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スピリチュアルの発展から生まれる、「魔法学校」

メタバースやAI、情報科学の発展から成る宇宙論から、人間の存在価値や死生観、人生観を突き付けられている現状があります。これを突破し、ひとまずの解決を提示できた未来では、「意識・生命・人間」についての新しい視点を得ていることになります。

その未来社会でも、人は存在し、教育があるのでしょうから、未来の学校での新しい学科や科目として「意識」について学ぶ分野が創設されていると思います。「意識」については「スピリチュアル」とここでは表現しています。

その学びの初めにはスピリチュアルの伝統がそうであったように、「私とは何か?」という問いかけから始まると思えます。

「私」とは。縁/円と点

数学上で、点とは

『ユークリッド幾何学における"点"は大きさ、方向など位置以外のあらゆる特徴を持たない。』

とされており、長さも面積もありません。

点は、定義上、線分の両端、円の中心ということになっています。『「点」を目の前に出してほしい。』と言われても、それは面積も体積も、長さも存在しないので、不可能な話なのです。点とはあくまでも座標上のある位置を指し示すものでしかありません。

「私」という自己についても、この数学の点と同じである、と言われています。

つまり、面積も体積も存在しない座標上の位置のことです。

「私とは何か?」という問いについて答えられることは、例えば…

A,自分の身体的な状態や特徴、医学的な見地など肉体的な状態について

B,住所、氏名、年齢、学歴、職歴など履歴書で書けるような社会との関係性について

C,気質、性格、趣味、思考、好き・嫌いなど、その個人の主観的な傾向について

D,どのような価値観、考え方、宗教間、歴史観があるかなどの社会、文化的な価値観や認識の仕方について

などを取り上げて「私」と表現するかと思いますが、A~D全て「何かとの関係性」の上に生じている座標に付けられた名前ということが言えます。

例えば、Aの身長が170cmだとすると、人間の身長というパラメータの中で、170cmの位置にいますということです。

Bの住所については、地球上の物理的な特定の位置を指し、学歴や職歴についても、ある特定の国籍の中での学生や社会人として、ある時期どの位置に存在していたかを指し示す位置になります。

Cの性格や気質という一見個人独自の資質について述べていますが、性格が「短気、温厚、感情的」などの概念は多くの人間の感情・気質というパラメータの中で比較して、その個人がどの程度のものかを指し示している概念です。

Dの価値観、考え方、宗教間についても世界や地域のの様々な価値観や宗教感というパラメータの中で、どの位置にいるかということです。

A~Dは全て情報的な物として表現されます。そして、A~Dのそれぞれは全て「縁」という時空を超えた関係性の中で生じた情報です。

縁という関係性ネットワークで構築される結び目の「点」を、「私」と呼んでいます。

しかし、点には面積も体積も存在しません。

あたかも面積も体積も存在するかのように感じる固有の「自己感覚」があるだけで、この感覚も生理的な関係性から生じる情報です。

「私」という自己感覚が情報であるならば、再現可能で、移植も可能であろうということを、実際に研究している時代が今です。

そうなると、有機的な依り代に、データだけ移植すれば永遠の「私」が誕生します。それは人間の炭素ベースにした肉体ではなく、シリコンのような物質でも可能なのだろうか!?ということも興味深いテーマですし、

一つの依り代にいくつの自己感覚をインストールできるのだろうか、ということもテーマになり得ます。また、そのデータの保存先は古来から言われている「霊界」のようなものとして考えられるのだろうか・・・と興味は尽きません。

人口物での情報のやり取りはそのような推測が出来ますが、自然界ではそのような情報のインストールの行い方は採用しているのでしょうか!?

情報と言えば遺伝子です。生物は、遺伝子の乗り物で、より優れた遺伝子を次の世代に渡すために、防衛本能として「私」という自己感覚を芽生えさせました。

「私」という自己感覚は「私」と「他(自分以外の人や者、世界)」を分けました。

そして、防衛本能の働きで「私」の肉体、「私」の経歴、「私」の宗教、「私」の家族、「私」の国、というように所有件を主張し、そのアイデンティの範囲を広げていく歴史が人類史の一つの観点です。

自己感覚が創る歴史と物語

こうした自己感覚の縄張りを広げたり狭めたり・・・が人生や人類の歴史でした。

自己感覚の拡大は、家族、部族、国家、土地、財産というように拡大し、拡大した他の自己感覚といつかは衝突します。

家族と家族、部族と部族、国家と国家・・・

この「私」と「あなた」自己感覚の接する所に、様々なやり取りが生まれます。場合によっては暴力的なやり取りが生じ、戦争が生まれます。

そして、並行させていかに他の領土や所有物を獲得するかということについて、頭脳を発達させてきました。

こうした思考形式は生存本能をベースにした思考形式で、物事や世界を、直線的に捉える傾向があります。直線的に捉えるとらえるので、私とあなたの間に、「境界線」が生まれ極端になると分離化が進んでいきます。

このような思考様式は、昔から科学的な視点では「左脳」的な思考形式として知られてきました。

しかし、右脳的な思考形式は、物事を直線的ではなく、全体的、直観的に捉えます。

そこに境界線はなく、「今ここ」あるがままに世界を捉えています。

一人一人、能力や発達、得手不得手があるように、頭脳の使い方にもそれぞれ特徴があるものです。

人間の歴史の中で右脳的な思考形式が得意な人物がいて、彼らは直線的な因果律で物事を考えずに直観的に物事を考えます。また、極端な分離意識もないので、物事を融合的に捉えます。

その数は歴史的に少人数であるのですが、いつの時代にも存在していました。

彼らは分離感から成る自己感覚があまり強くないので、平和的であり、調和的でありました。そして、私とあなたの間にある境界線の感覚も薄い状態です。そうなると、不安や恐怖という感覚も必要以上には生じたり、引きづったりしないのです。

将来の学校での新しい科目

こうした状態は、脳の使い方によるものなので様々な方法(修行法や瞑想法)で再現可能なものとして、扱われてきました。

そうして、様々な宗教上の道場(寺、協会など)でその学習が行われてきたと考えられます。

今風に言えば、スピリチュアルの学習塾のようなものです。

現代は左脳的な側面から評価した科学、医学、政治が多く繁栄しすぎて、右脳的な開発を含むスピリチュアルな学習というものが殆ど絶滅しているような感じです。

スピリチュアルな分野は人間の人生観、死生観を扱いので、いつの時代にも滅ぶことなく存在し続けますが、現代ではお遊び的な感覚の延長線上のものが多くなりすぎ、何が本当かどうかわからなくなっているように思います。

しかし、この分野も急速な時代の発展と流れから、より洗練されたスピリチュアルというものが誕生しつつあるように感じてもします。

そうなると、「私」という自己感覚の感じ方も、また違った感覚や捉え方として認識されることになります。

今の世論の混乱が収まったのち、このようなスピリチュアルな分野での「科目」が生まれ、学校教育で教えるような社会になっているのではと思います。

そこでは、瞑想や気功、ヒーリング、幽体離脱、他の動植物とのコミュニケーションなどの今でいう超能力的なものが段階的に教示されるような学校で、魔法学校のような感じなのではと想像しています。

それは「私」という自己についてどう感じるか、どう考えるのか、というパラダイムシフトの先の話です。

天動説から地動説というパラダイムシフトは、当時ではなかなか受け入れられませんでしたが、時がたつにつれていつの間にかそれが当たり前の価値観というような社会になりました。

そのような社会で生まれ育ったこともは、バージョンアップした価値観から思考するので、さらに飛躍した発見や発明を起こします。

こうして文明は加速度的に進化してきました。

現代のパラダイムシフトの一つは、

私とは、関係性から成る情報出会って、古来から感じられてきたような固定化された存在ではないということです。

一言で言えば、「私」とは幻想であるということ。

「私」とは「点」という、あるとも言えるし、無いともいえる「0」と「1」、「無」と「有」を包摂する「空」という存在だということです。

映画マトリックスで「0、1」の数値のデータで世界のすべてが表現されていたあれです。

般若心経の「空」や、アドヴァイタヴェーダンタ、非二元の哲学、道教の「無」の理解を若いうちに理解と体感できる社会と子ども達が生まれているのだな、と思います。



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