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親鸞の「自然法爾」とは——吉本隆明の『今に生きる親鸞』を読む

この「自然法爾」は、親鸞の最後の思想です。つまり「おのずから」ということの理解です。心の底から阿弥陀仏を信仰して名号を称えれば浄土へ往けるという浄土教の理念とはどういうことか、親鸞は心の持ち方を含めて解釈しています。それは、自分のほうから計らわない、意図を持たないことが「おのずから」ということだと、親鸞は言います。(中略)
善行しようとか、修行してひとつの境地を獲得し、それで清浄の世界へ往こうなんて考えたら絶対にだめなんだ。なにも計らわないで自然にしていて、それで光に包まれたような状態になって名号を称えるということ、それが浄土へ往くことである。そのときの浄土とは、ちょうど生と死の「中間」でもって、生のほうも照らし出せるし、死のほうも照らし出せる場所なんだと、親鸞は考えたのです。

吉本隆明『今に生きる親鸞』講談社+α新書, 2001. p.151-153.

吉本隆明(1924 - 2012)は、日本の詩人、評論家、思想家。「戦後思想界の巨人」と呼ばれ、1950年代より、文学・思想・社会・政治・宗教などの幅広い分野・状況に対して、精力的な発信を続けた。著書に『共同幻想論』(角川書店)、『ハイ・イメージ論』(福武書店)、『決定版 親鸞』『親鸞復興』(以上、春秋社)などがある。

本書は、それまで親鸞関連の書籍を何冊も書いてきた吉本隆明が、一般読者に分かりやすく親鸞を解説するという形で、当時77歳の吉本が語りおろしたものをまとめた一冊である。親鸞の主な思想である「本願他力(ほんがんたりき)」「悪人正機(あくにんしょうき)」「自然法爾(じねんほうに)」「往相(おうそう)、還相(げんそう)」などの考え方が、吉本なりの解釈もまじえて語られている。さらには、親鸞思想の現代的意味として、高齢者問題や死の問題、倫理の問題などについても最後の章において、吉本の考察が展開されているのも特徴である。

親鸞といえば「悪人正機」説が有名である。「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」という親鸞の言葉は、善人よりも悪人のほうが浄土へ往ける近道を持っている、という一般常識とは反対の意味である。なぜ悪人のほうが浄土に往きやすいと親鸞は考えたのか。吉本はいくつかの理由を親鸞が挙げていると言う。まず、阿弥陀仏の願いはもともと「煩悩具足の凡夫」のため、あるいは「悪人成仏」のためにあるのだと言う。さらに、善人は「善いことをしたら浄土に往けるだろう」という考えをもちやすいからだと親鸞は説く。善いことをしたいという気持ちが無意識に出てくるときはいいが、人をかき分けてもしたいとか、人を強制してもさせたいとかになると、それは一種の「計らい」であって、「自力」であるからいけないということになる。

親鸞は「どんな自力の計らいも捨てよ」と繰り返し説いたという。自分ではどんな計らいも持たない。浄土に近づくために、絶対の他力を媒介として、信ずるよりほかにどんな手段も持っていない。この「本願他力」こそ、究極の境涯であるとした。こちらから計らったらダメなんだということを親鸞は繰り返し説く。この思想の到達点が「自然法爾(じねんほうじ、じねんほうに)」である。親鸞が晩年、弟子に語り、弟子が聞き書きした『自然法爾章』にそれが書かれている。浄土の宿主(阿弥陀仏)のほうからくる光明の志向力を信じて、一ぺんでも、なんら計らうことなしに念仏を称えるという状態に自然になっていったときに、その両方の光(志向性)が向き合う。そして、行きあったときに必ず浄土に往ける、その行きあったときの自然の状態を、親鸞は「自然法爾」と呼んだ。

この親鸞の「計らない」ことが真の意味での善行であるという思想は、「利他」の本質にも通じており、日本的な意味での「自然」と深い関係があると、哲学者の西田幾多郎が述べている。西田は『日本文化の問題』の中で、親鸞の「自然法爾」に言及しながら、「おのずから」つまり「計らない」という意味での「自然」に特別な意味を見いだしている。

親鸞の自然法爾(じねんほうに)というごときは、西洋思想において考えられる自然(しぜん)ということではない。それは衝動のままに勝手に振舞うということではない。それはいわゆる自然主義ではない。それには事に当たって己を尽くすということが含まれていなければならない。そこには無限の努力が包まれていなければならない。唯なるがままということではない。しかし自己の努力そのものが自己のものではないと知ることである。自(おのずか)ら然(しか)らしめるものがあるということである。

西田幾多郎『日本文化の問題』岩波新書, 1940.

「善」とは何か、「利他」とは何か、「自然」とは何か。親鸞に言わせれば「おのずから」ということに尽きる。しかし、これは確かに西田が言うように「あるがまま」「なるがまま」とは違う。「レット・イット・ビー」(レノン=マッカートニー)ではない。そこには「自力」を頼むことのない自己努力が含まれるのだが、無心に為すということ、西田のいう「無限の努力」なるものが含まれているべきなのだろう。




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