「近代人は遊戯という苦役を背負わされている」〜浅田彰の『構造と力』より

近代人は遊戯者である。ただし、この上なく不幸な遊戯者である。彼は遊ぶというよりも遊ばされているのであり、遊戯という苦役を背負わされているのであると言わねばならない。それでは、真に悦ばしい遊戯の場は、いったいどこに見出されるのだろうか。

浅田彰『構造と力:記号論を超えて』1983年, 勁草書房, 225頁

1980年代に出版され、難解な哲学的内容にもかかわらずベストセラーとなった話題の書「構造と力」。デリダやフーコー、ドゥルーズらのテクストを参照しつつ、フランス現代思想(構造主義、ポスト構造主義)を紹介。「シラケ世代」と言われてきたポスト全共闘の若者の感性を―多少は特殊な思想用語を交えているものの基本的に―平易な言葉で表現しており、多くの若者を引き付けた。

近代人は不幸な遊戯者であり、道化であると。なぜなら、遊戯というものの本質が秩序からの逸脱であるのに、「遊戯させられている」という状態にあるから、と浅田は述べる。

「近代人は遊戯という苦役を背負わされている」という表現は、かつてサルトルが「人間は自由の刑に処せられている」と述べたことを想起させる。そこには遊戯と苦役、自由と刑罰という矛盾が含まれている。

1980年代の状況と、現在では社会的状況がかなり変化してしまったとはいえ、私たちが「遊戯」させられている状況はいまだに結構続いているのかもしれない。今では、私たちはNetflixなどの動画サービスやInstagramやYouTubeといったSNSに一日中振り回されている。こうしたバーチャルな「遊戯」の苦役にさらされているとは言えないだろうか。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?