見出し画像

三崎亜記『廃墟建築士』(集英社)書評

*これも時事通信社より依頼された地方紙向け書評。再録に際して若干手を加えました。

 文学とは世界との違和感の表出である。現実と意識のズレにさいなまれるものが、その「ズレ」に促され文学を書き、あるいは読む。さらに現代の文学は「ズレ」そのものに魅せられ、さまざまな意匠を凝らして「ズレた」世界を描くものも多い。
 三崎亜記も、原因と結果、目的と手段などが転倒した「ズレた」世界を描きだす作家だ。そのあざやかな着想は、建築を主題とした四つの中短編を収めた本書でも健在である。「七階」を撤去しようとする自治体に対して繰り広げられる、「七階護持闘争」なる運動。結果としてではなく目的として廃墟を作り続ける建築家と、その廃墟に癒しを求める世界。それ自体の存続のために書物を所蔵する、自らの意思を持った図書館。守ることが自己目的化した蔵とその管理者。架空の歴史を捏造してまで三崎は、現実とは異質なロジックを備えた世界を構築する。


 主人公も読者も、この異質な世界に違和感を覚えつつ魅せられていく。と同時に、現実がいかに恣意的で脆弱なものだったかも否応なく認識することになるのだ。だがその一方で、作品世界はどこまでいっても不安定で、どこか頼りないままだ。その異質な世界の側に立ち主人公や読者を教え導くはずの登場人物も、「迷いも諦めも抱えたまま、生きていくしかない」などと呟く始末である。
 

 これらの物語の主人公たちは、いつも最後に「どこに向かっているのかもわからぬ闇の中」でとりあえず歩き出すことになる。一人称の主人公の正しさを保障するものは何も与えられないまま。そして世界とのズレを埋め尽くす完全な文学など永久に望むべくもなく、したがって文学の営みは絶えることがないように、主人公とともに読者も、そしておそらく作者も、とりあえず歩き続けるしかない。「ズレ」の意識をそれ自体として保持しつづける、それはきわめて困難だが同時に、この上なく「文学」的な行為なのだろう。
 

 その中で「蔵守」は、最後に明確な目的を登場人物に与えると同時に、主人公を外から客体化する視点を措定している。本書ではやや異質な作品である。この作者にして、やはり確かなものを求めずにはいられないのだろうか。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?