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語り得ぬ真理について沈黙するヴィマラキールティ——『維摩経』を読む

そこで、ヴィマラキールティはこれらの菩薩たちに質問した。「高貴なかたがたよ、菩薩が不二の法門にはいるということがありますが、それはどういうことなのか、説明していただきたく存じます」(中略)
以上のように、これらの菩薩たちは、おのおの自分の説を述べおわって、マンジュシリーに向かって質問した。「マンジュシリーよ、菩薩が不二にはいるとは、どのようなことですか」
マンジュシリーが答える。「高貴な士よ、あなたがたの説はすべてよろしいが、しかし、あなたがたの説いたところは、それもまたすべて二なのである。なんらのことばも説かず、無語、無言、無説、無表示であり、説かないということも言わない——これが不二にはいることです」
そこで、マンジュシリーはヴィマラキールティに言った。「われわれはおのおの説を述べたのですが、あなたにもまた不二の法門について何か語っていただきたいのですが」
そのとき、ヴィマラキールティは、口をつぐんで一言も言わなかった。
すると、マンジュシリーは、ヴィマラキールティをたたえて言った。「大いに結構です。良家の子よ、これこそ菩薩が不二にはいることであって、そこには文字もなく、ことばもなく、心がはたらくこともない」
このように説かれたとき、五千の菩薩たちが、不二の法門にはいって、ものはすべて不生であるという確信(無生法忍)を得た。

「維摩経」より. 長尾雅人編『世界の名著2 大乗仏教』中央公論社, 1967. p.160-165.

『維摩経』 (ゆいまきょう、ゆいまぎょう、梵: Vimalakīrti-nirdeśa Sūtra ヴィマラキールティ・ニルデーシャ・スートラ)は、大乗仏教経典の一つ。別名『不可思議解脱経』(ふかしぎげだつきょう)。維摩経は初期大乗仏典で、在家者の立場から大乗仏教の軸たる「空思想」を高揚する。内容は中インド・ヴァイシャーリーの長者ヴィマラキールティ(維摩)にまつわる物語である。

維摩経とは、このような話である。ヴィマラキールティが病気になったので、釈迦が舎利弗(シャーリプトラ)・目連(マウドガリヤーヤニープトラ)・迦葉(カーシャパ)などの弟子達や、弥勒(マイトレーヤ)などの菩薩にも見舞いを命じた。しかし、みな以前にヴィマラキールティにやりこめられているため、誰も理由を述べて行こうとしない。そこで、文殊(マンジュシリー)が見舞いに行き、ヴィマラキールティと対等に問答を行い、最後にヴィマラキールティは究極の境地を沈黙によって示した、という話である。引用したのは、そのマンジュシュリーとヴィマラキールティの問答の最後の部分である。一見物語のようになっているが、それぞれの釈迦の高弟たちが述べる言葉や、ヴィマラキールティとの問答を通して、法(ダルマ)とは何か、菩提(悟り)とは何か、出家とは何かといったことの本質が語られる

ヴィマラキールティは「不二の法門」とは何かについて菩薩たちに問う。そこにはマンジュシュリーをはじめとして、釈迦の高弟たちのほとんどが集っている上に、またヴィマラキールティとマンジュシュリーの問答を見ようと天界からも神々も集い、数千・数万のギャラリーもいる。マンジュシュリーが大トリなのだが、その前にいろんな菩薩が自説を述べる。「我ありということを想うことがないのが不二である」とか「菩薩の心や声聞の心が幻の心に等しいと見ることが不二である」とか「あらゆる存在について判断することがないのが不二である」とか、云々。まさに30人の菩薩たちが「不二とは何か」について、30の自説を述べる。まさに「諸説あり」状態。

それらを踏まえて、マンジュシュリーはこう言う。「あなたがたの説はすべて結構な内容だが、しかし、それを言葉で言っちゃうところが不二じゃない(つまり二つのものである)。本当の不二とは、言葉で言わないこと、沈黙することなんですよ。いかがですか、ヴィマラキールティ師匠?」と。すると、ヴィマラキールティは、それに対してまさに無言、沈黙をもって応える。マンジュシュリーは言う。「そうなんです。それこそが不二の教えです」と、流石、ヴィマラキールティ師匠!という感じで、二人の問答は幕となるのである。

法とは何か、不二とは何かについての本質は、「思議」(思考・議論)することができない教えということで「不可思議」な教えである、ということで、維摩経は別名が「不可思議解脱経」と言う。「微妙」な教えとも言われる。微妙(みみょう)の本来の意味は、言葉では言い尽くせないようなものという意味である。維摩経を読むとそのことを痛感させられる。言葉で分かったつもりになっていると、沈黙でしか応えてくれないヴィマラキールティに喝を入れられてしまう。

ちなみにヴィマラキールティは在家の出家者だった。ヴィマラキールティに「真の出家とは何か」を諭された釈迦の高弟ラーフラの話が出てくる。あるときラーフラが若者たちに、出家することの功徳や利益を語っていたとき、ヴィマラキールティがやってきて「そもそも功徳や利益があるというのは真の出家ではない。なぜなら、出家は無為にして修行することだからです」と説く。ラーフラは「参りました」となる。ヴィマラキールティは、俗世を離れて生活するから出家ということではなく、俗世にいて人々と同じような生活をしながら、それでいて「無為」の心で修行し、衆生を助け、衆生とともに涅槃に行くことを目指すのが本来の出家だというわけである。まさに大乗の教えを体現した人だった。





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