雑記10+

表現の種類とその可能性について考えてみると、自分は常に自創作の定義を ”記憶に映ったそのそ景色や人物(ヒト)、音は確かにそこで実在する・もしくはした歴史であり、創作者はそれを独自の手法で表現することにより現世にある何らかの形で歴史を紡いでいる” というように考えていて、その上で絵を描いているのだけど 目を開いたまま自覚できるほどの確信を持って言える「アイディアの根源」がそこにあったときは、表現の種類の違いとしてそれを捉えるのが良いのかもしれない…と、感じるようになった。アイディアの根源というのは明らかに自分の脳が作り出しているという事実を認識するか否かという単純な話で、わたしはそれを前者のスタンスにおいては、厳密に言えば部分的にしているものの、多くはしていないためにそう捉えることをしない。なら捉える時はどんな時なのか、となると見えてくるのは「目の前に存在する物体から着想を得て何かを創ったとき」が代表的だと思っている。例えば、歴史を重ねた大樹に圧巻され、その空気と年数を時間に例えながら表現するとして。そこには明らかな認識が生まれる。それは間違いなく自身の脳が作り出したアイディアの形であり、同じ”現世にある形で表現された特有のもの”であることには変わりないながら、全く別の経路を通って完成したものだと自分の中では言えるようになる。他には具体例を出すのが難しいけれど、他人の表現した世界観を「オマージュ」という形で主観・客観ともに理解されながら表現するならばそれもまた種類のひとつであると言えるような。


雑記シリーズがこれで10本目になりました。note自体なんとなく始めたものだったので何がどんな風に続くか自分でも全く予想できずにいましたが、主題をカッチリ決めてそれに沿った意見を書き連ねるより、思ったことに対して行きたいところまで掘り下げて満足いったら戻る、というのを繰り返す方が自分には合っているなと感じます。得意不得意を見直すいいきっかけにもなりました。まだまだ書きたいことが沢山あるので、気が向いたら投稿していければと思っています。主題をしっかりと決めた上でそのうち書きたい記事は、『実存主義に付随する人物や歴史背景とそれについて感じたことの意見』もしくは、『構造主義や啓蒙主義を齧ったことで思う自分の創作スタンスに対する見方について』といったようなものになりそうです。今回の記事でも自分なりの創作定義を展開していますが、これの説明は前々から不安定で、取り込んでいく知識の中で納得のいくものがパズルのように組み合わさり、そこからガワだけがどんどん固められていくような状態でした。基盤が頼りないのです。根拠に欠けるという表現よりかは、その思想の元となった思想・主義にすら決定的な根拠がそもそも無く、言ってしまえば拡散された哲学の甘い部分だけを都合よく舐めとっているような思想の元に建っている基盤なので、もう少しまともに向き合わなければそのうち崩壊してしまうのではないか?と危惧するようになったのがきっかけです。しかし、同時に別の恐れがあるため中々考えをまとめられずにいました。自分で定めた定義とはいえ、それが万一失われてしまうと 関連している部分にある他の熱すら奪ってしまう可能性が非常に高いです。しかしこのつかの間の休息に留まっているだけでは、どちらにせよいずれ崩れてしまう。経過や他人の手によって思考にメスを入れられ無理やりに残酷な世界を直視させられるか、自分の手で愛したそれを破壊しもう一度基盤を作り上げるかのどちらかしか、残っていないのです。ならば自分は後者を選びました。大袈裟なと思われるかもしれませんが、そんなことは決してないのです。物心ついたときから創作の世界に生きていて、思想や主義といったものに触れるようになってから自分にも微かなそれが芽生え始め、その複雑さと困難な思考回路から、いくらかの挫折と大きな絶望で薬を飲んでいた時期もあった。しかし、今それがようやく触れられるくらい確かな形になって自分の目の前に現れてくれようとしている。そんなときにもう一度大きな絶望を味わってしまったら、とても立ち直れる気がしないです。なので向き合いたい。そうすることで、例え基盤が生まれ変わったとしても、培われてきた精神を守ることができる。より安定した新しい考えの元で永遠に。基盤が変化すればその上にある思考も変化するのでは?というのはそれを前提に考えていれば当たり前にそうなるだけであって、譲れない意志があれば変える必要のある部分だけを培われてきた部分の思考に合わせて整えれば済む。個人的に、基盤というのは他人の考えを及ばせることが必要不可欠な場所で。0からオリジナルで特定の思想を生み出すことはほぼ不可能だと思っている。必ず何かしらの思想・主義・文化・歴史等にインスパイアされ、それを元に自己性や宗教性などといった個人の要素が投影されていくことで自分の思想が出来上がると感じているため、尚更この基盤の重要性や複雑さには悩まされています。自分を理解するより難しいことはなくとも、他人の精神を考察することでも人は難航する。
あの子たちの感情や大好きな子の精神を込めて抱いた領域には完全な実在も証明も必要ないので、自分はただ堅く信じていたい。がんばります

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?