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些細なものに宿る普遍性——『フランツ・カフカ断片集』を読む

「こま」  

ある哲学者が、子どもたちが遊んでいるまわりを、いつもうろうろしていた。  
こまを持っている子どもを見つけると、回す前から待ちかまえている。そして、こまが回りだしたとたん、こまのあとを追いかけて、つかまえようとする。  
子どもたちが騒ぎだして、こまに近づけないようにしようとしても、彼はまったく気にしない。まだ回っているあいだに、こまをつかまえることができたら、彼は幸福なのだ。  
しかし、その幸福も一瞬のこと。すぐに彼はこまを地面に投げ捨てて、立ち去ってしまう。  
どういうことかというと、彼はこう信じているのだ。たとえば回転するこまのような、どんな些細なものであっても、それを認識することは、充分、普遍的な認識に通じるのだと。
だから、彼は大きな問題をあつかおうとはしなかった。むだなことに思われたからだ。きわめて些細なことでも、それを本当に認識すれば、すべてを認識したことになる。彼が回転するこまをひたすら追いかけているのは、そういうわけだった。
子どもがこまを回す準備をはじめるたびに、今度こそ成功するだろうと彼は希望を抱く。こまが回りだし、息を切らせながらそれを追いかけているうちに、希望は確信に変わる。しかし、手につかんだものは、ただの木のおもちゃにすぎず、彼は気分が悪くなる。
これまで聞こえていなかった子どもたちの騒ぐ声が、急に耳に入ってくるようになり、彼は追い立てられる。不器用に鞭でたたかれたこまのように、彼はよろめいた。

フランツ・カフカ. カフカ断片集―海辺の貝殻のようにうつろで、ひと足でふみつぶされそうだ―(新潮文庫) (p.16). 新潮社. Kindle 版.

フランツ・カフカ(Franz Kafka, 1883-1924)は、オーストリア=ハンガリー帝国領のプラハで、ユダヤ人の商家に生れる。プラハ大学で法学を修めた後、肺結核に斃れるまで実直に勤めた労働者傷害保険協会での日々は、官僚機構の冷酷奇怪な幻像を生む土壌となる。生前発表された「変身」、死後注目を集めることになる「審判」「城」等、人間存在の不条理を主題とするシュルレアリスム風の作品群を残している。現代実存主義文学の先駆者。

モーリス・ブランショは「カフカの主要な物語は断片であり、その作品の全体がひとつの断片である」と言っている。

この断片集にある「こま」という掌篇は、まるでカフカが自らの生涯を一つの詩にしたような作品である。カフカの作品はどれも、一様な解釈が難しく、大きな謎を秘めているように感じられる。彼の「城」や「審判」といった作品群は偉大な文学者や哲学者たちによってさまざまに解釈されてきた。それは現代社会の巨大な官僚性の比喩ではないか。この世界の不条理を作品にしたものではないか、など。しかし、カフカさえもおそらく明確な意図や答えを持ってはいない。カフカの作品を読む、あるいはそれを解釈するという行為自体が、一つの文学体験なのである。

おそらくカフカは、この子どもたちのこまを追いかける哲学者のような気持ちで日々を生き、それを言葉に綴ったのに違いない。しかしその哲学者は抽象的な議論ではなく、日常の「些細なもの」を追いかけることに執着した。なぜなら、「些細なもの」にこそ「普遍的な認識」に通じると信じていたから。しかし、それはいつも裏切られる。回転しているこまは、一度手にとってみると、それはただの「木のおもちゃ」に過ぎないという失望に変わるからだ。カフカはおそらく死ぬまで作品を書くという行為によって、「回転しているこま」を追いかけていたのだろう。それがいつも失望に変わるということも知っていながら。

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