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現実世界の判断不可能性——濱口竜介監督『悪は存在しない』を観て

山崎 (中略)でもいつも思うのは、複数のアングルがあるシーンの場合、ふつうは主人公とか誰かひとりに寄せがちなんですけど、濱口さんの場合は、比較的フラットな立ち位置を最初から最後まで維持しているような気がします。誰かひとりに強く引っ張られそうになると別の人によって引っ張り戻されるというか、情熱的になりがちなシーンでも、たいてい一定距離を持ったところに編集点がある。
濱口 たしかに、その後の展開も含めて、説明会はなるべくフラットな印象におさめるようにとは考えていました。説明会の場面では、住民側が道理のあることを言っているのは間違いないんですが、たとえば住民が高橋たちを激しく責め立てているように見せると、言われている高橋がかわいそうに見えてくる。そこも本当にバランスと言うか、何であれ、高橋・黛というふたりが完全に悪の権化で住民たちが正義の人だ、みたいにも見せるのは自分は居心地が悪いですね。判断不可能性みたいなものをつくっていくというか。

『悪は存在しない』パンフレット, 月永理絵編集, Incline, 2024. p.35.

濱口竜介監督作品『悪は存在しない』のパンフレットより、濱口監督と編集の山崎梓氏のクロストークから引用。本作品は『ドライブ・マイ・カー』(2021)以降の長編映画最新作で、第80回ヴェネチア国際映画祭 銀獅子賞(審査員グランプリ)を受賞している。ストーリーは以下のようなものだ。

長野県、水挽町(みずびきちょう)。自然が豊かな高原に位置し、東京からも近く、移住者は増加傾向でごく緩やかに発展している。代々そこで暮らす巧(大美賀均)とその娘・花(西川玲)の暮らしは、水を汲み、薪を割るような、自然に囲まれた慎ましいものだ。しかしある日、彼らの住む近くにグランピング場を作る計画が持ち上がる。コロナ禍のあおりを受けた芸能事務所が政府からの補助金を得て計画したものだったが、森の環境や町の水源を汚しかねないずさんな計画に町内は動揺し、その余波は巧たちの生活にも及んでいく。

鳥取の湯梨浜町に2021年に開館したミニシアター「jig theater」にて鑑賞。昨年9月の濱口竜介監督作品特集『ハッピーアワー』『PASSION』も同映画館にて鑑賞し、濱口監督のトークショーも聞いて感銘を受けた。

本作品はタイトルから想像されるイメージとは異なり、長野県のある町におけるさまざまな立場の人々の日常が淡々と描写されていく。特に殺人事件や犯罪が起きるわけではない。そこで中心となる話題は、その町へのグランピング場誘致計画だ。この計画をめぐって、複数の二項対立の図式を見て取ることができる。例えば、都会と田舎、人工物と自然、よそ者と地元民、商業とケア、開発と持続性、上司と部下などである。それは善と悪という二元論にあたかもあてはめることができるような気がする。

しかし、この映画では誰も単純な善や悪としては描かれない。住民説明会で住民から責められて苦境に立たされる開発業者の高橋と黛も、説明会後の車内での会話から、彼らなりの事情を抱えていることが伺え、親近感が湧いてくるほどである。住民側も皆が同じ立場というわけではなく、誘致に反対する理由は人それぞれである。主人公の巧は、納得できる改善案があれば反対しないと述べる。そして物語は進んでいくのだが、最後まで見ると、私たちの想定していた多くの二元論的視点が覆されるように思える。

水は上から下に流れる。従って、上流でやったことは下流に影響を及ぼす。そういうものだ、という台詞が出てくる。一見これは、開発業者などが行ったことがその土地の生態系などの重大な影響を及ぼすという責任論にも聞こえる。しかし、濱口監督がここに込めている意味は、「自然は無目的である」ということのように私には思える。自然そのものは無目的であり、判断不可能性を含んでおり、そこに人為的なものがさまざまな度合いで加わっている。そのとき、自然と人為が複雑に入り混じったものとして常に現実はあらわれる。そのうちのどこまでが私たちの責任であり、どこからがそうでないのだろうか。私たちはそのような複雑な現実に対して、どのように善悪の判断をくだすのか。

巧は、グランピングの開発予定地が「そこは鹿の通り道なんだ」と言う。しかし、この言葉の意味も微妙にぼかされている。巧はどういう意図でこの言葉を言っているのかは簡単には分からないのだ。高橋が「それは柵を作ったほうがいいということですか」と聞く。すると巧は「作るなら3m以上必要だ」と答えて、鹿の通り道にグランピング場を作ることの是非は論じないのである。巧は「自分はただの便利屋だ」という。地元民でありながら、開発業者と地元民の媒介者であり、人為と自然の媒介者であるように見える。

巧の存在は、自然が内包する価値中立性や判断不能性を代表するものにも見える。彼には強い主張はない。人間と自然のどちらの立場でもない。ただ、上から下に流れていく水のような存在である。印象的な場面は、開発業者の高橋と黛が彼を訪ねてきた際、薪割りを延々と続けるシーンである。この薪を割り続ける場面に、巧という人間がよく表現されている。彼はただ無心なのである。そこには、誰かを待たせているから早く作業を終えねばとか、余計な判断は何もない。ただ目の前の作業を「きりの良いところまで」続けるだけなのである。

この作品を見て、主人公の巧は善人に見えるだろうか。それとも悪人に見えるだろうか。彼の行動にも意図はあり、それは常に自然の代弁者ということでもない。彼にも守りたいものはあり、ある立場をとらざるをえない場面もある。それでも、主人公の言動には「謎」に思えるところが多くあり、そして彼の行動の善悪をどう判断するかは観るものに委ねられている。この映画で描かれている現実世界の判断不可能性が、この映画の魅力をつくっていることは間違いない。



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