別件で〝発達障害〟を診断している病院だと知ったからになるが、その事件が絡んでいたことを当時は記事で読んで知っていたからこそ、他県へ足をのばしてまで受診をしたのだと思ったりもするで、記憶にないだけなのかもしれない。それでも犯人と同じ精神科へ通院していたことに驚いた。

 今回、犯人と同じ病院を受診していたことがわかったことで、確かめようがないことにはなるが、私が長年回りくどい行動統制をなされていたように体感していたことや、精神科に入院していた時、一時帰宅した際、美容室で体験したことなどで感じた、入院先の病院や以前一時期お世話になっていた成人支援を受けたことのある施設に対する不信感を思いだした。だとするならば、私の身に起きていたことと、犯人が経験していただろう関わり方とは違った関わり方ではあったと思われるが、恐らく、短い言葉で言語化するとするならば〝感情の摩り替え〟が起こっていたのではないのだろうか?と思うのだ。もし、そうだとするならば、そういった意味では〝犯人〟が犯罪を起こすことにいたったのはすごくわかる気がする。

※長年感じていたこともあわせて読んでいただきたいので、長くはなってしまうのだが、別ブログのリンク先と、そのブログ記事の一部を転載をするが、全てを転載すると長くなりすぎるので、その時々で綴ったブログはリンクしておくので、あわせて読んでいただけたらと思う。

<はてなブログ「ワタシの暮らしの忘備録‐心の声‐より、転載>

 私は昔から自分の内面で起きていることや本心を言ったことはありません。なので多分、私がどんなことに悩みどんなふうに感じてるのか理解したかったのかもしれません。
 でも、正直いうと私は自分の中で解決できれば、それで満足できる人でした。それらを誰かに聞いてもらうことで確かに楽になることはあります。
 ただですね、私の経験したことだけならまだしも、内面で起きていたことを話すことで人によっては無意識の領域がぶっこわれたり、その人自身が壊れてしまう場合もあるのです。
 こちらとしては、そういう人の場合にはなるだけ心は開かないスタンスできました。だって、開いたところで、こちらが全部開こうとするとおそらく恐怖麻痺が働くのでしょうね。
 そういう人たちは無意識にシャッター閉めるのです。まぁ、理解できないからじゃなくて根底を覆されることにもなりますし、自分自身では考え付かないような話は人によって負担になるんだと思います。
だから、いえなかったのではなくいわなかったんですけども…。だから私は私を治したいと思ったり私を癒したいと思って、関わるような人たちは信用してません。
なぜなら、治そうとすることは変えようとすることだからです。

心の声
https://sorahitoumi.hatenablog.com/entry/2018/03/20/183840



<はてなブログ「ワタシの暮らしの忘備録で2017年11月17日にアップした「詩」です>

「イマサラな私の心の中」

またもう一度はじめから
やりなおせばいいと思って
今日までいろいろやってきた

急ぎ足で生きているつもりはなくても
元気になって
仕事がまたできるようになって

当たり前のことが
当たり前にできていく日々を
噛みしめるように生きてきた

それでも、悔しい思いも
悲しい思いも
たくさんの我慢もしていたし

私さえ黙っておけば
みんなが平和ならそれでいい
たとえそれが間違っていても

〝私の問題ではないのだから…〟

そう思ってきた

何も言わない私を試すかのように
いろんな出来事が起きても
私にとってそれらは
単なる私を試している
『お試し』だと思っていたから

どこか見透かしている自分を
なんだかウエメセだと思い
そんな自分に〝罪悪感〟も持っていた

わたしさえ黙っていれば
わたしさえ我慢していれば
みんなは平和なのだから


それが自分の〝喜び〟でもあるのだと
そう思うようにしていたし
そういったことが
〝利他の精神〟だとも感じていた

私の気持ちなんて
話しても理解してもらえないし
誰もわかってくれないのだから

話しをしても〝無駄〟だと思い
自分に嘘ばかりついていたし
もう、それでもいいなぁ~なんて
思ってもいたけれど

何かをきっかけに
とめどなく涙があふれて
とまらない日も多々あって

そんな時は〝鬱〟なんだと
病気のせいにばかりしていた。

私がそんな状態からぬけだせなかったのは
小さな『嫌だ』を『嫌だ』と
目の前の人に伝えてこなかったし

自分が悲しいのは我慢できる
時が解決してくれるって
そう勘違いもしていたから…

嫌、というより
自分をないがしろに
後回し
にしてきたからだ。

〝自分〟を〝大切〟にするって
〝相手〟を〝大切〟にすることじゃない
〝自分〟を〝大切〟にするということは


私の初めに感じた〝情〟を大切にすること
そして、その感情をちゃんと吐き出す事

たとえ相手が傷つくことになっても
私が罪悪感を持つ必要もない

私からの一言で相手がどう感じるかは
相手の課題でしかないんだし
それが私自身を守ることにもなるんだ


イマサラな私の心の中
https://sorahitoumi.hatenablog.com/entry/20171117/1510885322

※転載した記事に合わせて読んでもらえたらいいかもしれない記事をいくつか抜粋したリンク先は下記をご覧ください。
NOTEで〝自分史〟も綴っている途中なので
NOTE「発達系サバイバー~これでもなんとか生きてます~」
 そちらを読んでいただいた方がわかりやすいかもしれません。


↓↓↓こちらは、はてなブログの記事になります

☆問題行動は会議室じゃなく現場でおきているhttps://sorahitoumi.hatenablog.com/entry/2018/01/25/115353

☆私は『治った』といえるのか?
https://sorahitoumi.hatenablog.com/entry/2018/02/07/163808

☆旧ブログ2016-07-19
https://sorahitoumi.hatenablog.com/entry/2016/07/19/000000_1

☆旧ブログ2016-09-18
https://sorahitoumi.hatenablog.com/entry/2016/09/18/000000_2

☆2015年10月4日のFacebookより
https://sorahitoumi.hatenablog.com/entry/2017/08/28/115511

☆今日の空
https://sorahitoumi.hatenablog.com/entry/2017/10/25/134347


 上記の記事は、私が5年間ブログを綴ってきた中でリアルタイムで綴ってきた記事になる。この記事を読んでも、私が何を言わんとするのかが理解できない人もいるのかもしれないし、察していただける人もいるかもしれない。理解できない人は、私のブログを最初から読んでもらえばいいのかもしれない。
 それでも、自分自身の思想や固定観念を外した状態で、他者を理解しようという心が働かなければ、私の言わんとすることはどんなに言葉を変えても伝わらないのだろうと思う。だからこそ、私が言わんとすることを汲み取った人たちが、私では表現できないなんらかの方法で伝えていただくことが、1人の凝り固まってしまった悲しい世界を変えていけることに繋がるように思ったりする。今の私には、これが限界だという意味でもある。
だからこそ、自分とは違う人の存在がいるのだということを忘れてはいけないのだと思うのだ。

 少し話がずれてしまっているので話を戻します。

 去年あたりに気がついたことになるが、一般的に〝望ましい行動〟又はそれよりもより良い行動ができたら、次の課題へシフトチェンジするように感じている。
 この場合、精神科治療が、もしかしたら、私が想定している人体実験的な仕組みで行われているのかもしれないということに気がついたからこそ〝怒り〟に震えるようなことが起きても、犯罪を犯すことなく過ごせているだけにすぎない。
 だからこそ、日常生活を送る中で起きている普通ではありえないような出来事が、一般人な私の日常で頻繁に巻き起こっていてもなんとかやり過ごせているだけなのだろうと思う。ただ、精神的には大丈夫だと思っても、なぜ、我が家にだけ理不尽なことが巻き起こってしまうのかが不思議でならない。
 まさか…と思ったのは、今から5年程前になるが、今、過去を振り返ってみると、それよりずっと前から〝理不尽〟なことは身に起きていたように思う。ただ、理不尽な出来事が起きても、それらが〝怒り〟にまで発展することなく済んできたのは、回りくどい行動統制(望ましい行動への統制)だったことに気がついてなかったこととそれらが何故、起きているのかに気づけないくらい、私自身が【鈍感】だったからなだけにすぎない。それでも、相手次第では、傷つくこともあったし〝怒り〟に発展する前の〝ざわざわ〟だとか〝もやもや〟した感情で心身ともに疲弊していたんだろうということは今だからこそハッキリわかる。

 何故なら、その時々で、感じていた自分の内側から溢れてしまうネガティブな感情を受け入れてもらえることはなく、摩り替えられていたのだから…。言われることは頭でわかっても、本人から芽生えた負の感情を言葉で摩り替えられてしまうことは、それらの言葉やその場しのぎの態度が刃となり、当事者を傷つけいているということをわかっていない。それは、精神科治療に携わっている関係者には勿論、社会すべての人たちに気がついて欲しい。
なぜなら、〝怒り〟が爆発するその日まで、その人はずっと自分へ刃を向けて生きてきたようなものなのだから…

③へ続く

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