雑記18

パースの勉強をしては放棄ししては放棄しを繰り返していた日々に嫌気がさして昨日の夜から今の今まで寝ずに根性で一点透視から3点透視まで感覚つかめるまで描きまくっていたけど、ようやく片鱗が見えてきてワクワクしている。絶対に使えるようになりたい。今度こそ。わたしが絵を勉強する時の感覚は、上達というより理想と現実との齟齬を縮め埋めるための重点的な点検というイメージがある。
実は昨日少し前に買ったしまざきジョセさんの『描きたい絵が描けるようになる本』を一晩中通して読んでいました。わたしは怠惰的な人間なので絵の本を買っても途中まで読んで半端な満足感でダラダラと絵を描いていたのですが、もちろんそんな堕落っぷりで上達するはずもなく。美大受験を控えているのにこんな調子でいいのか?わたしが描きたい絵ってそんなに軽率なものなのか?とひたすら自問することになりました。でもどの本から読み進めれば今の自分を偏りなく底上げしてくれるのか分からない、そのときにこの本が目に写ります。専門書という括りに入るような絵の本もたくさん持っているので、得られる知識量も情報も半端では無いそれらを選択することも可能でした。しかしそれでは結局頭がパンクして何も得られないだろうと思うと、総合書のようなああいったお絵描き本はとてもありがたい存在でした。
そして今に至ります。今はチョコブラウニーと林檎の紅茶を飲みながらすこしばかりの休息をとっていますが、このあとまた練習を始めます。理論を理解してしまえれば、あとは感覚を掴むまで練習すれば確実に"ものに出来そう"な手応えが心をワクワクさせている。今はその『ひたすら練習』のターンに入っています。対して理解できてもいないのにパースを扱おうとしていたことが情けない。わたしは出来ないことから逃亡しようとする癖があるので、今そういった問題点に自ら体当たりしにいっているような気持ちです。苦しいし、とても大きな壁が何枚も何十枚も乱立しているような景色に思えるけど、でも、物凄く昂る。出来ないことが出来るようになるってこんなに気持ちいいんだって実感で震えています。他人からみれば「どこがどう成長したの?」くらいのお話でも、本人からすれば何度も遭難しかけて諦めた山の頂上に登りきったような気分なんです。
あと、大事だなって思ったこと。前にももしかしたら書いているかもしれないけど、意図的に生み出す歪な線と、偶然に生み出される歪な線は全くの別物だなという実感を、以前よりも深くさせられました。例えば同じ「全体的に歪んだ線を描くことで不安定さや揺らぐこころを表現したい」という絵描きが二人いたとして、一方は平均的な絵に関する知識と線に対する独自の研究や理念があり、もう一方はフィーリングで絵を描いてきたようないい加減さ。そうして各々から生み出される『歪な線』に大きな違いがひとつあるとすれば、それは生み出すまでの過程と完成形の均衡に関する話なんです。積み重ねた知識と技術力から生まれる『歪さ』は、安定して生み出されその人の絵柄やイメージに繋がるひとつの要素となる。しかし中途半端な勢いだけで偶然に生まれるような『歪さ』は、安定して供給されることもなければ魅力も少ない。「その瞬間に生まれる感覚を大切にして歪んだ線を描きたい」というような考えは、基盤あってこそ実現され他者にも影響を与えるものです。培った知識があれば、その人が意識していないところでも『あえて歪ませる』ための思考が絵に投影され、知識も経験も薄ければ、それはあえて歪ませているのではなく技術力の無さをそれっぽい理由で埋めようとしているだけになる。理由づけるほど絵が好きなら、まず自分の一番表現したいものを学ぼうとするはずなんです。それすら見えていないのにあーだこーだ言って保守することだけに必死になるのは、正に以前の自分自身です。尖った意見を寄せ集めて、自分の"上手くいかなさ"を無理やり埋め立てていた。でも結局、そんなのすぐ崩れるんです。いずれ同じ壁にぶつかるから。さっきの話で言えば、安定して生み出される不安定さは大きなその人の魅力になります。けど、不安定な技術で生み出される不安定さは一時的に輝いたとしても直ぐに消えます。もしかしたら、「初心者にしか描けないような不安定で拙い絵がすきだ」という人がいるかもしれない。でもそれって、意図して生み出しているとは捉えられていないどころか『下手くそだけど俺は好きだよ』って言われているのと同じです。そんな言葉は、本当にその絵がすきで褒めているんじゃなくて、見下しているのに嬉しそうに自己流を貫いていつまでたっても成長しないのを見て優越感に浸っているだけ。そうした相手は成長の妨げにしかならない上に、後から気づいたとき胸糞が悪い。自論を並べて壁を作っている全ての絵描きに思うことは、言葉で話す理由以上に技術でそれを説明できなきゃ絵としての意義がない、とか。そんな偉そうなこと言えるほどわたしは成熟していないし、上を見れば塔のように自分よりもずっと絵が上手いひとたちが遠く沢山居ます。それでもこの気づきをごく個人的な意見として留めておこうとは思いません。「なんかぐにゃぐにゃしてるし色もあんまり綺麗じゃないのにどうしてこの人の絵は評価されるんだ」と思っているうちは一生上手くならないだろうし、「そうか、こんな絵でも評価されるんだ!自分はこういった絵を描く人なんだ!技術が足りないんじゃない!」という思考に陥れば尽く成長の機会を逃していきます。そのタイミングで「自分もこういった絵を描いて評価されるようになりたい!この人の絵を研究しよう」と、考えつけばそれが最善なんじゃないかと思いますが、中々現実的な話ではない。お絵描き初心者やそもそも絵を描かない人間の多くが憧れる絵描きの像というのは、いつも耽美で精巧な線を扱う達人のような人間ばかりです。視野の狭さ故に、歪な線や奇抜な色彩を扱う人達には「自分にも描けそう」なんて感想を抱き、尖った利己的な意見に雑に感化されたら最後、似ても似つかない真似事を始めてしまう。感化されることは何も悪くないし、現代人は「何者かになりたい」という願望が強いという話を聞く度に、人には言えないようなアブノーマルで大胆な人達に憧れるという欲求もまた強くなっているのだろうと感じます。絵描きも例外ではないと、ただそれだけのことなんです。憧れただけで慢心するのでは、その人の技術の3分の1にも満たないような理解度で中途半端な絵を描き続けることになる。魅力的な作品を創るひとは、誰だって何かしらの魅力に感化されていて、その都度それを1%でも自分のものにしようと足掻き、より強い個性で光らせるために努力している。これだけはどの時代や価値観においても不変の事実です。そうして培われた知識の断片的な吐露を拾って真似しているだけなら、それは本当に感化されたとは言えない。言葉の意味を理解しようともせず、ただ自分が生き残り馴染むためだけに人の言葉を真似するのなら、お喋りなオウムと同じ。本当に好きなら、憧れたなら、自分のものにしようと少しでも調べるなりなんなり出来ます。日常的にsnsが見れる環境にいるならスマホかPCは必ず持っているんです。制限があるとしても模写はできるし、最近の本屋さんでは1冊や2冊は絵のノウハウ本を置いている。図書館に行けば更に置いてある。これだけ多くの手段に囲まれて、何か行動を起こすも、『何もしない』を選択するも全て自分自身の責任になって帰ってきます。これは誰かに向けた発信というより、自分自身への戒めに近いので、多少攻撃的でも許容してもらいたいです。
でも、例えば最初の『真似』の形が少し違ったとして。"思考を研究すること"を目的に発言を真似するのは、かなりいい刺激になると思っている。わたしは本当に心から憧れている人が一人だけいて、目視のできる世界で一番大好きで、夢にも出てきます。『作者を知って絵を知る』が自分のポリシーなので、憧れの人がどんな考えや状況でその絵を描いたのか、ツイッターでもなんでもいいから、事実に基づいて考察することは大切だと信じている。といってもこれは特殊な例で言い換えればストーカー気質な人にだけ向いているものだと思うので、追いかけるだけならいいですが1歩間違えたら犯罪だということを念頭に置いておかなければいけません。多分、そんなことを意識してまでこれを実行するひとは少ないと思うので、あまり気にしないでください。
記事を書いていたらいつの間にかこんな時間になっていました。そういえば、今日は(というより昨日の夜から)一日中何も食べていない!親子丼が食べたいです。

練習に戻ります🛐


余談
実は『雑記18』が下書きには五つくらいあって、もちろん全て違う内容だし雑記の定義に愚直なまでに完全な勢いで書き進めたものなのだけど、ぜんぶ途中で放っぽして結局投稿せずにいる。だから結構な確率で、元々『雑記15』だったものがもっと先のナンバーで出たりしています。結局元の日付より後に追記してから投稿するから、合っているっちゃ合っているんですが…あまり時間が経つと、書き始めるきっかけになった物事が思い出せなくて「どうしてこんな語ろうとしてるんだろう?」ってなります。時系列が揃っていない〜

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