製図器とかつぎ屋のアルバイトパート2

 同行の竺田さんも、暗がりの中で蚊を叩いたり、手でおったりしていたが、そのうちに、私を指先でつつくので何事かと顔を寄せると、「リュックサックの中に足を入れたら、足は蚊に刺されんぞ」と、耳打ちしてくれた。
 暗闇の中での蚊の攻撃も、頭や顔等は耳に近いため、飛んできた蚊の羽音で、おおよその見当がつき、刺される前に追い払ったり叩き潰すこともできるが、素足に下駄履きの足拵えではどうすることもできなかった。

刺されて蚊を叩いてみたところで仕方のないことであるが、人は皆んな必要以上に叩いたり、渋い顔をしながら刺されたところを掻くだけの全く無力な動物であった。 

私は竺田さんに教わった通り、枕にしていたリュックサックを広げ、その中に足を入れ、少し窮屈ではあるが、それさえ我慢すれば蚊に刺されるより大分ましで、汚れた浮浪者同様に、まんじりともせずに一夜を明かした。

 真夏のことで夜明けも早く、四時過ぎには道後平野も東方の山頂から白じろと夜が明け始め、寝不足ながらも、馬糞紙を使って作られたバス乗車の順番券を手にすることができた。

やれやれと言う気持ちがし始めると、眠気が急にぶり返し、揃えた両脛を抱き抱えるようにし、その両脛に額をつけて蚊の襲撃を受けなくなった夜明けから一刻の睡眠をむさぼっていた。

 当時の私は、将来エンジニアになる事を志し、夢多き青春時代を勤労奉仕、防空演習等についやし、親のすねをかじりながら学校に行かせてもらっていたが、昭和二十年七月二十六日の松山空襲のために家は焼かれ、市内の在住の罹災した親戚三家族と共に、縁者筋に当たる伊予市内の仏寺に寄寓していた。

 わずかばかりの財産を失った上、この世の不幸というものを一手に浴びせられるごとく、戦災二ヶ月後の九月二十五日、病弱であった父までも奪われた。食気盛りの私達男兄弟二人を抱えた母一人の細腕で生活してゆくことは並大抵のことではなく、日々の生活においても芋粥をすすり、大根葉の漬物でも、三度が三度口にすることができることを、よしとしていた。

 当時学用品として必要な製図器は、とうてい買ってもらえるものでないことは、十四歳の子供心にも痛いほど理解できた。
 そのうえ十二本とか十六本とかのセットになっている製図器は、品不足のために非常に高価で、おいそれと戦災児やその家族の手の出るものではなかった。

買えないと思えば思うほど欲しくなるのも、事実であり、それを求めるために各学期末の休日を利用しては、東レ松前工場、建設省直轄河川工場等でのアルバイトをしては、製図器を手にする夢をえがき続けていた。

 そんな矢先、疎開先の縁者筋から、「芋の粉なら問題ない。上浮穴の知人を紹介してあげる…」という話となり、渡りに船とばかり製図器を求めるべく、俗に言うかつぎ屋のアルバイトに変身した。

 当時は、国鉄バスと言っても、通常のトラックを板で囲い屋根をつけ、荷台の上に板の座席がとりつけられ、乗車口は現在のレントゲン車のように後部にあるだけの粗末なものであった。車内は暗く、座席から高い位置に数箇所の窓が開けられているが、その位置が高いため、車窓を流れ去る風景を眺めると言った情緒的なものは何もできず、単に「人」という荷物を運ぶにすぎない搬送車でしかなかった。
 
 このような自動車でも朝一番の自動車に乗るとなると、蚊の責め苦に堪えながら順番を待たなければならない。行先は上浮穴群柳谷村との事であるが、生まれて始めての遠出であり、情けない事ではあるが、不安七分に欲三分と言うのが本当の気持ちであった。

      つづく

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