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地域にとってのお祭りを考える


研究対象を決めた理由

 私の研究対象は「越後浦佐 毘沙門堂裸押合大祭」を取り仕切る「多聞青年団」である。研究対象を決めたのはM2の6月。実はそれまで別のこと(雪形)を研究しようと思っていた。
 ある日、食文化を研究したいというチームメンバーに、「それなら地産地消にこだわっている小玉屋の小島さんに話を聞こう!」とヒアリングの機会を設けたのが転機だった。
 話を聞いているうちに小島さんからは「地域を元気にしたいんだ」という熱意が伝わってきた。もともと首都圏でシェフをしていた小島さんが地元に戻ってきたきっかけを聞くと、「浦佐は同級生のつながりが強く、何かしようと思った時に応援してくれる仲間がいる」ということだった。「へ〜、それっていつの同級生なんですか?」と聞くと「小学校からの」と言う。
小学校の同級生が大人になっても地元で助け合うなんて相当レアだ。私の場合、小学校の同級生は地元にもほぼいないし、どうしているかすら知らない。興味を持って話を聞いていくと、”つながりの元”になっているのが多聞青年団だった。こんなに熱心な人がいるなら、研究して貢献できることがあるかもしれない。そう思った瞬間、「じゃぁ私、多聞青年団を研究します!」と口にしていた。
 さて、多聞青年団を研究しますと言ったものの、師匠からは「青年団ですか〜、じゃぁまずはこれを押さえればいいんじゃないですかね?」と紹介されたのは『合本 青年集団史研究序説』平山 和彦(新泉社,1988)だった。609ページ・・・この時点でディープな世界に足を踏み入れてしまったことに気づき、失敗した、と思ったものだ。

浦佐多聞青年団てどんな組織

概要

 さきほど「青年団」と言ったが結論からいうと多聞青年団はいわゆる日本青年団などの連合組織に属すものではない。3月に浦佐で行われる毘沙門堂裸押合大祭(国指定 重要無形民俗文化財)の執行のみに特化した団体である。起源は中世の頃からの「若者衆」や「若連中」とされるが不詳である。
 浦佐地区出身の19〜29歳までの男性で構成され、最盛期の昭和55年には200名を超えていた。近年は少子化の影響により団員が減少し、南魚沼市出身者に枠を広げているが、50名ほどが所属し、実働は30名強という状況である。
 組織は学校と同じように同級生ごとにまとまっており、29歳の「最高幹部」までが階層となっている。業務は「係」と呼ばれる役割ごとに縦割りで行われ、年長者が教える仕組みが整っている。また卒業後はOBとして10年間、現役をサポートする。

組織図(著者作成)

多聞青年団が生み出す「つながり」とは

 ここまでならきっとどこの祭りでもある話だろう。しかし多聞青年団が他と違うのは、卒業後に最高幹部だった同級生が「餅会」を結成することだ。これはその名の通り、大祭で撒かれるお餅を奉納するための団体なのだが、少なくとも30歳から還暦までの30年間続けられるのだ。ここには青年団には属していなかった同級生(男女)や、その家族など、家族ぐるみの同窓会のような機能が付加される。2月下旬には奉納のための餅つきが街中で行われ、帰省した同級生と1年ぶりに顔を合わせて喜ぶ姿があちこちで見られる。
子供たちもこの時期には祭り独特のムードに包まれ、お祭りの楽しさを体感していくのだ。
 つまり、餅会は地域の絆を強め、次世代に継承するための母体となっているわけだ。

餅会のしくみ

毘沙門堂裸押合大祭とは

 さて、ここまで青年団を中心に話を進めてきたが肝心の大祭についても解説しておきたい。

押合いの起源

 大祭は1200年ほどの歴史があり、坂之上田村麻呂が毘沙門堂を建て、村人と共に祈り、祝宴をしたことが起源とされる。その後1年に一度だけご開帳される毘沙門天に我先に参拝しようと、多くの信者が詰めかけ、押し合うようになったことが始まりとされている。江戸時代の『北越雪譜』にも登場するが、当時は女性も参加していた。毘沙門天を拝むには、この押合いの中を果敢に進み、内陣にいる青年団に引き上げてもらう必要がある。

押合いの熱気で湯気があがる堂内

大ローソク

 大祭前日に行われるのが大護摩修行で焚かれた火を大ローソクに移す献火式。30kg〜50kgもあるという巨大ローソクに火を灯す儀式である。儀式化されたのは昭和53年と比較的新しいが、現在では別名「大ローソク祭り」とも言われるほど代名詞となっている。大祭でこのローソクを担ぐ青年団の凛々しさにも注目したい。

今年の献火式の様子

水行

 身を清めるために行われるのが水行である。押合いの前に境内にある『うがい鉢』と呼ばれる水鉢に入って、肩まで水に浸かり真言を3回唱える。参加者は当日だけだが、青年団は1週間前から肉・魚などを断ち、水行で身を清めて大祭に臨む。

水行する参拝者

サンヨ〜サンヨッ!

 大祭の最中に響き渡る「サンヨ」の声。これは「撒与=撒く」ことだ。大祭の最中、福餅はもちろん、弓張や金杯・銀杯、御灰像などが撒かれ、福を求める人々が奪いあう。「サンヨ〜、サンヨ」に対し、「マケヨ〜、マケヨ」と言いながら撒与品を手に入れる。

ささらすり

大祭のクライマックスとなるのが「ささらすり」。ササラとは竹でできた楽器のようなものである。数名の音頭とりが歌をうたい、年男が人馬に乗ってササラを擦り鳴らし、その周りを押合いをしていた男衆がぐるぐると回る。歌は49回繰り返され最後は「ざざんざざん、松浜の音ざざんざん」と唱えられる。すると回っていた男衆は二つに割れ、年男が内陣に入りササラを本尊の厨子に納める。その後、御灰像の木札が撒かれて大祭は終了するのだ。

地域にとってのお祭りの意味

地域をつなぐ

 お祭りの準備が面倒だ、付き合いが大変だという話はどの地域でもよく耳にする。たしかに浦佐でも祭り好きもいればそうでない人もいる。しかしこの大祭に身を置いてみるとわかることがある。それは、大祭を成功させるために地域の人が一丸となっていることだ。祭りの主役となる男衆はもちろん、地域の女性たちはおにぎりやけんちん汁など精進料理を作って大祭を支えたり、ボランティアを買って出る。青年団の同級生や家族は応援に駆けつけ、小さな子供たちは張り切って声を出している。みんなでついた餅は福餅となって撒与され、地域の多くの人の手に渡る。「サンヨ〜、サンヨ」「マケヨ、マケヨ」とみんなで声を出すことで生まれる一体感。これが地域にとっての祭りの意義なのではないだろうか。

大きく声を出す子供や女性たち

よそ者を受け入れる度量

 大祭の後、地域の人々に聞くと必ず出てくるのが「大勢の人が楽しんで帰ってくれてよかった」という言葉だ。歴史的に遠方からやってくる毘沙門堂の信者(講中)を受け入れてきた浦佐は、この日に合わせて外から来る者を受け入れる器ができている。「押しには入るか?」と積極的に声をかけ、押合いに入れば「(毘沙門様を)拝めたか?」と気にかけてくれる。各地に排他的な祭りも多い中、よそ者を単なる観光客ではなく、受け入れる度量を感じるのがこの裸押合大祭なのである。実際、この温かさに触れて虜になる人も多く、毎年通ってくる常連もいる。関係人口創出に各地域が躍起になる中、浦佐ではこの地域の核である大祭を通して、自然とそれができている。かくいう私もよそ者であるが、研究していることを大層喜んでくれ、いまでは大祭委員のみなさんに混じって参加させてもらっている。

前夜、大護摩に参列させてもらう筆者

維持・継承するために

伝統は変わることで継承される

 良い点を書き連ねたが、もちろん浦佐でも少子高齢化は進み、大学進学等での若者の流出も課題となっている。多聞青年団も業務を見れば100名以上必要であるが、実働は30数名。OB総動員でなんとか持っている状況だ。そのため、岩手県の蘇民祭の中止は他人事ではないと危機感を抱いている人も多い。
 そんな中、浦佐では新たな動きも起きている。2020年には、多聞青年団など関係者が参加しやすいようにと、日程が3月3日から3月の第1土曜日に変更され、今では多聞青年団への女性の参画も検討されている。「見て覚えろ」の世界だったものが、後進への指導を手厚くしたり、OBがサポートしたりと、維持・継承するための努力を自ら行っているのである。

若い衆らに任せる

 「もう俺たちは昭和28年に、若い衆らに祭りを任せたんだ。だから青年団が祭りの心配をせんでいいように周りはちゃーんとしてやらんばなんねぇ」その言葉を実践しようとしているのが、当時生まれたばかりだった世代、現在の重鎮たちである。章の冒頭の「伝統は変わることで継承される」というのも彼らの言葉。自らが作ってきたしきたりややり方を、自ら変えていこうとしている。もちろん反対派もいる中「昔の文献にはこう書いてある」と自ら歴史を掘り起こしたり、つたない研究者である私の話を聞いてくれたりして、改革の旗を振っている。そうした姿勢を見ていると、「あぁ、このお祭りがある限り、この地域は大丈夫だな」と感じることができるのだ。

令和6年度の多聞青年団と大祭委員長


参考リンク
・八海の国風土記(高塚・佐藤・中川・佐々木・海老原の共同研究)

・文化遺産オンライン

・浦佐多聞青年団のHP

・越後浦佐普光寺

・ファミリーダイニング小玉屋


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