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「死んだらどうなるのか?」を哲学的に考える——ヒュームの懐疑主義

ヒュームが断固たる無神論者でなかったことは十分に考えられる。独断主義を嫌った彼の性格は現代人にとっても近しいものだろう。ヒュームは神の存在や死後の魂の生については、かなり渾然たる信念を持っていたようだ。この点は、事柄の性質上、私は最も重要な点だと思う。『純粋理性批判』での指摘に端的に示されるように、理性の権限を越える事柄について、真偽のいずれかに定めようとする議論そのものが越権行為であり、アンチノミーに陥らざるを得ないという議論は魂の不死にしろ、神の存在にしろ、ほぼ決定的な答えを出している(少なくとも私はそう思う)。
ヒュームが『魂の不死性について』で展開している議論は、魂の不死性を否定しているものではない。形而上学的前提からは論証できない。また道徳的論証は、人間世界に成立していることの外挿法によるわけであり、自然的論証によれば、魂の可死性を示すように見え、この論証こそ事実上唯一の哲学的論証であるとヒュームは述べる。生前未発表であったというのは当然のことだったのだろう。
とはいえ、その哲学的問題の分析の手前で、ヒュームは、晩年死が差し迫る中で、死が消滅(annihilation)であると確信していた。しかし、死の数週間前に、ジャイムズ・ボズウェルに、死後も生があるという、「きわめて非合理な妄想(a most unreasonable fancy)」を心から信じていると語ったという。ここに哲学的な実相がある。真か偽かが定まる領域に哲学の本領はない。私はそう思う。

山極寿一; 佐藤勝彦; 中村桂子; 永井均; 三牧聖子.『現代思想2024年1月号 特集=ビッグ・クエスチョン——大いなる探究の現在地』(pp.145-146). 青土社. Kindle 版.

現代思想の特集「ビッグ・クエスチョン——大いなる探究の現在地」より、哲学者の山内志朗氏の「人は死んだらどうなるのか?」という論考よりの引用である。

古来より「人は死んだらどうなるのか?」は宗教とともに哲学における難問の一つとして論じられてきた。プラトン『パイドン』、フィチーノ『プラトン哲学——魂の不死』、ポンポナッツィ『魂不死論』、ヒューム『魂の不死』など、多数の哲学者がこの問題を扱っている。

哲学者ライプニッツは、魂の「不滅(indestructibiltas)」と「不死(immortalitas)」を明確に区別して論じた。魂は質料的ではない、非質料的実体である、単純であるものは滅びない、したがって魂は不滅なるものであるという考えが「不滅」論に属するものである。一方、「不死」というのは、人間の理性的精神に認められるものであり、生前の記憶や自己同一性を有し、生前の行為に基づいて賞罰を受け、至福を味わうことができる状態が期待される。この二者を明確に区別したライプニッツは生命の根底にあるものとして「モナド」というものを考えた。植物も動物も人間もその根底にあるのは、不滅のモナドである。しかしながら、人間以外のモナドは不滅性を与えられるにすぎないが、人間のみが不死性を享受できると考えた。

また、死後の不滅や不死を考える際に、ここで想定される霊魂も一元的な原理ではない。人間の精神的原理は、知性や意志や感性といった能力心理学的に分類されるのとは別に、魂(プシュケー)と霊(プネウマ)という二大区分がある。プシュケーとは、一つ一つの生命体に宿る、個別的な生命・精神原理である。プシュケーが宿ることで、生物は生き、プシュケーが抜け出ることで死ぬ。人間の場合であれば、精神作用を司り、個体性を担う。一方、プネウマの方は、やはり精神的原理であるが、一つ一つの魂に固有なものというよりは、集合的な存在であり、神と人、人と人、神と天使などの間を媒介する原理である。「魂の不滅」という主題を考えるときに、私たちは、魂(プシュケー)を論じているのか、霊(プネウマ)を論じているのかを区別することは重要である。

哲学的議論としての霊魂不死論は、近世に至ると自由思想家と言われる人びとが、人間機械論に基づき魂の不死を否定した。後にはデイヴィッド・ヒューム(1711 - 1776)が、経験論(懐疑主義)によって魂の不死を否定した。ヒュームはスコットランドの哲学者であり、ロック、バークリー、ベーコン、ホッブズと並ぶ英語圏の代表的な経験論者である。この山内志朗氏の論考では、ヒュームの考え方を大きく取り上げ、彼の「懐疑主義」の姿勢が、この哲学的問題に対する考え方に対する最も妥当なものだとする

ヒューム『自然宗教をめぐる対話』のなかで、神の存在については、懐疑主義を穏当な結論としている。そして、死後の魂のあり方については、懐疑主義が正しい考え方であり、不滅かどうかをめぐる問いはどちらとも解決がつかず、アンチノミー(二律背反、矛盾)に陥る。その限界を超えて進んでいこうとするのは、理性の傲慢以外の何ものでもない、と考えるのが合理的であるとする。カントが『純粋理性批判』で述べたように、理性の権限を越える事柄について、真偽のいずれかに定めようとする議論そのものが越権行為であり、アンチノミーに陥らざるを得ないという立場が、ヒュームの懐疑主義の立場の根底にある。つまり、魂の不死性については、形而上学的前提からは論証できない。「死んだら人間はどうなるのか?」は、哲学的には論証しえない問題として、つまり「語り得ぬものに対しては沈黙せねばならない」(ウィトゲンシュタイン)という立場である。

しかし、実際にはヒュームは無神論者であったのかどうか。晩年、ヒュームは「死は消滅であること」、つまり魂の可死性を信じていたのであるが、死の数週間前には友人に、「死後の生があるかもしれない」という妄想を信じていると語っていた。これは理性と信仰において別の真理を述べたということで「二重真理説」のように見えるが、そうではないと山内氏は語る。結局「死んだら魂は存続するのか、しないのか」という問いの領域、つまり真か偽かが定まるような問いのカテゴリーには、哲学の本領はないということである。その意味では、やはりヒュームは無神論者ではなく、懐疑主義者であったと言えるだろう。

アンチノミーに陥ってしまう種類の問いを考えることは無駄なのであろうか。この種の哲学的難問を「人間へのプレゼントと考える」こともできると、山内氏は語る。神はきっと、人間に考えることができず答えの存在しない問いに対して、どのように思案して扱うのかを考えさせる機会として、宿題を与えてくれたのではないか。答えがない問いに対して、答えがないから考えない、考えても無駄だと思うか、その先に進む道を見つけられるかが、哲学の限界に関わる問題であるし、哲学の工夫のしどころもあるのである。






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