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アルコール依存国家

ロシアがむかしから「アルコール帝国」と呼ばれたのは、国家そのものがアルコールによる税収に強く依存していたからである。

これは、15世紀にイヴァン3世がウォッカ産業の国営化を進めたときに始まった。帝国最盛期の19世紀には、酒税がロシア国家予算の3分の1を占めており、軍事予算はもとより、贅の限りを尽くした冬宮殿の建設費もこれでまかなわれた。そのため、政府はウォッカを国民にいっそう奨励した。

こうしてロシアでは、人びとがウォッカを飲めば飲むほど、国の金庫に金が入ってくる仕組みが出来上がった。

このような国民への規範は、国家組織のあらゆるところに及んだ。もちろん軍隊もそうである。酔狂な国家が、酔狂な軍隊を作り上げたのである。18世紀には、兵士に週3回のウォッカのチャルカと呼ばれる配給が標準となり、新兵が戦場に送られると、まずは酒盛りが始まった。将校たちが朝食をシャンパンで始めるのは、ごく普通の日課だった。つまり、指揮官たちも兵士と同じように酒を飲み、戦闘よりも酒に興味があるようだと、ある戦場ジャーナリストは書いている。

こうして国民を酒に酔わせて国家を豊かにしてきた独裁的ウォッカ政治だが、当然のことながら軍事力はどんどん弱まっていった。クリミア戦争(1853-1856)や、日露戦争(1904-1905)には、開戦のときからすでに酒が不吉な影を落としていたのだった。

ロシア皇帝ニコライ2世が意を決して禁酒政策に乗り出したのは、日露戦争に大敗し世界に大恥をかいたことがきっかけだった。1914年8月に政府がアルコール販売の禁止を命じ、同年10月にニコライ 2 世がこの措置を恒久化することを宣言したとき、禁酒法への現実的な第一歩が踏み出された。

禁酒令を伝えられ、兵舎にあるウォッカの廃棄を命じられた兵士たちは、まずはウォッカで酔わずにはいられなかった。しかし、多くの兵士は、禁酒令に腹を立てた。

禁酒令は、国家の最も重要な収入源を奪う財政的な自滅行動だっただけではなく、すでに脆弱であった皇帝の国民的支持をさらに弱めることになった。つまりニコライ2世は、みずから革命の舞台を整えたのだった。

1917年2月の王室打倒(2月革命)と10月の臨時政府の打倒(10月革命)は、しばしば酔っぱらいの混乱と無秩序に象徴され、新しい共産党の指導者はそのコントロールに苦心した。

革命政府は当初断固たる禁酒政策をとったが、1924年にレーニンが死亡すると、世界大戦と内戦という二つの荒廃から必死に立ち直ろうとしていた資金難のボリシェビキ国家にとって、アルコールはあまりにも魅力的な薬物に映った。国家はアルコール収入を得るために、ウォッカの禁止令を徐々に緩和し、再び国家による独占と課税が始まったのだった。

ところで、革命のさなか冬宮殿を襲撃した兵士の多くは、真っ先に冬宮のワインセラーを狙った。だれもがそこで激しい銃撃戦が行なわれたと思ったが、銃声に聞こえたのは実はシャンパンのコルク栓が弾ける音だった。(了)

参考
・PETER ANDREAS:KILLER HIGH-A HISTORY OF WAR IN SIX DRUGS(2020)

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