見出し画像

ヒトラー

胃潰瘍や不眠症に悩まされ、深刻な健康不安からアルコールもタバコもやらなかったベジタリアンのヒトラーは、健康のためにさまざまな薬物にどっぷりと頼り切っていた。

ナチスが政権をとった1933年から崩壊するまでの1945年まで、ヒトラーがもっとも信頼していたのは、主治医のテオドール・モレルであった。モレルはヒトラーに疲労回復やうつ状態を回復させるための静脈注射を毎日打っていた。ヒトラーがとくに強い刺激を必要とするときには、ストリキニーネ、ホルモン、メタンフェタミン(日本では「ヒロポン」の名前で市販されていた覚醒剤)などをよく注射していた。たとえば、1941年6月22日、帝国議会でソ連への宣戦布告のための演説をする前に、精神的な高揚のためにモレルはこうした注射を打ったという記録が残っている。演説の才能は、薬物でさらに磨きがかかった。

戦争末期には、ヒトラーは80種類にのぼる薬物を、1日に数回注射されていたといわれている。もともと深刻な睡眠障害があったうえに、このような大量の薬物を体内に取り込んでいたために起床が極端に難しくなっていた。たとえば、連合軍による1944年6月6日のノルマンディー上陸であるが、ドイツ軍の反応の遅れは戦略的にはまったく信じられないものだった。これは、すべての重要な軍事的決定は最終的にはヒトラーの承認を要するという脆弱なシステムに加えて、当日の朝ヒトラーが起きることができなかったという平凡な事実が原因であった。

1944年6月のヒトラー暗殺未遂事件の後は、とくにコカインオピオイド(鎮痛・陶酔薬)の強力な「スピードボール」で彼はつねにハイになっていた。

2005年の映画『ヒトラー 最後の12日間』は、ヨアヒム・フェストによる同名の研究書、およびヒトラーの秘書を務めたトラウドゥル・ユンゲの証言と回想録『私はヒトラーの秘書だった』にもとづいた、史実に忠実な映画である。1945年4月30日にヒトラーが自殺したとき、彼は猫背の老人で、声も弱々しく、震えた左手は右手で押さえなければならないほどだった。彼は器質的な病気にはかかっていなかったが、身体的にはボロボロになっていたのだった。

部下たちは、右手を斜め上にあげて「ハイル、ヒトラー!」と敬礼したが、よく耳を澄ませれば、
ハイ、ヒトラー!
と叫ぶ声が聞こえてくるかもしれない。(了)

参考

  • PETER ANDREAS:KILLER HIGH-A HISTORY OF WAR IN SIX DRUGS(2020)

  • Lukasz Kamienski:Shooting Up-A History of Drugs in Warfare(2012)

  • Dessa K.Bergen-Cico:War and Drugs(2012)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?