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「学校化された社会」から「コンビビアリティの社会」へ——イリイチ『脱学校の社会』を読む

シカゴ市にいる私の友人である黒人は、真の意味で教育を行なう社会に到達する途上にある主要な障害物を、みごとに定義した。彼は私に、われわれの想像力は「すべて学校化されてしまっている」と言った。国家が、全国民の受ける教育に関して何が不足しているかを認識し、それを取り扱う一つの専門家された機関を設立するのをわれわれは許している。このようにして、われわれの世代が何が神聖であり何が冒瀆的であるかを定義する戒律を定めたのと同じように、われわれもまたみな、他人にとって何が必要な教育であり何がそうでないかを区別することができるとする妄想を抱いているのである。(中略)
義務的な学校の存在そのものが、すべての社会を二つの領域に区別するのである。すなわち特定の時間帯、特定の方法、特定の処置や世話、および特定の専門的職業は「学術的」(academic)または「教育的」(pedagogic)とされ、その他のものはそうでないとされるのである。このように、社会の現実を二分する学校の権限には際限がない。教育は非世俗的なものとなり、世俗は非教育的なものとなるのである。

イヴァン・イリイチ『脱学校の社会』東洋・小澤周三訳, 東京創元社, 1977. p.51-52.

イヴァン・イリイチ(Ivan Illich、1926 - 2002)は、オーストリア、ウィーン生まれの哲学者、社会評論家、文明批評家である。グレゴリアン大学で神学と哲学を修めた後、ザルツブルク大学で歴史学の博士号を取得。1951年に渡米し、ニューヨークでカトリックの助任司祭となり、1956〜60年、プエルトリコのカトリック大学の副学長を勤めた後、メキシコのクエルナバーカに国際文化資料センターを設立。同センターで、ラテンアメリカに焦点をあてた社会制度に関する研究セミナーを主催した。著書に『エネルギーと公正』『脱病院化社会』などがある。

本書は1971年に刊行された『The Deschooling Society(脱学校の社会)』の翻訳である。この他にもイリイチは教育、交通、医療など多くの分野にわたって著書を書いており、その中心をなすものは、現代の社会と文化およびそのエートスへの批判である。「価値の制度化」への批判、量的増大を尊重する産業社会への批判は一貫しており、本書で述べられている学校化した社会への批判は、現在のメリトクラシー社会批判にも通ずるものがある。また、彼がその脱学校化・脱制度化した社会の後にもたらされるべき新しい社会として「コンビビアリティの社会(convival society)」を提唱していた。「コンビビアリティ」は訳しにくい用語だが、「相互親和」や「自立共生」を意味する

イリイチのアプローチを、彼の著書の序文を書いたエーリッヒ・フロムは「ヒューマニスト・ラディカリズム」と呼んでいる。この場合の「ラディカリズム」とは、一般に人々の間で当然視されているようなすべての事柄、特にイデオロギー上の概念を、根本的に疑ってかかることを意味する。つまり、ヒューマニスト・ラディカリズムとは、人間の本性についてのダイナミックな洞察と、人間の成長と全面的な発展への関心に導かれての根本的な疑いを抱く姿勢を指す。

『脱学校の社会』でイリイチが展開する社会批判の根本には「価値の制度化」がある。「制度化(institutionalizaton)」とは、パーソンズ社会学などで特に重要視される概念で、「ある適切な相互作用の体系内における行為者がもっている期待を、人々が分かちもっている価値の型と統合すること」である。つまり、共通の価値観が内面化される一方、価値を実現するための制度づくりがなされ、その制度に対する人々の期待が高められていくことを指す。「価値の制度化」によって何が起きるかというと、価値についての想像力が奪われ、人々は価値の代わりに制度によるサービスを受け入れるようになる。つまり、価値の制度化による「学校化(schooled)」がおきた社会では、子供たちを学校に入れさえすれば安心であるというように、手段が目的化されてしまう。学校に入れること自体が目的となる。その結果、さまざまな不利益が起こっているというのがイリイチの主張である。その例として、イリイチは、社会の分極化(現代風に言えば「格差化された社会」)や、人々の心理的不能化といったことを挙げている。

学校化された社会の不利益の最たるものは、就職における履歴の偏重である。イリイチは、(1970年当時においても)就職市場において、その人の能力の判断基準として就学年数だけを用いることがますます多くなっていると指摘しており、学校教育が有名無実化していることを指摘する。これは学歴が職業や地位の格差につながっているとする現代のメリトクラシー社会批判を先取りするものである。イリイチは、資格と履歴の結びつきを断ち切るためには、就職にあたって政治団体への加入、教会への出席、血統、性的習慣あるいは人種的背景についての調査が(アメリカにおいて)禁止されているのと同様に、個人の学歴調査を禁止しなければならないと主張する。また、学歴に基づく差別を禁止する法律を制定することも提案している。

「脱学校の社会」という提案において、イリイチは単純にすべての種類の学校を無くしてしまおうと考えているわけではない。イリイチが主張するのは、むしろ社会のエートスを「脱学校化」することなのである。彼は「学校」という制度を通して、人間の世界観や価値観を形成している近代的制度への根本的な批判をしている。彼は、現代の学校制度に集中的に現れている現代社会のエートスは、学校制度以外の医療、交通、その他の制度にも広く行きわたっているのであるが、学校制度は、この方向をさらに促進する主要因になっていると考えていた。

イリイチは、教育の機会を平等化することは必要なことであり、実現可能なものでもあるが、それを義務制の、段階的に進級する学校制度を通して実現することは不可能だと考えている。そのためには、現在の学校制度ではなく、むしろ学習や教育を回復するために制度の根本的な再編成を主張している。この新たな学習と教育のための制度としてイリイチは、コンビビアリティ(conviviality)の概念を提唱する。本書では「相互親和」と訳されている。「コンビビアリティ(相互親和)」とは、産業の生産性とは対立するもので、人々の間、および人々とその環境の間での自律的で創造的な交流のことであり、一人一人の人間が相互に依存することのなかで、個人の自由が実現されるという。つまり「コンビビアリティの社会」とは、その社会の構成員一人一人に、その社会の中にある道具(tools)を最大限に利用できるような保証を与える措置がとられた結果生じるもので、そこでの各人の自由への制限は、他の人が彼と平等に自由を行使できるようにするためにのみ課される社会だという。

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