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高原のホテルで②

お月様が沈んで、お日様が起き出すまでの1時間の隙間に星空を見る。視力が低いので、一等級の星しか目に飛び込んではこないが、しばらくすると暗順応していくらか小さな星たちも顔を見せてくれた。時刻がきょうに切り替わる少し前に露天風呂から天を仰いだ時は、アルタイル(彦星)が頭上に輝いていたのが見えただけだったが、今は、3つの大きな星を線で結ぶことができた。目の良い姉がいたら横でワーワーいうのだろうな、夏場なら天の川が見えたりするのだろうか?
さて、きのうの続き…いわゆる運命論者のひとが、何をどう考え願ったところで、そうなることははじめから決まっているというのは半分当たっている。半分ということは後の半分はどうにかなるということか? ま、半分かどうかはさておき、その可能性はある。じゃ、その確率を上げるにはどうすればいいのかに気持ちが向かいそうだが、それが問題。そう考えた途端に、さっきいったはじめから決まっていた半分の方の理屈が作動する。そう、自動的に。運命論者のひとは、だから考えたって同じといっているのだが、それでは親切じゃないでしょう。そうしたくないならどうするのかを共有しなければ…
こういうことを語ると自分がいかに凡庸か、少ないボキャブラリしか使えないのか身に沁みる(T . T)いや、ボキャブラリがというよりも論理的に説明できない欠陥だろう。しかし、嘆いても仕方がないので、いくから書いてみるが、そう、さっきの一等星くらいしかハッキリ見えない視力みたいな感じでね。
まず、この場合、ハッキリさせておかなければいけないのが、この世のそして見えないあの世のすべてのものごとは、同じ理屈で生じているという理屈を把握しておかなければはじまらない。たとえば、原子核の周りを電子が永遠に回り続けている、そのお互いの共振共鳴する位置エネルギーが運動エネルギーの元というような(これは物理的な意味の理屈)。しかし、意識だって量子的な見えないが確かにあるエネルギーなのだと捉えれば、結局は同じ理屈になる。そう、すべては同じ理屈で成り立っているのだ。そうすると、しょせんは同じ元素からできている宇宙なのだから、あの星だって、さっきから向こうで鳴いている鳥さんだって、わたしだって同じ理屈に支配されている。共振共鳴といえば、同じものは作用を強め合い、反対のものは緩衝して波のエネルギーを打ち消し合う。すべてのものは響き合って絶妙な運行をしているのに、ああしたいこうなればいいのにと我(または我欲)を挟むから純正律のような調べ♪(理屈)が歪められて変調した音(望まない結果)を受けとることになる。これが統一的な理屈。
じゃ、なにも望まなければいいのか、または、望んではいけないのか、というと、そう捉えるとこれまた、運命の通りとなってしまって堂々巡りになる。わたしの体験的には、うっすらと通奏低音的に望みはあってもいいが、それを今ここでどうにかしようとしないで、自動的にはたらく理屈の流れに沿っていく、というのが最初のヒント…あ、お日様が動き出したらしい、空がうっすら鴇色(ときいろ)に。つづく

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