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民主制と共和制はどう異なるか——カント『永遠平和のために』を読む

厳密にいうと民主制は必然的に専制になる。というのは民主制の行政権のもとでは、一人(同意しない者)がいても全員の賛同とひとしく、その結果として、全員ではない全員が決めていくことになる。

イマヌエル・カント『永遠平和のために』池内紀訳, 集英社, 2015. p.30

イマヌエル・カント(Immanuel Kant、1724 - 1804)は、プロイセン王国の哲学者であり、ケーニヒスベルク大学の哲学教授である。『純粋理性批判』、『実践理性批判』、『判断力批判』の三批判書を発表し、批判哲学を提唱して、認識論における、いわゆる「コペルニクス的転回」をもたらした。

『永遠平和のために』(Zum Ewigen Frieden)は、晩年のカントが1795年(70歳時)に著した政治哲学の著作である。副題は「一哲学的考察」(Ein philosophischer Entwurf)。本書はフランスとプロイセンがバーゼルの和約を締結した1795年にケーニヒスベルクで出版された。バーゼルの和約は将来の戦争を防止することではなく、戦争の戦果を調整する一時的な講和条約に過ぎなかった。このような条約では永遠の平和の樹立には不完全であると考えた場合、カントには永遠平和の実現可能性を示す具体的な計画を示すことが求められる。本書はこのような平和の問題が論考されている。

カントは、国家間の永遠平和のためにとりわけ必要なこととして、「どの国であれ、市民のあり方は共和的であるべきである」と述べる。「共和的」であるとは何かというと、第一に、自由の原則にもとづく社会のメンバー、(その人間としての)市民のあり方、第二に、一つの共通した法律に従うこと、(その臣民としての)市民のあり方、第三に、法の平等のもとにつくられた体制、(その国民としての)市民のあり方を指す。これらはもっとも基本的な契約の理念から生まれ、すべての立法の基本となるべきことである。

カントは、共和的なあり方は、もともとが純粋であり、法の考え方の根っこから出たことであって、そのうえ永遠平和という願わしい見通しをそなえていると考えた。戦争に直面したとき、戦争すべきかどうか共和制のもとでは国民が決めることになる。戦争となれば、いずれにせよ、とんでもない苦難を引き受けるはめになる。そんな割りに合わない賭けごとには、慎重になるだろう。共和制ではない体制では、慎重さはふきとび、戦争の正当性が簡単に主張されてしまうだろう。

共和的なあり方は、しばしば混同されるが、民主的なあり方とは異なる。国のかたちは、元首をつとめる者の違いによるか、民を治める方法によるかで区別される。「民主制」は前者の違い(君主制、貴族制、民主制)の一つであり、「共和制」は後者の違い(共和制、専制)の一つである。前者は「支配」のかたちであり、後者は「統治」のかたちであると言ってもよい。共和制と専制の違いについては、共和制は立法権と行政権を分離するのを国の原理とするのに対して、専制は当人が定めた法によって自らが執り行い、統治者の私的な意志が公の意志として扱われる。

冒頭の引用のように、カントは、厳密に言うと民主制は必然的に専制になると述べる。というのは民主制の行政権のもとでは、一人同意しない者がいても全員の賛同と同じく、その結果として、全員ではない全員が決めていくことになるからである。法の考えに即しているかぎり、統治には代表制がつきものであり、共和的な統治の方法は代表制にのみできることであり、これを欠くと、どのような体制であれ専制となり、暴力的になる。古代に「共和国」と称したどれも、このことに気づかず、専制へと移行していった。専制のうちでも、ただ一人に主権を握られているものが、もっとも耐えがたい事態、つまり独裁制になる。



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