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住職のおばあちゃんがね、わたしに土下座をしたのよ

以前、義理の弟の次男の初節句のお祝いの席で、隣に座った岩井さんという方のお話を聞いた。私と奥さんが結婚した時から、もう10年以上お世話になっている方だ。岩井さんは、わたしの母と同年代の女性。80歳に近くなったがいつも柔和で優しい人だ。

「こんなこと話したことないんだけどね」
といいながら長い長い身の上話を、話してくれた。

時は戦中戦後。
彼女は中国本土にいた。当時幼かった彼女は、父親の仕事に日本から家族でついてきていた。満州を経由して訪れた本土で、中国人の使用人をかかえて大きな家での比較的裕福なくらしだった。

毎日は楽しく、彼女のお父さんは中国人の使用人と彼女とを、家族のように同じに接した。言葉が通じなくても彼女も毎日その使用人と遊んだ。

だが、時が経ち戦火の行方は雲行きを怪しくさせていった。そしてついに、日本は戦争に負ける。彼女は陛下のラジオ放送を中国本土で聞くことになる。

「それからが大変だったのよ。私たちはどうなるかわからない中、一歩も外に出られなくなったの」

それまで戦勝国として君臨していた日本人に、敗戦国としてレッテルが貼られた。様々な軋轢が中国で起きるのは想像に難くない。彼女の父親も仕事を失い、かといって日本から「帰国せよ」との知らせもないまま、幽閉状態となる。

「その時ね、使用人の人がね、門の前で必死に私たちを守ってくれたのよ。外への買出しは、みんなその人がやってくれたの」

元使用人は、言ったそうだ。
「この門から外にでてはいけない。門の外にでたらわたしでも守りきれない。ただ、門の中にいる限りは、わたしがあなた達を守るよ」と。

彼女達家族が守られ続け、一年の月日がたった頃。ようやく1隻のアメリカ船籍の船が、取り残された日本人を迎えにやってきた。

彼女10歳。小学4年生の時である。

持ち出せるものは、手に持てるものだけ。小さな彼女が体ほどもあるトランクを二つと背中にリュックを背負って船に乗ることになる。

「映画のトラさんがね、持っているような、あんな大っきなバックを二つも持って船に乗ったのよ」

沢山の荷物と人を乗せて、船は無事に佐世保につく。しかし、彼女の身よりは父親の兄弟が住んでいる栃木県の結城市だけ。はるかな旅路だ。両手に荷物でいっぱいのまま、汽車に乗ることとなる。

「みんなね、荷物と荷物の間に挟まれてぎゅーぎゅーでね。身動きが取れないの。だから、駅に止まっても出入り口にたどりつくことさえできないから、窓からでてトイレに行って、窓から帰ってくる有様でね。わたしはもちろんトイレなんか一度も行けやしなかった」

どんな思いで、彼女は命からがら日本に帰ってきたのだろう。そして、結城市にたどり着き結婚をし、戦中戦後に嫁ぎ先である岩井家がお世話になっていた、お寺の面倒を見ることなる。

「わたしね、二十歳になってなにもわからずに結婚して岩井家に来たの。もう本当になにもしらなくてね。そしたらある日、今の住職のおばあちゃんがね、私のとこにやってきて土下座して頼むのよ。『興法寺をよろしくおねがいします』ってね」

成長して二十歳で結婚した彼女。岩井さんは、その時のことを思い出すように少し遠い目をした。

まるで、眩しいものを、仏様を見ているような表情だった。

「おばあちゃんはね、それはそれは素晴らしい人でね。厳しいところもあったけど、おばあちゃんを悪くいう人は周りにひとりもいなかった。そのおばあちゃんが、岩井家に来て、まだなんにも分からない私に土下座してよろしくって頼んだのよ。もう体が震えるくらいだった。一生お守りしようって思ったわ」

それから50年以上、彼女、岩井さんは興法寺を守り続けてきた。もちろん、私の奥さんも、義理の妹も弟も生まれたときからずっと面倒をみてもらったのだ。

小学4年まで使用人に守られて中国で暮らし、戦後は海を渡り日本に帰り、結婚してからは岩井家と興法寺を守り続けた彼女の人生は、どんなものだったのだろう。

「住職はね、あんな時代で大切な一粒種の男の子だったから『怪我ひとつさせないように育てたから、わがままかも知れないけど許しておくれ』って、おばあちゃんが私に言うのよ。だからね、わたしはたいていのことは許せているの」

そうやって、我が息子を見るように住職に目を細める岩井さん。

「あら、今日は洋子さん(お母さん)にも話してないことを沢山はなしちゃったわね」

宴が終わり、荷物が多い岩井さんを私が車でお送りすることになった。岩井さんを車に乗せ、小山市民病院の先まで送り届ける。荷物を降ろして手に持たせて、「どうぞ家へ」と手で促すも、ニコニコして一歩も動かない。

しかたなく私が車に乗って、100mほど直進し道を右折して見えなくなるまで、いつまでも、いつまでも、岩井さんは私の車を見送ってくれた。

私は、道を曲がってから、車の中でぺこりと頭を下げた。

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