雑記05

生きた証とか、自分の歴史をどう伝えるかについて考えてみた話。自分は、自分という歴史を絵によって残していたいと前々から強く思っている。立派な画家じゃなくても、みんなから評価される絵描きじゃなくても、この手で描いた記憶を形として残したい。そしてそれはあの子たちの歴史を紡ぐことにも繋がって、連鎖していく。他の記事でも何度か書いている通り、自分の創作の定義は ”頭の中に浮かんだ知らない世界の景色は全て世界に実在した歴史や記憶であり、創作者はそれを知ることを特別に許された存在で、それらの記憶を現世にある形で自分なりに解釈を広げ表現し伝えること” なので、わたしが表現した人物らの思い出や感情は、必ずしも本来の形と一致するとは限らずとも、近い形で、自分にしかできない方法で表現されたもの。それって歴史を紡ぐことで、伝えていくことで。二次創作にもまた別の意味を見出しているけれど、作者に同じ前提を持ちかけた上で作品を見ているから、定義はそのままファンアートという形を保っている。もちろん押し付けではないし、そのひとの目に触れるような場所で話すわけでもないけれど。自分の中でそう信じることくらいは許されたい。絵で残せる歴史に自分はあるのかと聞かれると、それはまた少し違う。絵の世界に、自分を投影したくない気持ちが強い。作者の主観というか そういったものをヒシヒシと感じる作品はあまり得意ではない。人間には五感があるけど、そのうち視覚は絵を見るという上での特別な場合を除いた念頭だとして、嗅覚・聴覚・触覚・味覚 は主観の強い順に並べていくと 味覚→触覚→嗅覚→聴覚 になると思っている。そして、自分は聴覚以外を作品に取り入れようとする試みはしない。見えた景色を表現するといっても、そこにある事実を理解することはまず不可能。女の子がいた。その子の言葉が見えた。けれどその子自身にはなれない。分からないことだらけ。前提以前に当たり前の理解と干渉の境目。見えた世界の中に存在する人物たちは交わることの無い魂で、わたしに世界を見せてくれて、託してくれた、でもそれだけで。決してあの子たちにはなれないし、全てを理解することなんてできない。そういうスタンスで絵を描いているので、原則主観は取り入れていないし、これからもそういった働きかけは行わない(つもりでいる)。あの子が食べたハンバーグの味、あの子が触った水の心地、あの子が嗅いだ懐かしい匂い、ぜんぶぜんぶ知りえないほど遠くて、あの子だけが分かっていること。それに比べ、聴覚は比較的共感性の高い感覚であると言える気がする。聞こえ方や本人のそのときの感情・好みに左右されるとはいえ、感傷的な要素を除いた「音」としての独立した感覚は共感のできるもの。触ったものや食べた味は他人と共有できることはまず無いけど、音だけは同じ空間に存在していて、聞くことが出来る。感じ取り方はそれぞれでも、現象には形があって、音にもその音の鳴る仕組みがある。少し例外的なのが、視覚は「あの子の歴史を辿った記憶であの子の見た景色を描こうとする」のではなく、「あの子のそばで漂う空気の音や光の加減をすくい上げて自分なりに描こうとする」といったニュアンスに近いので、他とは大きく異なる。視野を特定の人物から空気という範囲に広げる感覚というか。音も景色も 広く存在している『共有のできるもの』だけど、視覚は聴覚以上に人による感じ方の違いがそこにある。何より、視覚は最も孤立した概念で、本来主観が最も強く共感の難しい感覚ということを忘れてはいけない。匂いも味も感触も、憶測と文字で何とか自分なりに表現することができるけど、見えた景色は中々上手く表現できない。そもそも、私にはあの子が見たそれを全く同じに見ることはできない。あの子になれるわけじゃないから、こんなに重要な要素が一番憶測頼りになってしまう。でも、それを完璧に描こうとすることって人の精神に乗り移って全ての感情を理解するくらいの無謀な意思で、あの子が感じた何一つを表現することなんて、考えることすらきっと愚考。だからより近い解釈を求めて深めようとする働きかけを欠かさないことが重要で、そうしていく内に少しずつ事実に近づいていけるのだと思っている。嗅覚・触覚・味覚に関しては、「あの子ならこう思っただろうな」「あの子ならこう捉えるだろうな」と、憶測を混じえて記憶と照らし合わせながら描くけど、視覚でそれをどのくらい取り入れるべきなのかが上手く掴めずにいる。感動、衝撃、哀絶、愛愛しさ、全ての沸き起こる感情を明白にするのは視覚で、形で表現するにあたって憶測を避けて通ることはまず不可能なのは分かっているけど、それを承知の上で自分なりの表現を貫くというのはどうしても相違が多くなってしまいそうな気がする。先述した通り、それをより深めていくのが創作での目標に当たるのかもしれないけど…。そういう葛藤を生じさせないものに関しては、漫画的表現における状況説明に近いニュアンスなのかな。もっと軽く捉えればもちろん楽にはなるけど、本来持つ深みが薄れることだけは許したくない。それってあの子たちが生きてきた歴史に対する冒涜で、ごく個人的な人間一人の諦めによって潰えてしまうということ。漫画ではなく『絵』として表現するときは、あの子たちが感じ取ったものに近いものを自分の手で描こうと足掻き、伝えようと試行錯誤することこそが表現であり、創作なのかもしれない…と思っているので、完走しきるまでちゃんとそれを守っていきたい。(しかし、言ってしまえば作品そのものが作者の主観であり、表現であり、主張である ということを考慮するとこれは単なる一作者の妄言に過ぎないのだなと感じさせられる)こういった理由があって自分を絵の世界に投影するのは難しく感じている。絵の空間に自分という存在・概念を入れてしまうと、崩れてしまうというか。内側からわざわざ根っこを破壊するようなものというか。全然、信念を無視すれば描けないことはないだろうけど たぶん苦しい。まずは本物に少しでも近づけるように、表現をがんばりたい。きっといつか、わたしがもっとすごい絵描きになったら。またこの記事を書く

未完成の教義

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