別れは突然のようで、いつか来るもの。

私の心の中にいつか会いたい必ず会いたかった人がいました。
いつまでもお元気でいてほしい、お元気でいらっしゃるはずと勝手な思い込みをして、要は勇気を持って一歩踏み出せなかった。
この心の奥底でいつも気になって頭をよぎるのに、連絡しようとする心に変に相手を気遣い勇気を出して連絡を後回しにした自分が情けないと今日ほんとに深く悔やみました。
97歳で私の師匠は永眠されました。
ご高齢の先生に何度も電話するのもなぁ、無理に外出させるのもなぁ、、、と、会いたいのに、気になる気持ちを蓋をして、連絡をしなかった。
また会いたいなーっていう先生のお言葉に誠実に向き合わず、また連絡しますーと言ったきり、何ヶ月もまた遠のいて、訃報を知ってすんなり会いに行く自分を深く深く責めたいです。
情けない。
待っててくれてたのかなと思うと、胸が張り裂けそうです。
緑内障を患って、教室を畳むしかなかった先生。
23歳から公民館を借りて、先生が指導された生徒さんは何百人に上ります。
震災を乗り越え、時代が変わっても安いお月謝でたくさんの子どもたちが字を習えるように尽力を、尽くされた先生。
先生には字がすべてなのに、お亡くなりになるころにはほとんど目が見えなかったそうです。

先生は日本のお方で、私は朝鮮・韓国人です。
もし私が日本人だったら先生はもっと喜んでくれていたのではないかなと思うことがありました。
本当のおじいちゃんのように感じているけど、
私は年を重ねるごとにそれを壁と感じてしまっていたのでしょう。
先生は優しいのと同時にやはり威厳がありました。すごい先生なんだ、私もともだちみたいにしたらいけない。と、思いだしたのです。
通名で通っていたのを本名に変更してから、もしかしたら私が意識しだしたのかもしれません。
なので、
やはり、私にはおじいちゃんではなくて先生で、先生から私は生徒なんだと。
無邪気だった若い頃とは違い、大人になるにつれてその意識が強くなったんだと思います。
当然かもしれないですね。

先生の遺影と遺骨を目の前に涙が溢れました。
そして自分を責めると同時に、自分がいましないといけないことは何なのかをはっきり知らされた気がします。

共に過ごし指導してくださった30年間を振り返りながら、自分の使命について考えました。
そしていま思うこと。
それは、
自分の勘を信じて、揺るがない、進むのみなのだと。

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