雑記09

雑記05のつづき
というより、後に思ったことや気づきなどを箇条書きしてみただけ。


2024年2月26日
完璧をめざしている訳じゃない。明らかな相違を生まないための努力をしている。わたしの表現する全ては決して本物ではなく、歴史として読みやすくされた「作品」だ。意識のところにある思考体系で全く同じ形をしているとは限らず、絵として形になり現世にもう一度”生まれる”あの子たちは元の姿寄りのそれに似た何かで、その精神すら歴史や記憶を映し出したデータ。見えた景色の中から特定の情報をもとに推理・推察し、結論や行動をそれこそ説明的に決定する。自分にとっての漫画作品はそういうものだと感じている。わたしは見えた全てを信じているから、あの子たちの培ってきたもの全てを信じて、きっと描いているけど。でもそれは本物なんかにはなれない伝えるための手段で、多くの考察を孕むことが容認される。考察の場においては自分が立場上作者であったとしても常に客観的な視点からあの子たちの世界のことを考えていたいし、断定したくない。いつか本物を知れたとしても、それが本物だと分かるための判断材料すら私には与えられていなくて、それくらい漠然だからこそ、きっと表現することを許されてる。「作品」である以上、そこに完璧を求めない。


2024年2月26日
より本物に近い表現をしたいといっても、それは写実性やリアリティの話ではなく、現世においては自分と そして向こう側ではあの子たちにだけ見えている名前のない景色や、あの子にしか分からないとても知り得ないそんな激情をありふれた感覚や端的な取捨選択で創りたくないという反抗心で、でもそんなのはただの理想論に過ぎず、それで生きていく道を選ぶのなら多少の妥協や世間向きの表現が必要になることを理解しているからこそ、いざそういった場面に立ち会った時自分がどういった選択をするのか恐ろしくて中々考えられない。私が生きるためにあの子たちの歴史を壊すようなことをしたくない。でもそれって道理に叶っていて、社会性を持つ生き物としての当然で 嫌だな 誰もあの歴史を守ってあげられないのに


2024年2月26日
表現に投影される視覚と聴覚の話について、視覚の主観性と聴覚の共感性はそれぞれの器官の複雑さの違いを単純化して捉える必要があったことに気づいた。意見を変えるつもりではなく、あくまでも追記。まず視覚と聴覚というのは個人の思想や特別な場合を取り払った上で簡単に言えば「色」を感じ取る器官と「音」を感じ取る器官で、その感じ方に大きな差があるのはもちろん複雑さの違いに気づく必要があった。「音」は鼓膜の振動周波数(空気や物体の振動)でその高さを理解し、そこに聴覚神経の反応の大きさが対応している。対して「色」はそれを識別する視細胞(赤青緑の三種)が反応する光の波長域が重なり合っているため網膜と視神経により非常に複雑な信号処理が行われているため認識に大きな個人差が生じる。これらの要素を踏まえると、尚のこと本人にみえた景色を擬似的に表現することの難しさが分かる。それをよく理解した上であえて漫画的な表現を使ったり、元の景色を損なわない程度に誇張した表現を使うのは作者の技量と言える。


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