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ロシア軍はウォッカについて驚くほど自由で寛容だった

なによりもロシア皇帝軍の特徴は、ウォッカについて驚くほど自由で寛容なことであった。浴びるほどウオッカを飲むことが軍隊での習慣であり、そしてその習慣が規範にまで高まり、国民性の重要な一部分となった。軍隊では大酒は決して軍務と相容れない行為ではなく、むしろ節酒が政治的な逸脱行為だとみなされることもあった。

毎日30杯以上のワインを飲んでいたピョートル大帝(1672-1725)が、18世紀の初めに皇帝軍の水兵に週3回のウオッカの配給を許可した。その後、チャルカ(charka)と呼ばれるウォッカの日配が確立した(チャルカとは0.125リッターのこと)。ナポレオン軍との戦いでは毎日3チャルカ(約0.4リットル)のウオッカが支給され、皇帝ポールは日配酒の権利を海軍の規則に組込んで正式に認めた。入隊前は酒が飲めなかった下士官も、チャルカを経験すると、ほとんどがアルコール依存症になった。

トルストイは、ロシア軍が1805年11月にヴィシャウ(現在のチェコのヴィスコフ)の戦いでフランス軍に勝利したときのことを「戦争と平和」の中で次のように書いている。

「君主の感謝が部隊に伝えられ、名誉が約束され、兵士にはウォッカの倍量の配給が行われた。露営では焚き火がパチパチと音を立て、兵士たちの歌声が前夜よりもさらに陽気に響いた」。

日露戦争(1904-1905)のときには、旅順要塞のロシア軍守備隊の司令官が本部に弾薬の補給を要請したところ、弾薬のかわりにウォッカ1万ケースが送られてきた。彼等はこれを飲み干して、日本軍に降伏した。

ロシア軍の飲酒習慣は、現代にも連続性がある。

アフガニスタン戦争(1979-1989)では、規則ではウォッカは2本、ワインは4本まで認められていたが、ビールは無制限だったので、兵士たちはビール瓶を空にしてウォッカを詰めた。

チェチェン紛争(1994-1996、1999-2006)のときは、ロシア兵はチェチェン兵と日常的に取引をし、武器、弾薬、その他の戦争物資を、酒と交換した。なかには、チェチェン兵が1週間攻撃しないことを条件にロシア兵が装甲車1台とウォッカ2箱を交換した例もあった。ロシア兵は、戦死したチェチェン兵を家族に引き渡す前には、しばしばウォッカのボトルを要求した。

さて、今のウクライナではどうだろうか?

ロシア兵が撤退した後の民家の床に多数のウォッカの瓶が転がっているニュース映像を見たことがあるが、どうなんだろうか。(了)

参考
・Lukasz Kamienski:Shooting Up-A History of Drugs in Warfare(2012)
・PETER ANDREAS:KILLER HIGH-A HISTORY OF WAR IN SIX DRUGS(2020)


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