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折口信夫の「まれびと」考——共同態の外部から来る規範

折口によれば、古代の日本の共同態にあっては、同一措定(表現の形式/善悪の判断等)を可能ならしめる規範は、「まれびと」なる神的=超越的身体に帰属するものとしての了解を得る限りにおいて、実効的に諸身体を把捉することができた。まれびとは、「〔共同態の外部から〕来訪する神」であり、「第一義では、海彼岸——普通の意味では、これを常世と呼ぶ。——から、週期的に来臨し、古代の村々の生活を幸福にして還つて行く霊物を意味してゐる」[12巻 326-327]。(中略)
小説『死者の書』において、死者滋賀津彦が、「まれびと」として描かれていることは、明らかである。例の存在論的欠落——同一措定の未在——は、「まれびと」たる死者の現世の共同態への来臨によって癒やされること、を小説は暗示している。

大澤真幸『近代日本思想の肖像』講談社学術文庫, 2012. p.308-309.

社会学者の大澤真幸氏による折口信夫「まれびと」考である。民俗学者・国文学者・歌人の折口信夫(おりぐち しのぶ, 1887 - 1953)については前記事も参照のこと(折口信夫の「いきどほり」と「さびしさ」)。

折口信夫には『死者の書』という奇妙な小説がある。水の音と共に闇の中で目覚めた死者、滋賀津彦(大津皇子)の魂と、彼が恋う女性・耳面刀自の魂との神秘的な交感を描く幻想小説である。この『死者の書』における滋賀津彦と、その魂を癒やす女性との関係をもとに、折口信夫の鍵概念である「まれびと」について、大澤真幸氏が分析している。

「まれびと(稀人・客人)」とは、時を定めて他界から来訪する霊的もしくは神の本質的存在を定義する折口学の用語である。 折口信夫の思想体系を考える上でもっとも重要な鍵概念の一つであり、日本人の信仰・他界観念を探るための手がかりとして民俗学上重視されている。『死者の書』の滋賀津彦は、常世(あの世)の闇の中で目覚めるが、最初は自分が誰でどこにいるのかも分からない状態にある。『死者の書』の冒頭は次のように始まる。

おれは、このおれは、何処に居るのだ。……それから、ここは何処なのだ。其よりも第一、此おれは誰なのだ。其をすつかり、おれは忘れた。

折口信夫『死者の書』

死者である滋賀津彦は、ここで自己同一性の欠落に対して困惑している。覚醒したこの死者にとって、世界とその内部の諸存在者は、何ものとしても現れない。折口はこの小説において、世界の同一性と自己の同一性が総体として未決であるような状況を、我々にとっての始源(論理的端緒)とみなしているのである。ここから、世界における「同一措定」はどのように可能になるのか。つまり「規範」、整合的な行為の集合体である社会がいかに可能か、ということを折口は問うている。

折口によれば、古代の日本の共同態にあっては、同一措定(表現の形式や善悪の判断)を可能ならしめる規範は、外部からくる来訪者としての「まれびと」によって可能になったという。『死者の書』における死者・滋賀津彦は「まれびと」として描かれている。そして滋賀津彦の「存在論的欠落」、つまり同一措定の未決の状態は、「まれびと」たる死者の現世の共同態への来臨によって癒やされることが、小説では暗示されている。

「まれびと」の存在がこのようなものであるとすれば、一つの社会を全体として統括する王権のようなものも、一種の「まれびと」として了解され得たのだろうと大澤氏は述べる。例えば、琉球国王が外来者としてみなされていた事実や、ハワイやフィジーにおいて王(首長)がしばしば土地の「異人(よそ者)」とみなされていた事実を大澤氏は挙げている。

しかし、大澤氏はさらに問いを深める。古代の共同態において、王権や判断の弁別の形式が、「まれびと」である外部者によって正当性を与えられ、規範たりえたのは何故なのか。土地の外部者であるということは、その外部の場所は規範の実行力の及ばない無秩序な空間であることも意味する。つまり、「まれびと」なる身体は、外的な場所に意味論的に結合されている「規範的負性」によって特徴づけられている。多くの場合、「まれびと」は、尊崇の対象であるとともに、規範的に不完全な反倫理的な存在としても想念されている(例えば、「まれびと」は、非常に重大な禁忌に対する侵犯者であったりする)。規範的に「負」である外部者によって、共同態の規範的正当性が確保されるというのは矛盾=パラドックスではないのか

この論考では、こうした共同態とまれびとの矛盾をはらむ関係が「女性」によって媒介されること、「まれびと」を迎える女性と「まれびと」との関係が、他者との〈求心化―遠心化作用〉をもたらす性愛的な関係として表現されていることなどが考察される。興味ある方は是非読んでほしい。


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