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天空の森での目覚め③

「森のリトリート」って、一体なんだったのか?
まだまだ言語化と現実社会での結合との探求の道のりにいるけど、一旦まとめておこう。

終わってから既に3週間。
感覚が拓き、五感が研ぎ澄まされる体験、
美しい自然、美味しい空気や食事、
仲間達との心地良い関わり・・・


残念ながら、森で体験した「感覚」は少しずつ薄らいでいる。

山から降りて都会に戻った時、
新幹線の中で隣の席の人の匂いがずっと気になった。

匂いや気圧の変化を敏感に感じて頭痛がした。

横浜の自宅で、今まで意識したこともなかった冷蔵庫のモーターのジーという音が気になった。

が、ジー・・・は、もう聞こえない。

人間の感覚はすぐに慣れる。
良くも悪くも。

それでもなお今でも森から教えてもらったことで、深く私に刻まれていることがある。

それは、

   「全て在り、循環し、深く根っこでつながっている」

それが思考ではなく体感覚で分かった、ということ。

大切なものは「在る」
私たちはそれに気づいていないだけ。

人が日々幸せを感じながら生きるということは、在るものを見て、感じ、感謝するということだけなのではないか。
無いものばかりに焦点を当て続けるならば、いくら不足を補っても永遠に不足はなくならないし、いつまで経っても満たされない。

「本当は在る」ものに気づくためには、洪水のように襲ってくる多種多様な情報と、生きるスピードをコントロールし、視野を広げ、視界の端っこに在って大切なもの(実は薄っすら自分でも気づいているもの)を、無意識にスルーせず、丁寧に意識を向けるのだ。

そうすることで、いつでもどこでも感謝と幸せを感じられる、ということを森は教えてくれた。

それは何も特別なことではなく、森に放たれ、人間が限りなく動物としてのヒトとして存在すると、自然とそうなる。
普段、どれだけ多くの本来持っている智慧を手放しているかに気づき、愕然とする。


森には無駄はない。
光を得るために木々は上へ上へと育ち、その過程で枝を落とす。
時に激しい雨風で木は倒れる。
それらを動物、虫、微生物が土に還す。
それを栄養として、また木々は育つ。

森は、全ての生き物が連鎖し、循環し、その全てによって完全体として存在する。
全ての生き物は違っていて、ちゃんと役割と価値がある。他者と比べることもなく、存在しているだけで素晴らしい。

そしてこの森は私が住む横浜や東京とつながっていて、同じ地球なのだ。
私はその地球に住んでいる地球市民だ。

深く深く全てのものや人は根っこでつながっていて、影響しあっている。
何一つ、不要な存在はない。


しかし、実際の現実社会は瑣末な色々に日々忙殺されていて、本当にこれは必要なのか?と思うことやものもある。

多様性のリアルと向き合うと、私の中にも、自組織にも、クライアントにも、顕在・潜在の難しさをはらんでいて、「みんな違って、みんないい」は、そんなに綺麗な良いことばかりではないと痛感している。

森が理想なのか、現実なのか。。。

それでもなお、それを原理的な真理であると信じ、地球市民としての視点で俯瞰し、これからも森を感じながら、森のように私は生きていきたい。


森のリトリート https://morie.co.jp/
写真 Fumihiko Abe

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