自己満足のためだけに書き殴り

 今日は大学のオープンキャンパスに行った。ちなみにわたしはこの春高校生になったぴちぴちのじぇーけーである(自分で書いていて恥ずかしくなったことも記しておく)。
 高校1年生がなぜにオープンキャンパスへ?
 だれかにとっては常識かもしれないし、だれかにとっては驚くことかもしれない。わたしはどちらでもなく、オープンキャンパスって面倒だなと思うタイプである。
 知る必要があることがある。たしかにそれはそうだ。入学してからトイレが古臭いことに気付いたり自動販売機がない上に最寄りのコンビニがそれなりに遠いことを知ったりしたら、結構絶望だと思う。
 学校の施設を知ることは重要だと思う。ついでに何が学べるのか知るのも重要だと思う。まあ、ここまではたしかにオープンキャンパスが必要である理由になる。
 けれど、学校の雰囲気は知らなくてもいいと思ってしまう。よくオープンキャンパスを勧める雑誌に『先輩がやさしかった!』『学年の雰囲気がいいと先輩が言っていたから安心!』を見る(たぶんわたしだけじゃないはず)。それを参考にする人が一定数いるからこそ、それを高頻度で見るのだと思うけれど、わたしにとっては全く参考にならない。
 だって、関係ないじゃん、と思う。
 それはあくまでその先輩の感想で、それはあくまでその人の学年の話で、わたし達の話じゃない。どんな人が同学年になるのか、わたしのいる学年がどんな雰囲気になるのか、全くもって分からないのに。
 だから、そういうタイプの宣伝は無意味だと思ってしまう。
 そんなことをつらつらと書いているのに、なにゆえオープンキャンパスに?しかも1年生で?と思われた方が万が一、億が一、いらっしゃるかもしれないので書いておく。
 夏休みの宿題だからである。
 ちなみにオープンキャンパスへ行かなかった人用の宿題も課されているのが、オープンキャンパスに参加するよりも面倒なことをしなければならない。
 そんなことをするぐらいなら、行ってやろうか、オープンキャンパス。
 そんな偉そうなことを考えていたわけではなく、シンプルに気になっている大学がいくつかあったので、もう片方の課題には見向きもせず、大学のオープンキャンパスについて調べ始めた。

 そして、迎えた今日。行きたくないよー、と父と母にぐちぐち言いながら出発。電車は、予定よりも1本ずつ早いものに乗って、そこにわたしらしさを感じた。大学の最寄りを通る電車は、それっぽい人達が大量発生していて、それだけでなぜか緊張。ほとんどの人が私服で、親子そろって来ていたり友達同士で来ていたり。わたしみたいに1人で参戦している人もそれなりにいた。
 地上を通る電車に久しぶりに乗ったので、ずっと窓の外を見ていた。この大学に来たら1か月で慣れるのだろうか、と少し考えた。
 大学に着いて、人の波に乗りながら、学部説明会が行われる場所へ到着。学校説明会、じゃなくなるのが大学だなあと思った。
 学部説明会は学部長と職員数名、在学生数名からお話があった。一番興味深かったのは、合格者の共通テストの平均点。すごく嫌な言い方をすると、わたしが行きたいと思った学部は、偏差値が一番低い学部と言われがちである。そのような言われようの学部でも、レベルはしっかりと求められることを実感して背筋が伸びた。
 学部説明会のあとは学科説明会、コース説明会に参加した。コースがたくさんあることを魅力の一つにしているのに、複数の説明会に参加できない時間設定になっているのが残念だった。説明を受けながら、だんだん自分の中でなにかが冷めていくのが分かった。
 とても魅力的だった。在学生の話も、その学部で学べることについての話も。なのに、大学に着いたときの、ここに行きたい、がなくなっていた。
 どうしてかは分からない。いつもこうなのだ。理由は言葉にできないし、自分で捉えることもできないのに興味が薄れていく。こういうことが今までで何度もあった。たぶん、期待しすぎが原因なのだと思う。わたしにとって、この世界には魅力的なものがたくさんある。けれど、わたしは結局それらの表面しか見ていない。中身を知った途端、萎えてしまう。期待や理想と違うから。なんて自分勝手なのだろう。
 でも、と思う。行きたいコースが理想となにか違うことは分かった。だからこそ、別のコースも見たかった。ほら、こうやってまたすぐ責任転嫁をしている。

 進路ってむずかしい、とつくづく思う。
 だって、進路とは人生に直結するものだと考えているから。
 わたしは、高校を探すとき、いつも大学進学実績を必ず見ていた。今日も学部説明会でのパンフレットで就職実績を確認した。
 ずっと、進路が怖いのだ。
 うまくいかないとだめだと思っている自分がいる。失敗したら終わりだと思う自分がいる。それは、たぶん、底の見えない沼に一度はまってしまったからで、そのときは抜け出せたけれど、次はそういかないと思っている自分がいる。
 本当は、自分にとって受け入れがたい状況を、こんな風に比喩で表すことはよくないとわかっている。けれど、わたしはずっとなにかに囚われている。だれが決めたのかも分からない、真っ当な人生を歩むことを願っている。
 真っ当な人生を歩むためには、いい大学へ行って、いい会社に就職して、自分ひとりが暮らせるくらいは稼がなくてはならない。つまり、いい大学へ行くことが真っ当な人生を歩むことに繋がると考えているわたしがいる。
 だから、間違えたくないのだ、これ以上。

 とても醜い部分をさらけだしてしまった。
 なんでこんな話してたんだっけ。

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