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幻想のようなもの

風の強い日に、買い物を終えてスーパーから出たら
何台も自転車が倒れていました。
私が停めていた所まで来て、カゴに荷物を置いた時
横に停まっていた自転車が風で倒れたのです。
すかさず起こそうとしたものの
また風で倒れたら、今度は破損するかもしれない。
そう思い、そのままにして立ち去りました。

ここでもし、私のことを見ていた人がいた場合
その人が何か思うとしたらどう思うだろうと
ちょっと想像してみました。

うわ、あの人
倒れた自転車を起こしてあげないなんて不親切

うわ、あの人
自分で倒しておいて起こさないなんて最悪
(倒れたあとから見て、風とは思わず決めつけた場合)

なんで起こさないのだろう?
なにか理由あるのかな?

きっと、また倒れたら壊れるかもだから
あえて起こさないのかな、親切だな

と、人によってはもっと違ったことを
思うかもしれませんが
私がどんな理由でそれをしなかったかを
知らない場合

個人によって
自由に捉えることができるのです。

さらには、理由を知ったとしても
私は起こさない方がいいかなと判断したけれど
人によっては、倒れたままの方が嫌だから
起こしてくれる方がいい
と思う人もいるかもしれず
自分の、良い、と思った判断すら
相手によっては、良い、とならなかったりします。

そうやって
自分が相手に対して勝手なというか
自由に捉えたイメージで
相手はこんな人というのを
作り上げてしまうことにもなるのです。

私が良かれと思ってやったことが
その思いを知らない人にとって
不親切、もしくは決めつけで最悪と捉えた場合
私は嫌な人、悪い人になってしまいます。

実際は違ってたとしても
相手に抱いたイメージが
自分の中では事実になり
自分の中だけの、その人が
作り上げられるのです

人それぞれの
いくつもの私がいる
いわば幻想のようなもの。

ある人をいい人と言う人もいれば
嫌な人と言う人もいて
それはただ、相性が合うか合わないか
ということだけだったり
羨ましい部分があって
自分にとって嫌な人と思ってしまったり

結局
誰かが誰かをどう思うかは
その本人次第で
時には気分次第で
いい人にも嫌な人にもなるとすれば
まわりからどう思われるかというのは

不確かなもの
正解のないもの
幻想のようなもの

そんな風に思います。

そんな中で
自分は良かれと思ってやった!と声をあげても
そうして欲しくない人にとっては
嫌なことした!嫌な人
になるとして

じゃあ、今度は嫌な人でありたくないからと
反対のことをしたら
(自転車は倒れたら起こす)
なんで倒したままにしてくれなかったの!嫌な人
と、どっちにしてもそうなることもあります。

何が正解なの!?
てなりますよね。

みんなの正解は1つではなく
みんなの
それぞれの正解全てに合わせるということも
できないのです。

なので
まわりから自分がどう思われるかは
幻想みたいなものと思い
もしまわりに良く思われたいと行動した所で
全員の良い、とは一致しないのだから

やっぱり
自分がどうしたいかに集中するのみですよね🌟

そして
自分が相手に思いを聞いたわけでもないのに
相手に対して何かイメージを抱いてるとしたら
もしかすると
決めつけの幻想なのかもしれない、と
意識してみるのもいいかと思います。

勝手にその人の幻想作って何がしたいの?と。笑

そこには
自分のことを○○と思えるために
相手にこうあって欲しいから、作り上げたんだ
という気づきがあるかもしれません。


お読みいただきありがとうございます🌟

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