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家族ずかんVol.15(運動会から今を見直す)

秋、運動会シーズン。子どもが3人ともなると、誰の運動会がいつで何に出るかを把握するところから意識的に始めることになる(私だけ?)。

なんと上の子の運動会(Spots day)は、とっくに終了していた。無観客開催は親の無意識のうちに開催される(私だけ?)。

運動会のたびに、朝比奈あすかさんの『人間タワー』という本を思い出す。

大掛かりな組体操をやるかどうかについて、学校・先生・保護者・マスコミ・社会の動きを丁寧に描いた作品。


2020年に発売された作品。娘の学校でも組体操がちょうど2019年から無くなった。そして、まさに小説に出てくる対立構造と同じようなものが存在していた。


「組体操(というみんなの犠牲でやり切る一つの偉業)をやってこそ卒業を迎えられる」、卒業前の儀式というストーリーを描き過ぎていたのだと思う。

「運動会の華」「1つのものを作るためにみんなが少しずつ我慢する」「完成の喜び、絆と感動は忘れられない。」

消極的なものは、「自分たちから(組体操を)できなかった代になりたくない」等々

これに対して、

反対は「危ないことはやらせないでほしい」。非常にシンプル。

これは2019年、つまりコロナ直前の話。


現在2021年。

作り上げたストーリーは、時が経過すると風化する。

2021年秋、組体操について惜しむように話す人はもういない。




保護者から見ると、学校という空間は、結論「ありき」に見える。圧倒的に安全な方へ傾いている結論。コロナ後は特に、問答無用の「結論」だらけ。

これは保護者や社会からの非難が巻き起こしている結果でもある。責任追求をされないように、万が一のための舵取り。

子どもたちは自分たちの経験や、先輩から聞いてきた物事の変化に戸惑っているように見える。

「集団」=悪? 「外出」=悪? 

全てのWhyは「Because コロナ!」で、集約される。

君達の「つまらない」は繰り返される。次に起こるであろう「つまらない」も予想してくる始末。


「つまらない」「つまらない」「つまらない」



怒りとあきらめの呟き。子どもたちをぼんやり見て考える。


まず、変わるべきは自分(たち)?

批判しても、誰かが傷つくだけ。嫌な思いをさせてしまうだけ。それを次の提案やパワーに変えていく力に。「つまらない」に責任をとってもらおう。

自分たちが動いてもでしゃばらない時代。できることをやれば良い。みんなで集まれないなら、少人数で何かをすれば良い。

今まで学校にやってもらっていたこと、それが有り難すぎたのだ、と。不思議なことだったのかもしれない、と。そう、組体操みたいに。

should do「ありき」ではなくて、want to do「ありタイ」を考える。

やりたいことをやってみよう。ルールも決められる。変えていける、選択できる。それだけのパワーをたくさんの「つまらない」で蓄積してきたはずだ。


ひとしきり考えた後、伝えてみた。

「やりたかったことを、やりたいと思うように、自分たちのために考えてみたらどうかな。」

「え?」

「いいの?」

協力するわ。どうしたいか詳しく教えて。

「ほんとに?」

顔がみるみるうちに赤らんでくる。期待と不安と混じり合っているが、しゃかりきにメモを取り出す(字、きたなっ…)。





どんなことが出てくるのか。Halloweenお泊まりなんてホラーすぎる企画も予想しながら、夏祭り、ダンスパーティ?

ま、なんでも良いか。 You need no permission to party ! 

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