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孫四郎の犯罪

1.殺生の快楽

 「殺生の快楽は、酒色の快楽の比ではない。罪も報いも何でもない」。これは、柳田國男が『後狩詞記』(のちのかりことばのき)の序文に書いた言葉である。一言で猟奇的犯罪の本質をも鷲掴みにするような凄みがあるから、刑法を研究する者としては、最初に読んだときからこの言葉が頭に焼き付いている。

 この書は、柳田が宮崎県日向の椎葉村に古くから伝わる狩りの作法をまとめたものである。猟犬の仕込み、獲物の射方、屠り方など、どこを開いても血の匂いがしてくるが、古人は狩りに厳格な作法を嵌め込むことによって血の暴走を抑え込み、厳重な神事にまで高めている。狩りに、まるで茶の湯の愉しみを説くかのようである。

 その後に書かれた彼の代表作『遠野物語』にも随所に血の匂いが漂っているが、全体に散りばめられている座敷童子や天狗、山男、山姥、幽霊など異界の物語は、すべて民話の衣を被せて血の匂いを薄めるための工夫ではなかったか。

 『遠野物語』にはまた、河童の子を生み、刻んで埋めた話や、妻に化けた狐を剌し殺した話、庭の木に草履を揃えたまま神隠しにあった女の話など、罪の匂いを感じさせる話も多いが、ここではある悲惨な親殺しを端緒に、当時の法制度的な背景などについて思いをめぐらせてみたい。

 それは、こんな話である(11話)。

2.孫四郎の凶行

 母一人子一人の家に嫁いできた嫁とその姑の仲が悪くなり、間に入って悶々としていた亭主の孫四郎が、ある昼下がりに突然、「ガガはとても生かして置かれぬ、今日はきっと殺すべし」と言い出し、母の目の前で大鎌をゴシゴシと研ぎ出した(「ガガ」は母を意味する遠野の言葉である)。母はあまりのことに涙ながらに詫び、嫁も泣いて諫める。が、孫四郎はまったく聞こうともしない。母が逃げようとするも戸口に鍵をかけ、便所にも行かせない。とうとう観念した母は囲炉裏端でうずくまり泣くばかりである。夕刻になり、いよいよ孫四郎が大鎌を手に迫り、母に斬りつける。母の絶叫、奥山にまでも響き渡り、驚いて駆けつけた里人たちに孫四郎は取り押さえられ、警官に引き渡される。これを見た母は、「滝のやうに血の流るゝ中より、おのれは恨も抱かずに死ぬるなれば、孫四郎は宥したまはれと言ふ。之を聞きて心を動かさぬ者は無かりき」。その後孫四郎は、「狂人なりとて放免せられて家に帰り、今も生きて里に在り」。

3.「狂人」とされた孫四郎

 孫四郎が殺害行為に着手するまでのジリジリと焦げるような緊張感はさすがだと思うが、母親や嫁の名、孫四郎のその後の人生には何も触れられていない点がかえって事件のリアリティを薄め、血なまぐさい凄惨な尊属殺人をまるで民話のように読ませている。しかし、これは『遠野物語』が出る13年前の明治30年3月22日、遠野郷で実際に起こった事件である。新聞にも大きく載ったらしく、土地の者で知らぬ者はなかったという。調べてみると、殺された母親はモヨという名で71歳、孫四郎は安政4年の生まれで40のときの凶行であった。「狂人」として放免されて家に帰った孫四郎は、昭和4年8月まで生きて、72歳で死んだとある(『遠野物語』が世に出たときには、まだ村に生きていたことになる)。

 この事件で興味を引くのは、親殺しという大罪を犯した孫四郎が警官に逮捕され、いったんは刑事司法システムに委ねられながらも、「狂人」とされて自宅に帰されている点である。

 だれが、どんな理由から孫四郎を「狂人」と判定したのか。また、なぜ自宅に帰されたのか。嫁との関係はその後どうなったのか。孫四郎は、それからどんな人生を送ったのか。村人たちとの関係はどうだったのかなど、いろいろと想像は膨らむ。

4.尊属殺人

 かつて刑法典に存在していた尊属殺人の重罰規定は平成7年にようやく削除されたが、今も親殺しは時々見られるので、この孫四郎の犯罪も刑法から見れば何も特別な事件ではない。ちなみに、警察庁による平成25年の調査では、殺人の年間認知件数807件のうちで実父母の被害者は134名であり、傷害致死でのそれは99件のうち23名であった。

 親殺しは、周知のように、古代からもっとも重い犯罪の一つであり、古今東西、どこの国でもこれを徹底的に処してきた。身分関係がとくに厳しかった江戸時代、「御定書百箇条」では、通常の殺人は〈下手人〉(斬首)、私欲が加わった殺人は加重されて〈死罪〉(斬首および死屍の試し斬り、情状によっては引廻し)とされたが、親殺しは、これよりさらに一等加重されて〈獄門〉(斬首および晒し首、情状によっては引廻し)となった。

 獄門は、梟首(きょうしゅ)とも呼ばれ、斬首刑に処せられた者の頭部を公然と晒すとくに重い刑罰である。これは、食肉鳥である梟が老いて弱った親鳥を突き殺して食ってしまうところから、世に親殺しほど不孝なものはないとして、正月に家々の門口に梟の首を斬って晒し、孝道の重きを天下に知らしめたという古代中国の故事に由来している。人の集団を構成する原理として〈忠と孝〉を政治の根底に据える、現代とはまったく異なった法思想のもとでのことであった。

 なお、「乱気」(精神障害)による殺人であっても原則として〈下手人〉とされたが、周囲の者たちの証言による「乱気」の確証があり、被害者の主人や親類からの下手人宥免願いがあれば、詮議によって願いが認められることもあった。しかし、「乱気」による親殺しの場合は、宥免願いの有無にかかわらず〈獄門〉に一等を減じて〈死罪〉であり、傷を負わせたにとどまる場合も死罪とされ、いずれにしても親殺しは死を免れることはできなかった。

5.明治初期の法制度

 明治になっても、仮刑律(明治元年)や新律綱領(明治3年)は、尊属殺人を普通殺人に比べて特別に重く処罰していた。仮刑律や新律綱領は、いずれもわが国古来の律、それに徳川幕府の御定書を参考にしたものである。律とは、8世紀の律令制度(大宝・養老律令)のもとでの刑法であり(令は行政法)、王政復古の大号令で始まった明治維新は、千年以上も前の律令制度の復活を革命の理念としていたのであった。しかし、その後、脱亜入欧の国是から西洋法継受の流れが強くなり、フランス刑法の影響を受けた改定律例が明治6年に編纂されるが、内容的には依然として律の影響が強く、尊属殺人の重罰化についても大きな変化はなかった。

 これは、明治13年公布の旧刑法典でも同じであった。尊属殺人は、死刑以外に法定刑のない重罪(旧刑法362条)であったし、かりに父母の方から先に殺害行為がなされても、子には正当防衛は許されなかった(旧刑法365条)。

 他方、触法精神障害者についてみれば、新律綱領や改定律例において新しい動きが見られた。すなわち、普通殺人であれ、尊属殺人であれ、「瘋癲(ふうてん)人」(触法精神障害者)に対する死刑は廃止され、「鎖錮(さこ)終身」に処すこととされたのであった。「鎖錮」とは私宅監置(親族による監護、あるいはいわゆる座敷牢での監置)のことであり、これは刑罰というよりはむしろ再犯の予防を目的とした一種の保安処分の性格を強くもった制度だったといえよう。

 このような流れをさらに一歩進め、「(重度の)精神病者」を明確に刑罰の対象から外したのが旧刑法である。旧刑法78条には、「罪ヲ犯ス時知覚精神ノ喪失二因テ是非ヲ弁別セサル者ハ其罪ヲ論セス」という規定があり、これが明治40年制定の現行刑法39条1項(「心神喪失者の行為は、罰しない。」)につながる。古くからある〈精神〉という語も、おそらくこの頃から物質に対置される概念としての〈精神〉という使い方がなされるようになったのではないだろうか。

 ともかく、こうして触法精神障害者に対する処罰から治療への大きな変革が生まれたのだが、当時は、「癲狂(てんきょう)院」と呼ばれた精神科病院も専門の精神科医もその数が絶対的に不足していたため、普通の内科医の診断で「私宅鎖錮」に付されるのが一般であったと推測される。

6.狂人なりとて放免せられ

 孫四郎の事件は、以上のような制度的背景の中で起こったのだった。

 事件のあった明治32年といえば、現在とは異なって、検察官の公訴提起を受けて被告事件を公判に付すかどうかを裁判官(予審判事)が決定する予備の制度があり、予審判事は、必要と判断したならば鑑定人に鑑定を命じることができた。孫四郎について鑑定が実施されたのかどうかは分からない。予審判事は、被告事件が罪とならないときは裁判を打ち切り(免訴)、被告人に「放免ノ言渡ヲ為ス可シ」(明治刑訴法165条)となっていたから、「狂人なりとて放免せられ」たというのは、このことであろう。

 また、遠野郷のある岩手県に精神科病院が開設されたのは他県よりも遅く昭和7年であったから、事件後、孫四郎は病院での監置ではなく、私宅監置に付されていた可能性は高い。しかし、いずれにせよ岩手県では明治20年訓令丁第72号「警ら及び巡回規定」で、巡査の受持簿に精神障害者の姓名住所を記載することが定められており、監置者のみならず、不要監置者についても警察の厳しい監視下にあったことが分かる。ただ、岩手県では、私宅監置に処せられた者が監置を解かれるケースも多くみられたということである。

7.血縁、地縁に連なる者たち

 互いの家々の内情を知り尽くした者たちから成る小さな共同体。奥山でモヨの絶叫を聞いたのは彼女の実兄であり、嫁も土地の娘であった。村は、血の縁、土地の縁に連なる者たちばかりである。叫びたいほどの息詰まる時間の中で、家族をつなぎとめていた糸が突然弾け、山へ逃れ、山男や山姥として一生を終えた者も多かったことだろう。一度異界に逃れた者は、再び村へ帰ることは許されなかった。

 人びとの関係性を破壊したものの、「狂人」として村に残ることを許された孫四郎ではあったが、私宅鎖錮に付されていたとしたら、それはそれでかなり悲惨な処遇環境だったようだし、孫四郎と村人たちの関係もおそらくはもつれたままだったのだろう。孫四郎が死んで後もしばらくは、「宥したまはれ」という死に際に母が発した言葉とともに、彼は「母殺しの孫四郎」として人びとの口の端に掛かっていたのではなかったか。そんな気がするのである。(了)

[主要参考文献]

  1. 橋本明:精神病者と私宅監置近代日本精神医療史の基礎的研究.六花出版、束京、2011.

  2. 昼田源四郎:日本古代と近世における狂気と犯罪.中谷隔二編:精神障害者の資任能カ一法と精神医学の対話ー.金剛出版、東京、1993.

  3. 霞信彦:矩を鍮えて.慶應義塾大学出版会、2007.

  4. 菊池照雄:山深き遠野の里の物語せよ.巣社、東京、1989.

  5. 菊池照雄:遠野物語をゆく.巣社、東京、1991.

  6. 礫川全次:柳田國男と流血の民俗学.犯罪と猟奇の民俗学.批評社、東京、2003.

  7. 永井順子:「精神病者」と刑法第39条の成立.ソシオサイエンスVol.11,2005.

  8. 永井順子「精神病者」と「社会」ー戦前の表象からの一考察.社学研論集Vol.8,2006.

  9. 小田富英「遠野物語」における犯罪と民俗.礫川全次ほか:犯罪の民俗学2.批評社、東京、1996.

  10. 滝本シゲ子:刑事司法精神鑑定の研究一日本における制度の生成と展開.OSIPPDiscussionPaper:DP-2010-J-003,2010.

  11. 田辺有理子:岩手県における精神病者監護法時代の精神障害者処遇の歴史.岩手県立大学看護学部紀要10:9-2,2008.

初出:臨床精神病理38巻1号3頁(2017年4月) 見出しのタイトルを追加しました。


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