見出し画像

ケネディがアメリカのマリファナ政策を変えるはずだった

ケネディ(1917-1963)は、大統領選挙のさなか、当選したら可能な限り早期に麻薬に関するホワイトハウス会議を開くと約束していた。

  • しかし、ホワイトハウスは、他の要因も考慮して慎重に進めるべきだという意見だった。ケネディを最終的に決断させたのは、かれの愛人であったマリリン・モンローの死だった。彼女は1962年8月に、カリフォルニア州ブレントウッドの自宅で死んでいるのを発見された。死の原因については議論があるが、直接の死因は睡眠薬の過剰摂取であった。モンローの死は、かれ自身もアンフェタミンに依存していたケネディに、医薬品の安全性や検査システム、処方薬の乱用や不正流通を見直す決意を固めさせた。

ケネディ以前の政府の考え方は、マリファナは暴力的行動を誘発し、身体的な中毒性を有しているというものであった。しかし、1961年にケネディが大統領に就任してわずか数ヶ月後に、政府はそれまでの抑止力を誇示する懲罰的アプローチに固執する理由はほとんどないと考えるようになった。それは多くの若者たちが個人的な観察や経験を通じて、マリファナがそれほど悪質ではないと信じるようになったからであり、ケネディは彼らの若さを受け入れ、そのエネルギーによって動かされたからであった。

ケネディが若者たちに訴えた理想主義は、古くからの難問である薬物問題にも及んだ。

弟のロバート・ケネディ司法長官は、アメリカは誇り高き強大な国家であり、降伏しなければならないような苦悩は存在しないと強調したあとで、次のように述べた。

  • 今までのわれわれの薬物問題に対するアプローチには、自信や進歩がまったく見られない、包括的なプログラムが存在しないだけではなく、そのようなプログラムの基礎となる十分に信頼できるデータが存在しないのである。

このような政府の姿勢は、これまでのアメリカの反マリファナキャンペーンからの決別を意味したのだった。

ケネディは、1963年1月に「麻薬・薬物乱用に関する大統領諮問委員会の設置」に関する大統領令に署名した。この委員会は、個々の薬物の化学的・生理的影響、依存症との関係、効果的な公共政策などについて深く掘り下げて検討した。そして、法的には区別のない薬物でも依存症のリスクや身体への影響は大きく異なることを証明し、低レベルの薬物犯罪については犯罪化による社会的・経済的コストが高すぎると主張した。この委員会報告は、それまでの政府や国連が薬物に対する恐怖心を煽り、薬物使用の規制や犯罪化を強めようとしていた時代に、穏健派の声として機能するはずであった。

しかし、この報告書は大統領のダラス訪問の数日前に大統領に提出されたため、結局その提言は実現しなかった。

ケネディ暗殺の瞬間

ケネディの後継者であるジョンソン大統領は、カウンターカルチャー革命が最も盛り上がっていた時期に大統領を務めていたため、薬物政策について葛藤していた。反戦運動がホワイトハウスの前でも行われていたし、その動きの中にドラッグの使用を見ていたからである。また、ベトナムから帰国した兵士がさまざまな薬物に手を出しているのも見ていた。

その一方で、ジョンソン政権は、アメリカの麻薬政策の方向転換を求める人々に希望の光を与えていた。先の諮問委員会の報告書は、国の麻薬政策局の改革も提言していたが、この改革案は薬物政策の責任の一部を司法省と財務省の法執行機関の独占的な管理から保健教育福祉省(HEW)に移すものであった。つまり、この改革は、薬物使用を深刻な犯罪問題としてだけ見るのではなく、公衆衛生上の危機としても捉えることを意味した。かれは当時のアメリカ大統領としてはたいへん大胆な発言を行なった。

  • 「いったん逮捕された薬物中毒者を犯罪者として扱うことに固執するのは、人道的でも効果的でもない。これでは、麻薬中毒を抑制することも、犯罪を防止することもできない」。

この包括的な新しい薬物治療計画は、薬物使用の厳罰化を求める法律や政策の波を押し返すはずであった。しかし、ベトナム情勢が急速に悪化していたこともあり、ジョンソン大統領は薬物法の改革を行うことができずにホワイトハウスを去った。麻薬使用者を犯罪人ではなく患者として扱うという、アメリカの麻薬法を根本から改革するという希望は、1968年の選挙ですべて打ち砕かれてしまった。ジョンソン大統領の後継者は、のちに麻薬戦争の口火を切ったリチャード・ニクソンであった。(了)

  • John Hudak:MARIJUANA―A Short History(2020)より


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?