ご質問にお答えして
冒頭に「ネタ歓迎」ということで、何か書いて欲しいテーマなんかを募っていますが、こんなご質問をいただいたので、書いてみます。
通常、ワークやセッションの中でこうした宇宙の法則的な方向でのご質問をいただくことが多いですが、ほぼチャネリングでお答えしています。
noteはそういう意味ではオフの場なので、こうしたベクトルのご質問は、お仕事にならない範囲でお答えしますね。
【ご質問】
よかったら教えてください。
ある時「AはBである」と確信してそれを表したりします。
しかし後で「AはBとは言えない?」と思ったりして、自己否定が始まります。
自己否定する必要ないと思いますが、自分なりに正しくありたいという気持ちとの関係についてよかったらお教えください。
それと関係するかわかりませんが、このこと↓がよくわかりません。
「人生の場面場面で深刻になることは、一見ストイックで一生懸命な姿勢に見えますが、目の前のことに対して抵抗が強く出た状態なだけで、ベクトルとしては逃避やコントロールに近いものです。」よかったらお教えください。理解したいです。
ということでした。
ネタのご提供をありがとうございます。
>自分なりに正しくありたい
それは、何に対してでしょう。
それが自分自身に対してならば、AはBだと思った時の自分も、AはBじゃないと思った時の自分も、偽りなく受け入れている状態が、「自分自身に対しての正しい在り方」というか、誠実な姿勢であるわけです。
瞬間瞬間、自分自身が正解だと思うことだけを、本当は誰もがいつも選んで生きています。
他人から見てどうであっても、将来の自分からみてどうであっても、その瞬間の自分にとっての正解の範疇でしかその時点では考えつかないし、選択肢にあがってもこないのだから、そのまま受け入れていくことの方が本来は自然な在り方、と言えるわけです。
自分にとってではなく、他者からみての正しさを意識している場合は、極めて自然な自身の行為であっても否定が入ることがあります。これは、
「自分が言ったことは筋を通し続けるのがかっこいい」
「コロコロ言うことが変わる人間は信用されない」
みたいな集合意識が、特に日本には結構根強くあるんだと思います。
このため、学校でも家庭でも、メディアでも、そう教えてきた部分が多かったかもしれません。
なので、この自己否定や落ち着かない感じなんかは、自分自身というよりも集合意識経由な可能性が高いかもしれません。
ですが、これからどんどん、全体の意識変化も加速していくので、こうした古い集合意識なんかもだんだん廃れていくと思います。
既に、若い世代にいくほど、コロコロ変えることが普通になってきています。世の中のシステムそのものも同様に、簡単に変更や修正できるようになってきていますしね^^
さらには、インスピレーションにおいては、これまで思考してきたことの斜め上からガーンと落ちてくる場合が多いですし、そうすると、今まで言ってきたことと、ひどいと真反対の内容の場合もあるわけです。
そうなるともう古いエゴが慌てようが置いていくしかありません。
パラダイムシフトとは、いつも矛盾を指摘しようとするエゴなんぞ蹴散らした向こう側にどん!とワープさせてしまうものだからです。
実際の研究分野などでは、長年の定説とされてきたことが、あることが解明された瞬間に別の説に取って代わる、なんてことは良くあります。
つまり、深く洞察していくほど、そうした軌道修正の可能性も多くなるとも言えます。
普遍的な説のように言われていることでさえも、長い文明の推移の中では変わっていかない方が稀であるのです。
まずは、そのような感じの答えになりました。
さあ、わたしのこの答えも、明日には180度変わるかもしれませんよ^^
次ですが、
「人生の場面場面で深刻になることは、一見ストイックで一生懸命な姿勢に見えますが、目の前のことに対して抵抗が強く出た状態なだけで、ベクトルとしては逃避やコントロールに近いものです。」
これは、わたしが運営(という名の放置)しているツイッターの自動ボット
のメッセージのひとつですね。
基本的にこのボットでのメッセージは、「おお!そうだな!」と受け取れる時にだけ、受け取れるメッセージのみを受け取っていくと良いものです。
メッセージごとに、少しずつ波長が異なっているので、今の自分自身がすべてのメッセージにしっくりいかないのが自然です。
分からないものは、基本的にはいったんスルーしておいてみてください。
また、今回の回答を読んでも、この時点では「思考」で理解したように感じているだけなので、深い意識での理解はまた別のタイミングで「ハッ!こういうことか!」と感じる瞬間として別途やってくると思っていてください。
さて、その上での回答ですが、
何かについて深刻に捉えている時、目の前に映し出されている事象に感じる多くのことの中から「不安」という感覚に対して、突出したプライオリティで反応し、対応しようしています。
これは、不安という感覚は、生存欲求を最も刺激するので、優先的に対応しようとする本能のようなものでもあるにはありますが、非常に視野が狭くなっている状態です。
そして、実は生存欲求だけではなく、他者の思考パターンのコピーであったり、そのコピーに沿って繰り返し当てはめてきた過去の体験から強化したパターンもあります。(幼い子供は滅多に深刻になりませんね)
そうすると、「これは深刻に捉えるべき事象」と思考で判断した瞬間から、それにどうリアクションするのかも、引き続き誰かのコピーになりやすいです。
不安に優先的に対処しようとする時に、「こうきたらこう」というマニュアルに沿って悩んだり、誰かが過去に解決出来た前例のある方法で取り組む方が、脳にストレスを感じにくく、安心であるからです。
でもそうすると、その「深刻アラート対応マニュアル」に沿っている間は、その事象から本当に自分自身の真ん中が感じるはずだった不安以外の豊かな感覚や、本当にその事象を通して気づくプロセスや受け取れる恩恵から目を逸らしていることにもなるのです。
目の前の事象を通して本当に自分自身が受け取っていけるはずのことはスルーされた状態で、反射的に対処療法的に対応して「この問題は対処済」ということにされてしまいます。
そうすると、もうこの事象からそれ以上何も受け取ることはできません。
そこでハイアーセルフは、本当に自分自身が受け取るまで、また似た事象を繰り返し見せてきたりします。
「ええーっあの時の悩みはもう“解決”したはずなのになんで~」という時、ハイアーセルフが、再度その体験からクリエイティブに恩恵を受け取っていく機会がもたらされようとしているのかもしれません。
本当に巧妙に、知らず知らずに反応して「対処」してしまっている場合があるよ、という話でした。
こんな感じの回答で大丈夫そうでしょうか?
また皆さんからの記事要望などお待ちしております☆
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