恩田木工の「理外の理」と人間教——山本七平の『日本人とユダヤ人』より
イザヤ・ベンダサンとは山本七平のペンネームである。この『日本人とユダヤ人』は彼が最初に著した本で、当時、イザヤ・ベンダサンなる者を誰も知らなかった。しかし、この本はあっという間に話題となり、売れ続け、第2回大宅壮一ノンフィクション賞を授賞する。そこからメディアによる「イザヤ・ベンダサン探し」が始まるが、山本が事実を明かさなかったため、ベンダサンの正体はしばらく不明のままだった。この正体不明の「在日ユダヤ人」ベンダサンによる日本人とユダヤ人の比較文化論的エッセイが本書『日本人とユダヤ人』である。
山本七平(1921 - 1991)は青山学院専門部高等商業学部を1942年に繰り上げ卒業。当時は戦時中であり、普通より短期間で学業を終えている。その後1944年に山本はフィリピン・ルソン島に出征。終戦後もマニラの捕虜収容所に収容されるという過酷な経験をしている。戦後は「山本書店」店主として、本を出版しながら徐々に評論家としての地位を確立していった。かなり異色の経歴の持主である。文筆家あるいは研究者として正規の教育は受けていない。しかし、彼は幼少の頃より大変な読書家で、書店を経営しながらも多くの書籍を読み込み、その深い教養と学問的造詣が著作に表れている。
日本人とはいかなる人びとであるか。日本人の奥底に潜む本質とはいかなるものか。これが山本のライフテーマであった。それは、彼が幼少の頃よりクリスチャンとして育ったこと、戦前の「空気」の中で肩身が狭い思いをしたこと、戦争に出征し日本兵として過酷な戦場を体験したことなどが影響している。彼は、一種のアウトサイダーとして、日本人を見つめ続けていたに違いない。
『日本人とユダヤ人』では、『日暮硯』を書いた江戸中期の松代藩家老・恩田木工(おんだ もく, 1717 - 1762)の話が出てくる。彼は財政が大きく傾いた松代藩を、皆を驚かせるような手法で立て直した。それは未払いの税金もすでに払われた税金も、さらに賄賂事件もすべてチャラにしてしまうというものだった。これに対しては「あまりにも不公平ではないか」と反対する者も多かったという。しかし木工は「おっしゃる通りだが、それは理屈というもので、理屈を通してもいまの藩政の窮状を救えない」と語り、結局、「理屈」は取り下げてもらい、集まった者全員が、藩政改革に邁進する方向に話をもっていってしまった。この恩田木工の考え方である「理外の理」が、日本人には通底しているとベンダサン(=山本)は言う。
約束は守るべきだ、守らない者には罰を与える。これが戒律の民であるユダヤ人、ひいては欧米での思考である。それに対して、約束を守っていない者が間違っているという「理」だけで押していけば、かえって皆が損をするという「理外」の理を展開して、みんなが損をしない方法を説得する。それが木工の方法だった。そして、それは現代日本にも生き続けていると山本は言う。
それでは、この「理外の理」の考え方は何に基づいているのか。それが「人間相互の信頼関係の回復」というものであり、つまりは「人間」「人間的」「人間味」という言葉を私たちが使うときの「人間」を基礎にした倫理である。これを「人間教(日本教)」と山本は呼ぶ。日本人はみな、この「人間教」の信徒であると言うのである。しかしながら、この「人間教」は諸刃の剣である。ここで呼ばれる「人間」の共同体に入っている者にとってはとても心地よいが、その外部の者は排除されるという傾向をもつからである。そして、この人間教の教徒は「同一行動」をするのがとても得意であり、そこから「空気」というものが生まれてくるわけである。そして、それは「同調圧力」ともなり、同一性を持たない者への排除の論理ともなる。現代でも私たち日本人に、この風潮は強く働いているように思える。とするならば、私たちはやはり「人間教」から未だに抜け出せていないようである。