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「賢い人の秘密」を読む - ⑦証拠

さあ、土曜日だ。

土曜日は、哲学的な目線で、精神・社会・人生などの形而上的な世界の原理を探求していこうと考えている。

現在はクレイグ・アダムスの「賢い人の秘密」を読み進めながら、ボクが受けたインスピレーションを言語化して書き連ねている。

ご興味おありの方はお付き合いいただけると幸いだ。


論証の着地点は人によって異なる

さて、前々回の記事で書いた「演繹・帰納・類推」についてだが…

これらは、ボクらが何かを論証しようとするときに頼らざるを得ない方法だ。しかし、その演繹・帰納・類推はあくまでも「思考方法」である。つまり、使う人によってその思考経路が異なり、当然使う人によって全く違う場所に着地する。

そして、先日ボクが書いた " ダニエル・カーネマン著「ファスト&スロー」を読む - 脳内に張り巡らされる連想リンク " の記事の通り、ボクらは論証を行いながらも、「システム1」の機能によって連続的で自動的な連想リンクを張り巡らせている。

証拠

当然、議論がきれいな平行線で進むことはあり得ない。
異なる思考法で異なる連想リンクである以上、絶対に(複数の人の)思考方法が折り合うことはない。議論はその前提で行われなければならず、論証はその結論に至った判断の経緯が「真」であることを示すことだ。

そのためには「証拠」が必要だ。
例えば、演繹によって結論を導きだそうとする際、前提を定義する必要があるが、その前提が正しくなければ間違った結論になってしまう。なので、前提が正しいという「証拠」が必要になるのだ。

科学的根拠と哲学的な証拠

証拠には「科学的なアプローチ」と「哲学的アプローチ」が存在する。

科学的根拠(最近はこれのことを「エビデンス」と呼ぶ)とは、その名の通り、科学的な方法を用いて得られた特定の事象や現象に関する客観的で検証可能な情報のことを指す。それは、実験や観察、統計分析などを通じて得られたデータ、およびそれらに基づいた理論的な説明であるべきで、他の人がその実験や観察を行って同じ結果が得られるもの、つまり再現性があって検証可能なものでなければならない。

一方で、哲学的な証拠はややこしく、いくつかの考え方がある。

ひとつは「経験主義」だ。それは、目に見えるもの、触れるもの、聞くものといった「感覚的な経験」が最も確かな証拠であるという考え方だ。二つ目は「合理主義」で、それは経験よりも前に存在する概念や原理、つまり「合理的で理性的な思考そのもの」が証拠となるという考えだ。

三つ目は「懐疑主義」であるが、これは、経験主義や合理主義のような経験や概念、理性的な思考では絶対的な確実性を持つことはできないという考え方だ。つまり、先の二つに比べると「科学的根拠」に近い考え方であると言えるだろう。

もちろん「科学的に考える人」であるボクは「懐疑主義」に近い思考方法を取ることが多いと思っている。

証拠の評価

そして議論をする際に、提示した(提示された)証拠がどれほど信頼性があるか、また主観的なものでないか、そしてその証拠が証明したい事柄とどのくらい関連性が高いのかを評価しなければならない。

哲学的な証拠は、時代や文化、個人の価値観によって異なる。
それは、評価も同様だ。そして同じ証拠であっても、評価する人によって解釈が異なる。

つまり、人と人とで議論をする以上「どんな証拠であっても絶対的な確実性を持つことはない」ということを、ボクらは理解しなければならないだろう。

(続きはまた来週)



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