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空間によって宇宙は私を包み、思考によって私は宇宙を包む。

 周囲を山脈に囲まれて、下草の点在する平原が広がっている。山脈を越えると海を遠望することもできるが、海風は山脈に阻まれて平原までは届かない。それゆえこの平原は一年中いつでも乾燥している。平原の中央を横切るように一本の道が伸びている。古代から利用されてきた通商路だとされる。最初に平原を通過した隊商の足跡を次に訪れた者がなぞり、そのまた次の者も同じ足跡を辿り、そうしていつしか重なった足跡が踏み固められ、道になった。道は頼りなげに揺らぎながら、それでいて明確な一本の線として平原を二つに分割している。
 南中を過ぎたばかりの午後のはじめの太陽が照り返す道を、旅人がひとり歩いていた。バックパックを背負った若い旅人はうつむき気味に数歩先の地面に目線を投げながら、朝から動かし続けてきた脚をまた一歩前に進める。時折立ち止まっては額に手をやって汗を拭い、周囲を見渡した。路上から眺めると平原を縁取る山脈が青白く空に浮かんでいるように見えた。あれは山なのか、あるいは雲だろうか。しばし景色を眺め、また歩き出す。
 旅人は、熱射に揺れる遠い道端に黒い影がうずくまっているのを認めた。歩を進めると影は次第に大きくなり、輪郭がはっきりとしてきた。なにやら大型の動物が横たわっているようだ。胴体を地面に横たえ、四本の脚を片側に投げ出している。先端に房のついた尾を振って動かしているのも見えた。頭は胴体に隠れていたが、体つきはライオンに似ている。旅人は動物から十分な距離をとって立ち止まり、目を凝らした。開けた平原の一本道で、襲われたら逃げ場はない。どうしようもなくその場で立ち止まっていると、動物が突然声を発した。
「私の前まで、おこしなさい」
平原中を響き渡るようでもあり、耳元で囁きかけるようでもある、そんな声だった。旅人の体は言われるままに動物のいる方へ向かって歩き出した。
 目の前で動物は上体を起こし、顔を旅人に向けた。旅人は思わず声を漏らした。人間の上半身が、旅人の視界を覆っていた。前脚をすっくと伸ばし、上体を反らして旅人を見下ろしている。スフィンクス。旅人は古い神話を思い出していた。古代より人々からスフィンクスと呼ばれてきたその動物は体を一度大きくゆすった。乳房が揺れ、毛並みが風をはらんで波打った。深海を思わせる深い青に星座のように白い斑点が散らばるその毛並みは、旅人に学生時代に見た中国の古い茶器を思い起こさせた。スフィンクスはまた旅人に語りかけた。
「この道を通りたければ、私の出す謎に、答えなさい」
旅人はじっとスフィンクスを見つめ、次の言葉を待った。スフィンクスは胸いっぱいに息を吸い込み、それまでより一段と低く振動が地面から這い上がってくるような声色でもう一度言葉を放った。
「私は問うー私はお前に問うているのか、それとも、私自身に問うているのか」
スフィンクスの声に平原全体が震え、しだいに収束していった。沈黙。旅人はゆっくりと周囲を見渡し、唾を飲み込み、向き直って口を開いた。
「何も謎はありません。そのままのことです。あなたは私に問いながらご自身に問いかけているのであり、私もまた、そうなのです。」
旅人には返事を聞いてスフィンクスが頬を緩めたように見えた。それまでの対話で旅人はすっかり喉が乾いてしまったことに気づいたが、朝から歩きっぱなしで旅人の水筒にはもう水は残っていなかった。旅人はスフィンクスに少し図々しいお願いをしてみる気になった。ボトル一本の水をもらえないだろうかと尋ねるとスフィンクスは土の中から水のたっぷり入ったボトルを掘り出した。
「これをお前に与えよう」
「でも、私の水をお前に渡すのだから、お前はお前の水を私に渡さなくてはいけないよ」
「私の水は、言葉です。私はあなたのために語るのです。」
言い終えた時にはスフィンクスがもはや自分に視線を向けていないことに旅人は気がついた。スフィンクスの視線は旅人の頭上を飛び越え、平原とそれが途切れる縁の山脈までを見渡していた。同時にスフィンクス自身の背後までも把握しているのではないかと旅人には思われた。スフィンクスは時の流れから切り離されたように姿勢を変えずもう尻尾さえ動かさなかった。旅人もスフィンクスから視線を離し、道の先を見据えて最初の一歩を踏み出した。一歩。また一歩。これまで辿ってきた道の先に歩を進め、スフィンクスから遠ざかっていった。
 午後の太陽がまた少し西に傾いていた。


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