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マンデラの獄中生活——看守たちはいかに感化されたか

私から看守と政治についての話を始めたことは、決してありませんでした。私は看守たちの言うことに耳を傾けました。質問したがっている人に応える方が、効果的なのですよ〔略〕「なぜ、罪もない人を攻撃したり、殺したりして、この国にひどい難儀をもたらすんだ?」と聞いてきたら、こう説明するチャンスなのです。「あなたは自分の国の歴史を知りませんね。イギリス人に抑圧されたとき、あなたたちは私たちとまったく同じことをしました。それが歴史の教訓なのです。」(長田雅子訳『ネルソン・マンデラ——私自身との対話』一部改変)

堀内隆行『ネルソン・マンデラ——分断を超える現実主義者』岩波新書, 2021. p.93-94.

ネルソン・マンデラ(Nelson R. Mandela、1918 - 2013)は、南アフリカ共和国の政治家、弁護士。第8代南アフリカ共和国大統領。若くして反アパルトヘイト運動に身を投じ、1964年に国家反逆罪で終身刑の判決を受ける。27年間に及ぶ獄中生活の後、1990年に釈放される。翌1991年にアフリカ民族会議(ANC)の議長に就任。当時の大統領フレデリック・デクラークとアパルトヘイト撤廃に尽力し、1993年にデクラークと共にノーベル平和賞を受賞。1994年、南アフリカ初の全人種が参加した普通選挙を経て大統領に就任。民族和解・協調政策を進め、経済政策として復興開発計画(RDP)を実施した。

マンデラの信念や思想は映画『インビクタス』によく描かれている。象徴的だったのは、南アフリカ代表のラグビーチーム「スプリングボクス」キャプテンだったピナールとのやりとりである。アパルトヘイトの時代、白人選手のみのラグビーナショナルチームは人種差別の象徴とみなされていた。マンデラが大統領になった後、彼はこの白人のラグビーチームに対して予想外の姿勢を示す。彼は、白人たちを赦す寛大な心を説き、ピナールをアフタヌーンティーに招いた。そして彼に「新たな役割」を引き受けることを求めたのだった。その役割とは、アフリカ人たちを含む国民の士気を高めることである。ただ、マンデラは命令しなかった。彼の要求の仕方は遠回しで、ピナールには初め、何の話か分からなかった。押し付けがましい説得ではなく、相手が納得して行動することを重視したのである。

27年もの長きにわたる獄中生活をマンデラはどのように過ごしたのであろうか。マンデラたちの内部闘争や外部からの圧力のおかげで、1960年代後半より徐々に監獄全体の待遇が改善されはじめる。しかし、この状況改善の上で大きかったのは、マンデラが「個人的に看守たちを感化」したことであった。看守の多くはアフリカーナーだったため、マンデラは通信教育で彼らの言語のアフリカーンス語を習った。さらにアフリカーナー詩人の詩集などを手に入れ、彼らのものの考え方を学ぶ。このようにして看守たちと親しくなり、やがて一部の者と政治の話をするようになった。そのときの極意を後年語ったのが冒頭の引用である。

「私は看守たちの言うことに耳を傾けました。質問したがっている人に応える方が、効果的なのですよ」というマンデラの言葉には、対立し分断されている人びとがいかにその軋轢を越え、相互理解と宥和に至るかの道が示されている。マンデラのやり方は、まず相手の文化やものの考え方を学ぶということだった。結果として政治的な行動と結果がもたらされるにしろ、その前にはお互いが親しくなり、雑談や日常的な話をするという段階がある。文化や信念が異なる人びとがいかに相互理解に至ることができるかと言えば、まずは自ら相手の文化に敬意を払い、それを理解しようとする姿勢がなくてはならない。そして、相手に「耳を傾ける」ということ、「質問したがっている相手に応える」というやり方が効果的であるとマンデラは語る。

マンデラの長き獄中生活は、彼をこうしたプラグマティストあるいはリアリストにした。自分の信念を一旦脇に置き、現実の必要性に応じて柔軟に姿勢を変えるというやり方である。彼が獄中生活で白人の看守たちを感化したとき、それも最初は生活上の必要からだった。釈放後の日々も、マンデラのこうした政治的姿勢の集大成といえるものだった。冷戦の集結にも柔軟に対応し、白人たちを安心させ、全国民の父として振る舞った。白人選手のみで構成される「スプリングボクス」に対してマンデラが示した寛容性と、さらに新たな役割を期待し全国民の士気をあげることに成功したことは、彼のプラグマティストとしての真骨頂だったと言える。


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