老判事と子守唄

私が昭和三十六年当時のころ、住んでいたと
ころは、盆地の高台一帯に広がっていた桑畑を増成して造った四十戸余りの町営住宅の一隅であった。

 堀も囲いもなく、家の表と裏をそれぞれが耕し、花を植えたり菜園にし、それをお互いの境界としていた。

 そこに住む人達は、教員、保健所の職員、家畜場の技師、警察官、裁判所職員、判事
 と職種は異なりこそすれ郷里を遠く離れ、それぞれの職場に勤める境遇と、多少の年齢の違いこそあれ、田舎の町に出来た小さな団地の住人であることなどから自然のうちに親近感が沸き、日常の買い物等に少しばかり不便はあったものの、町の文教地として発展し始めた環境の良い住宅地の人達であった。

 私の家の筋向いには、簡易裁判所に勤められる判事夫婦が住まわれていた。
私とは仕事の上での面識と、家に帰れば向こう三軒両隣というよしみもあって、言葉を交わす機会にも恵まれていた。
 
 半年、一年と住むうちに、老判事には私と年を同じくする息子さんがおられるが、それぞれ仕事の関係から離れて生活なされていることもわかり、そのことが、私共の気心と言うものをしだいに身近に感じさせるようになり、いつとはなしに薫陶を受ける機会も多くなり、より親しくさせていただいた。
 
 老判事の日課は、小鳥の世話に始まるらしく毎朝家の裏側の濡縁で餌を練り、水を替える姿が見られた。

霧深い夜明け、寒さの厳しい朝等は一回、夏ともなれば、忙しくなるようで、縁側の姿は朝と夕の二回に及ぶ。
 
 日曜日など寛ぎのある夕べ等の出会いに声をかけると、ニッコリ笑い、「今晩は冷えますが、どうですか?」と左手の親指と人差し指で盃の型をする。いつもお招きを受けるばかりで心苦しく、遅がけながら私の家でと柄にもなく躊躇すると、「いやいや心配せずにうちへおこし下さい」と、体よく断られ、ご相伴ということになってしまう。
 
 玄関というにはほど遠い戸口を開けると、四尺ほどの土間があり、その奥に杉の磨丸太で袖をあしらった上がり框がある。
 袖壁の上の振れどめと、天井との空間を利用し、小鳥の籠が並び、籠と籠との間は小さな組子で作られた障子で区切られているため小鳥の姿は見えない。
  
 障子で区切られていたりするものは、ほとんどメジロの竹籠であると教わった。
 そのようにわずかな空間も、寵愛する小鳥の為に活用しなければならない環境にありながら、夫人の心憎いばかりの気配りか、羽毛はおろか、塵ひとつもみられない。
 
「さあ、お上がり下さい」
やや細面の顔には、深い皺をきざみ、ホリの深い感じのなかで眼差しは柔らかく、ハスキーな声で私をうながす。
「お邪魔します」
上がり框の上の鳥篭に目をやりながら書斎に入る。書斎と言っても町内住宅のこと、いずれも同じ構えであり、我が家と同じ間取りの四畳半の間である。 
 
部屋のなかほどに、火鉢と小机が置かれている。
「忙しいですか?」
「はい、ぼつぼつ」
いつものとおりの二人の言葉のやりとりは、きめられた「形」のようなものである。
 
話をしながらも老判事の手は休むことなく、手順よく茶戸棚から"鳩"の形をした徳利を取り出し夫人の運ばれた酒瓶から酒が少しづつ注がれる。
 酒が入った鳩徳利は、そっと火鉢の熱灰の中に差し込まれ、ゆっくりと燗が始まる。燗の準備ができると、「ちょっと前を失礼しますよッ」と、会釈をし、立ち上がる。
 
四畳半の間の書斎に、火鉢と小机を置き、大の男が二人座ったのでは、少しの動きにも断りをしなければならないのも当然である。
 
 隣の部屋に入り、すぐさまとってかえした老判事の手には、いつもながら大切にしている自慢の釣竿がみられた。
 
刀でも取り出す様に、袋の組紐が慎重にとかれ、中からは若干の飴色めいた鮎竿が取り出され披露される。
 
なんでも京都の有名な竿師とかの作で、銘も刻まれ、相当なもののようである。
 こちらはといえば、鮎や昭八を釣って楽しむ駄竿を持っている程度であり、老判事の銘竿がどのように立派なものか識別もつかず、まして当時はすべてが竹竿の時代であったため一層そのよさというものが理解できず、知らぬ者の悲しさゆえに、
「でその竿でどのくらい釣られましたか?」
と、尋ねる。「いやあ、これはまだ使っておりません」と、返事がかえってくる。

そのような話の間にも、老判事の手は始終愛竿を握り、ひとしきり"ネル"で磨きをかけ愛でつ眺めつ鑑賞し、じゅうぶんに堪能したあとはもとの袋に納竿していく。

その一連の所作というものは、生後数ヶ月の初孫をあやす老人のように、ひとて、かえす手、すべてに慎重な取り扱いである。
 
その顔は竿にむかい、惚れぬいているといった充実した顔にかわっており、眼尻もなにも垂れ下がってしまった好好爺そのものである
 
 聞かされた?竿談義が終わりになる頃、鳩徳利の燗もほどよいころとなっている。
 
ここまではいつもの型通り?でまったくご茶席か何かの作法のようなものだなっと思ったほどのものであった。

 老判事と私とでは、年齢的に相当の開きがあるため、酒量にも差がつき、わたしは酒を飲み老判事は酒を嗜む。
 
世の常として、嗜む方のピッチはついつい飲む側につられてしまうが、鳩徳利のゆっくりとした燗は、老判事の体調にあったものであろう。が盃が交わされるうちに別に崩れる気配もないままに、かえってくることばが少しづつ遅れ始めてくる。
 
私も酔うほどに、こちらの言ってること自体ピンボケになっていたのかも知れないが、酒飲みは、自分だけがしっかりしていると思うもので、まことに幸せなことである。
 
この様な状態になってくると、時間の観念はどこかへ消えかけているが、私にとってはいつ何時呼び出し連絡があるかわからず、それに対処できるだけのことは近くしていた。
 
「おとうさん、もうボツボツ息子に頼みますか」
「ううん」
「それではお父さんを頼みますよ」
夫人は笑みを浮かべながら会釈し、私のまえの小机を片付け始める。
 
いつからそのようになったのか定かではないが、三、四回目あたりの食事の席で俄然意気投合した日からのように記憶している。
 
とにもかくにも酒の終わった好好爺は、私の父親となり、大きな子供にもなる。というのも酒の終わった老判事は、考える人の如く黙ってふいている。
 
私は大きな子供を抱き抱えるように、膝の下と脇の下に手を差し入れ、私の膝の上にゆっくりと移す。
膝の下にいれていた手は一度抜き替え首の後ろにまわし、回したその手と右の手を老判事の左肩辺りで組み合わせ、ゆっくりゆっくり
ゆっくりゆっくりと体を揺すぶり始める。

それに合わせて小さな声で、子守唄をくちずさむ。
体を揺すぶる、と言っても大きな体をした好好爺を抱いているので、私の上半身だけしか揺れていないかも知れない。がそれでも子守唄を口ずさむ。
 
心地よい加減の時の子守唄であるためか、膝の上の好好爺はいつの間にか眠ってしまう。
あまりの寝つきの良さに、本当に眠ったのかな?と卑屈な考えをしたが、私の真正面に座り、私の膝の上の夫の寝顔を眺める夫人の眼差しは、本当に愛子の寝姿を気遣う温かい母親そのものの視線であり、それを身近で知ったとき、私の下賎な考えは消し飛んでしまった。
 
大きな子供が寝入ってしまったことを確かめると、夫人は私に目配せをしてくれる。
 
それからが大変である。元気盛りの事とはいえ、一人の男を抱いたまま静かにゆっくり立ち上がらなければならないからである。
 
組んでいる両足を踵あたりに力を入れ、ゆっくりと腰を浮かす。
 
そうして右、左と両膝を立て、やっとの思いで立ち上がる。
 
寝入りばなの赤子の目を覚まさせないように気遣いながら寝床へ運ぶ姿は、真実年老いた我が親を抱き抱えている錯覚にとらわれた。
 
隣の部屋との境の襖を夫人が開け、しかれている寝床の上に静かにおろす。頭の下になった腕も目を覚まさせないように抜く。
 
夫人はそれを待ち兼ねていたとでも言うように、すぐさま私のそばに近寄り、好好爺の枕の具合を見計らっている。 
 すっかり白いものが多くなっている髪を、こざっぱりまとめているが、その数本のおくれ毛が頬にかかり、なお一層の清潔感を感じさせてくれる。
 
「ご苦労様でした」柔らかい眼差しで言葉をかけられ、ようやくにして二人の小さな一杯がおひらきとなる。
 
「ご馳走様でした」
「いやこちらこそ、お休みなさい」
「失礼します」
玄関といちあか、外口の先で老判事の目覚めに気をつかい、お互いの唇だけしか動かしていないほど小さな声で送られ、静かに戸口を締めて帰宅する。

以来二十年余り、馬齢を重ねるなかで、初孫の寝顔を眺め、子守唄を口ずさむとき、私は桑畑の高台にあった町営住宅の老判事を思い出す。
 
人生のはげしい苦悩や歓喜、周囲いっさいの環境にひたることなく、喧噪の渦中をおだやかに静観し、和光同塵の喩えそのままに高い知識や徳を面にあらわさず、若僧であった私布衣の交わりと言うものをしらしめてくれた思い出に包まれる。
昭和六十年五月  終

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