銀杏.おさんNo.②前文つづき

 
そのためではないが、先の男の言葉にはのることもなく、今しばらくは童心にかえるべく、その場に腰を屈めてみた。 

 そして餓鬼よばわりされていた当時の子供の目線の高さで今一度、小さな祠の一角を見回した。ところがその祠の東側に隣接する家の壁際ニ尺ほどのことろに高さ三尺余りの石碑が建っている。
 
それまでは、日頃立話の姿勢で漫然と物を見ていたためか全く気が付かなかった。 
 目線を変えただけのことで、小さな石碑を見残すこともなく、お目見得できたのだ。
懐中電灯を灯し、碑に刻まれた文字にライトを当てる。明かりに浮き出た碑文には、
 

 狸名は  おさんと呼ばれ 月おぼろ
              一貴
 
と、柔らかな書体を刻した句碑である。
 もちろん"一貴"という俳号をもたれる俳人については、浅学の私にわかろうはずもない。ただその句碑をみた瞬間、わずか二坪ほどの祠でも句碑が建てられ、何か由緒ありげな情景をかもし出し、見る者をして郷愁に似たものを感じさせてくれるとともに、地の人達だけにしか感じ得ない"忘れかけた温かみ"というものを、投げかけていることに羨望せずにはいられなかった。
 
しまっていたカメラを再び取り出し、句碑を撮す。撮し終わった手で句碑の面を撫でる。
沈思黙考するほどの大袈裟なものではないが、句碑の前で一呼吸の間を費やした。 
 
やおら後ろを振り返り、木を伐ったらどうかという話を持ち出した男に、
 「ところで面白い句碑があるが、一貴とはどなたのことそういなぁ…それにこのお狸さんは"おさん"と言うのかや…」と、やつぎ早に尋ねかけた。男は今までの話題とはまったく違って来た話の方向に戸惑っている様子が見えた。
 
やったッ!!おさんほどの神通力はないが、ゆっくりと、愛でるがごとく面を撫ぜ、人差し指で碑文の刻みをたどり、軽く腕を組んでの一呼吸の間。時間にすれば三分か四分の間が、木を伐ると言う男の口を封じたのだ。  

 私も心の内で(よそ者のわしでさえ、ええところじゃと思いよるのに、この男は何を考えとるんじゃろ、他の者じゃとて答ができまいが、理屈を言うまえにもっと勉強せい)と言いながら、いつまでもその場にとでまるわけに行かず、
 「この婆さんも、大きな銀杏が残っておりお狸さんもあり、娘の当時のことの面影があるけんお参りきよるんじゃなかろうかなあ。
 

ここがアスファルトやコンクリートで固められてしもたら、今の銀杏通りじゃのいう情緒なんかはなあにもないぞなッ…賽銭箱はさがしてみますけん、何か情報でもあったら教えて下さいやッ。お願いします」
  声を残し、痺れをきらして待っていた黒岩警部補の車に乗り込む。
 
「パッとせんなあ〜」
呟くような小さな声で、黒岩警部補が声をかける。
「それでも、おさんの町は面白い通りじゃったなあ!!」
と、答える。彼にすれば、筋の合わない私の返事を不思議に思ったのか、「エエッ?」
声をだし、眼鏡の奥から、私を見つめていた。
 彼と私は、同じ現場へ行き、同じ物を見聞きしてもある点においてはまったく異なったあ考え方もし、忙中閑を得、一竿の風月を楽しむのと同じ心境になることもあろう…,

闇の中のライトの中には何もない…,
「前方。自転車ッ」

何もないのに私は声を出し、彼の視線を前方に戻させた。
 
暗い車の中で、私は独り笑いをした。
 それは、多所者の私が他所者なりに、仕事を通してはありはするものの小さなふるさとを知ることが出来、その上に
"おさん"と知り合うことが出来たことに加えて一方では句碑を求め東奔西走している「かがりび」編集の木屋先生の顔がなぜか交錯してくるからだ。
 
 独得のの風貌の中で、
 
「こんな男が小癪にも…句碑の事を書くなんて…年じゃわいなあ」
  
とか言いながら短く刈り込んだ白髪頭を撫ぜている様子が幻影となって現れる。
  
 おさんのせいかな?…やはり独り笑いをせずにいられなかった。
 署の門前に帰り着く。ライトの中をなにかが横切った。あれはひょっとしたら、
"おさん"だったのではなかろうか。終

かかりび   昭和六十二年九月号より

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