ひとつになるとき。
ふみもとこと、ふみもとこではない部分の私。
ひとつの身体で、ふたつ分以上の人生を生きているような心地で、ここ数年は駆け抜けてきたように思う。
ものを作る私を生活の延長に置きたくなくて、名前を分けた。平たく言えば、身バレ防止。というか、ふみもとこが作るもの、表現することと、私のこれまでの日々を紐づけてほしくなかったからだ。
私は私の役割を。
ぼくはぼくの役割を。
そんな感じで、自分の中で線を引いて
それぞれにやることをやってきた。
そのおかげで上手いこと自分の中でバランスをとって生きられるようになったけれど、
今思う。もういいんじゃないかなって。
どちらの私も、私自身。
仮面とかでもなくて、ありのままの私。
会社で一生懸命になってるのも、私。
絵筆で魔法を使うのも、私。
歌うのも、私。
全部が全部私自身。大切なことだと思う。
なんとなく、人によって自分を使い分けることって誰にでもある事だと思う。完全に別人みたいに振る舞うとかじゃなくて、その場によってはしゃいだり、はしゃがなかったりみたいな。
その落差に振り回されてしまったり、差があるから自分を持ち上げるために頑張らなくちゃいけなくなったり、そういう面もあるんじゃないかなって。
世界は私を映す鏡みたいに、光も影も持っていて
それを光だ、影だ、と認識する私がいる。
認識の理由は全部私の中にある。
自分の光を探して、守って、育てて、
影に気づいて、愛して、許して、
変わろうとする部分も、変えたくない部分も受け入れつつあって、
やっといま、自分のなかでバラバラになっていたものがひとつになっていく感じがする。
ああ、そういうことだったのか、と。
すごくゆるやかに日々が過ぎている。
日常は嵐みたいに目まぐるしのに、日々をとらえる私の心はなんだか静かだった。
生まれ変わってもまた私に生まれたい、そんな言葉を言えるくらいに、人生を愛せるようになった。
(愛についてはよく分からないが、ここでは私のいろんな感覚が混じりあった概念として、敢えて愛するという言葉を使うことにした)
正しさを求めることも、間違いだと傷つき直すことも、もういいんだ。
このまま穏やかに歳をとっていけたらいい。
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