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スピリチュアルと科学を包摂する視点

スピリチュアルと科学を包摂する視点

スピリチュアルと科学は、言わずもがな相反して対立してきた長い歴史があります。

両者は一見、相反する水と油のような性質かもしれません。歴史的にそれぞぞれの分野が、感情的に両者をこき下ろしているようなところもありました。

しかし、

科学的に解明されていないことをスピリチュアルの領域で説明できることもあるかもしれません。

また、スピリチュアルの説明では曖昧なところを科学的観点で眺めると、より理解が深まりスピリチュアルの視点では決して開けなかった、深い理解と新しい視点が手に入るように思えます。

このように、それぞれの見識が絶対だというものの見方は、偏った世界感で、自分の思いもしなかった世界感との出会いを遠ざけてしまいます。

そのため、出来るだけ科学とスピリチュアル両方の視点を包摂して現象を理解すれば、人は、これまで到達できなかった領域に踏み入れたり、新しいパラダイムを手にいいれ、革命的な変化を遂げることも出来るとおもいます。

現象をスピリチュアルと科学を包摂する視点で必要な概念

新しいパラダイムで世界を眺め、思考するために、必要なツールがあります。

科学の世界で言えば、例えばそれは、苫米地英人博士の「超情報場仮説」「生命素粒子理論」

そして、

ABC予想を説いたとされる京都大学の望月新一教授による「宇宙際タイヒミューラー理論」等の理論のように感じます。

また、他にもケン・ウィルバーの「インテグラル理論」、ベックとコーアン博士による「スパイラルダイナミクス理論」が私にとってはとても重要な視点でした。

一方、スピリチュアルの領域では仏陀の「空」「縁起」の思想。

アドヴァイタの「非二元」「ノンデュアリティ」また、「奇跡のコース(ACIM)」などが新しい観点を見出すのに重要な智慧であるように思えます。

スピリチュアル界でも意外と知られていない非二元、ノンデュアリティの概念と有害なスピリチュアル

しかし、スピリチュアルの世界ではセミナーやワークショップを行い、本を出版する立場の方々や、霊視をして除霊を行う専門職の人でも、釈迦の「空」・「縁起」の理解が及んでいなかったり、

「非二元」・「ノンデュアリティ」という言葉さえも知らない人もいます。

それはとても残念なことです。

スピリチュアルの世界では、どちらかというと知識や理論、論理といった左脳を使うよりも、直観や経験、感覚、感情、波動、といったものを重視します。

それは、スピリチュアルに関心のある多くの人の中で、左脳的な理論や知識を司る科学的視点と思考が不得手なためと、前述した科学とスピリチュアルの対立している歴史的背景によって、無意識に論理的思考が避けられているからだと思えます。

感情的にその場の空気と波動がフワフワ軽くなったり、解放感があればそれでOKというセッションが非常に多いように思えます。

この状況は、非常に危険なことだと感じます。

「空」的な観点と「縁起」また、非二元/ノンデュアリティという観点が欠けていると、

結局それは「優性思想」や「差別」をしらずしらず無意識に作り出すことになるからです。

それはセッションを受けた個人がそのような感性や思想をもつ、ということではなく、社会的な無意識にそのようなメッセージを強化していっているといった方がよいかもしれません。

だから気がつきにくいのです。

しかしながら、非二元やノンデュアリティの全ては「空」、「幻想」、「物語」であるという視点は虚無的な感覚を与えてしまいますがそれは誤解です。

私たちは、自身が思っているよりもはるかに大きな存在であり、普段「私」という自我が感じている自分は影のようなものである、ということが非二元などの観点です。

その本質的な観点が無いと、

「私という個別化された魂は、輪廻を繰り返し進化成長し、最後に神と合一する」というスピリチュアルのあるあるの物語(思考)にはまりこみます。

進化成長の印には、波動が軽くなり、カルマが無くなり、ヒーリング、リーディング、オーラが見えるなどの超能力が使えるようになる、という認識が生まれます。

ということは、波動が思い、超能力が乏しいということは、進化成長という評価軸の中では、まだまだ修行不足の未熟な下段の領域にその魂はいることになるということを暗に暗示していることになります。

もちろん波動が高いスピリチュアリストはそんなことは一言も言いません。

しかし、単純にスピリチュアリズムやスピリチュアルに詳しい人の主張の論理から考えるとその「魂のヒエラルキー」が、暗黙の内に勝手に見えてしまいます。

その「魂のヒエラルキー」は生前、死後から続く階梯であり、絶対差別の論理に繋がり、結局優性思想を導きます。

そうして、現実世界でもスピリチュアルの中での上下関係、師弟関係が生まれます。

その役割関係が問題なのではなく、そこに「空」、「縁起」の視点が入っていないと、その上下関係として師弟関係は絶対崩れ得ぬシステム関係を構築し、その者を縛ります。

こうしてカルトのグル、共依存関係が生じます。

皮肉なことに、スピリチュアルの目的は、そのようなヒエラルキーからの解放なのに、気がつかないうちにそのヒエラルキーに縛られてしまっているわけです。

科学の世界でも似たり寄ったり

では科学や日常のスピリチュアルを排した世界ではどうなのかというと、同じような力関係やメカニズムが働いています。

誰が有名な人物と親しいか、という距離感や名声でヒエラルキーが形成されます。

そうしていじめ、パワハラ、DV、虐待、共依存という現象が生まれます。

科学も日常も、スピリチュアルも、その扱う人間の知識と意識の水準で結局生まれる現象は同じものです。

しかし、スピリチュアルの方が見えない分野を扱う分、厄介な印象を受けます。

スピリチュアルでは、結局「言ったもの勝ち」で、不安と恐怖を煽り、その性質上より密室関係になりやすく、結果より強固なヒエラルキーが構築されるからです。

同じヒエラルキーならば、スピリチュアルよりも、生前、死後の論理を持ち出さない科学のヒエラルキーの方がまだ公平さは働きやすいように思えます。

問題は、ヒエラルキー的な偏った観点では新しい世界は眺めることはできません。

新しい観点でこれまで語られてきた現象を再評価することで、新たな世界が見出せるでしょう。

世界は既に新しいパラダイムに入り、起動しているので、

死後の世界、輪廻、霊現象、憑依現象などの概念をアップグレードすることで、これまで解決できなかった現象や問題に一条の光を見ることが出来ると思います。




                     

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