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なぜ「犬には仏性がない」のか?——末木文美士氏『『碧巌録』を読む』より

(『趙州録』より)問い、「犬にも仏性がありますか」。師、「ない」。修行者、「上は諸仏から下はありに至るまで、すべて仏性があります。犬になぜないのですか」。師、「彼には業識性があるからだ」。

「業識性(ごっしきしょう)」というのは難しい言葉ですが、「業識」という言葉は『大乗起信論』という本の中に出てきます。それによると、人間の迷いの世界のいちばん根本に無明(むみょう)というのがある。その無明によって生ずる迷いのいちばん最初の段階が「業識」だというのです。「業識」というのは迷いのいちばん原初的な形態と言ってよいわけです。そういう性質があるから、犬の仏性は認めることができない、というのです。根本的なところに迷いがある限り、それは悟りから絶対的に隔たっている。いくら仏性があるなどと言っても、現にここに犬は迷いの存在として現存している以上、そんな理論は机上の空論に過ぎない、というのです。
これは、ある意味では非常によく筋が通ることです。犬をテーマにしていますけれども、この犬というのは、さらに言えば、人間と言い換えてもいいわけですし、修行者に即して言えば、その修行者自身です。したがって修行者の問いは、言い換えれば、私に仏性がありますか、という問いです。それに対して、お前なんぞに仏性はない、と趙州は答えた。そういうふうに理解してもいいわけです。もちろん、このように考えれば、これは過去のある時点での話ではなく、われわれ自身が、「お前などに仏性はない」と突きつけられているのです。

末木文美士『『碧巌録』を読む』岩波現代文庫, 2018. p.48-49.

『碧巌録』(へきがんろく)は、中国の仏教書であり禅宗の語録。宋の時代(12世紀頃)に成立した。宗教書であると同時に禅文学としての価値が大きく、古来より「宗門第一の書」といわれ、公開の場で提唱されることも多かった。看話禅(師から示された公案を解いて悟りに到ること)の発展は本書に依るところが大きく、本書に倣って『従容録』、『無門関』の公案集が作られた。また、臨済宗の専門道場においては、修行者が自分の悟境を深めるための公案集として用いられている。本書『『碧巌録』を読む』は、仏教学者の末木文美士(すえき ふみひこ)氏が解説する形で『碧巌録』を中心に禅のテキストを読み解き、そこから禅の根本問題や禅の言語論について論じている。

『碧巌録』の第一則は「達磨、武帝をやりこめる」の巻。「梁の武帝、達磨大師に問う、「如何なるか是れ聖諦(しょうたい)第一義」。磨云く、「廓然無聖(かくねんむしょう)」。意味は、「梁の武帝が達磨大師に問うた。仏教の根本真理(聖諦第一義)は何であるか、と。達磨大師は、「聖」という根本的な真理なんていうものは無いと答えた」というものである。この「廓然無聖」、つまり「仏教の根本真理なんて無い」という意味をどう捉えるか、これが禅宗では大きな問題として突きつけられる。

『碧巌録』より遅れて成立した『無門関』にも似たような話が出てくる。「犬に仏性はあるのか」という冒頭の引用はそれである。ちなみに『無門関』は日本では広く普及し、夏目漱石や西田幾多郎にも引用されている。その第一則が「趙州無字(じょうしゅうむじ)」とか「無字の公案」と言われて禅門で親しまれてきたものである。

ある僧が趙州和尚に問う。「犬にも仏性がありますか」と。和尚は「無い」と答える。『無門関』の第一則はここだけで終わっている。その後に「業識性」云々の補足が入るのは『趙州録』という別の語録なのだが、これが『無門関』の元の話と考えてよい。「犬には仏性はありますか」「無い」という『無門関』の問答は、とてもおかしな話なのである。というのは、あらゆる生きものには仏性があると、従来の仏教は教えているからである(例えば『涅槃経』の「一切衆生悉有仏性」の教え)。だから、普通に考えれば当然、犬にも仏性がなければならない。しかし、趙州は「無い」と答えた。これをどう考えるのかが、禅宗における関門なのである。

末木氏いわく、この「犬には仏性は無い」という常識を否定するような答えは、『碧巌録』の「廓然無聖」、つまり「仏教の根本真理は無い」という否定の答えと同じレベルのものとなっている。趙州の答えは、仏性といっても、そんなのは理屈に過ぎない。いくら仏性があると言っても、現にお前は迷っているじゃないか。迷いから抜けられないのなら、仏性があるなんて言っても、そんな仏性は何の意味もない、何の役にも立たない。そんな抽象的なレベルで議論するのではなくて、本当に修行して、体得しなければならないのだ。それが趙州が言っていることなのだという。

また末木氏は興味深いことを指摘する。禅の教えには「不立文字(ふりゅうもんじ)」、つまり、言葉には頼らずに悟りに至るという考えがあるが、実は禅の教えは言葉にこだわっていく部分もあるのだという。言葉というのはやっかいなもので、私たちは言葉を介して共通の世界を持ち、文化を形成してくのだが、逆に言葉があることによって、言葉にとらわれる部分も出てくる。これは仏教的に言えば、そこに煩悩もまた成り立つということである。しかし、『碧巌録』などで読み取られる禅の言葉、言語の理解というものは、そのように言葉を超えたところに悟りを求めるのではなくて、その言葉の中に、日常的な言葉と違う言葉を読み取る、あるいは、言葉を使って私たちの日常的な言葉の虚偽性、虚構性というものを明らかにして、それを解体していく。そういうはたらきを言葉に持たせるところがあるという。「無」であるとか、「廓然無聖」とかいうのは、日常的な言葉を打ち壊す、一種の巨大なエネルギーのようなものなのだ。


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