雑記17

黒いお洋服を好んで着ていると、度々形式美を重視する人間と内容美を重んじる人間との埋まらない差に悩むヒトを見つけることがある。自分自身、小さなこだわりをかき集めて形にしたような脆い彫刻に喘いでいるけど、正直に言えば形式美の方が安泰に近づくことは出来るのだろうと思っている。
内容美、私の解釈で”特定のジャンルにおける個人個人の持つ統一性の保たれた思想を一定の方向に向けてまとめあげファン・コミュニティ内における信念を築き上げること”だと心に話す日々。美しさの根源を探るその働きかけ、だと。内容美を重視する人間は、もちろん形式そのものにも余念がなく人一倍過去の歴史を保守しようとする傾向が強い。彼らにとっては、カルチャーの発展に伴い常に存在し続ける形式美にしか目を向けない人間は恐らく邪魔でしかない。どんな歴史が紡がれてきたかも知らずに厳守されてきた美しさを尽く破壊しては、忌まわしき”ブーム”へとその姿を浸透させていく…しかし、それを嫌う彼らの唯一の欠点は視野の狭さだと言えるだろう。そもそも、誰も『協力者』ではない。自分やその仲間は、過去の貴い文化・歴史を現代においても丁寧に紡ぎ重んじる”良質な新世代”だと盲目に。形式美に煌めいた新参者の破壊が無ければ、古い歴史は冷たい海へ還るのみ。ちょっとした余談、わたしは分類が苦手だ。『それであること』を意識しなければいけなくなる、呪い。だから自分の着ている服がどういったジャンルに属し、それを愛す人々になんと呼ばれているのかを知っていても、その名前を使いたくない。例えばゴシック・ファッション。わたしが着ている服は、それより僅かに少女的で、血が滲むように愛らしい。わたしはこの先もそのフリルの名前を叫ばない。ジャンル分けされていることやジャンルという区分けそのものが苦手なのではなく、特定の名前は何かを知る上での指標として大切だと考えている。けれども、それを他人にどうこう言われるのは当然ながら全く違うので、少なくとも自分の中ではこの考えを守り続けていたい。そういった思考からも、内容美と形式美については度々考えさせられる。サブカルチャーという一括りの存在においても広く。
サブカルには三種類あると考えていて、元より古い時代から存在した”今では廃れた文化”を愛し続けようとする人々と、それらの形を現代の要素に組み込み新しく再生させるような働きを見せる人々、全く新しい新世代の抱えるエゴの表象を物を使って表す人々…抽象的だが、こんな分かれ方をしているような印象を持つ。しかし中々文章化し難いのが現実で、特に三つ目に関しては二つ目の進化系(新しくした要素を更に新しくするような)と思わせるような形のものも多い。同じサブカルという文化の中でこういった分類が可能なのは、やはり内容美と形式美の意識の差が生んだ迷いがあるからなのだろう。
サブカルチャーの話をしたいわけではないから話を戻すけれど、こうして書いていて思う自分が見つけたい本当の結論は、『形式美と内容美を共存させる方法』なのだと思う。わたしはそのどちらもを愛していたい。形式美に遊んで新たなラヴを生み出し続ける存在でありながら、内容美に拘った精神の偏性へと目を向ける…これは自分の中で完結させるには容易い物語でも、同じ黒いお洋服を愛する人々のコミュニティに居続ける以上、他人の感性で自分という存在がどう映されるのかも考えなければならない。両立という言葉は酷く自分勝手だ。どちらかを妥協するのではなく、どちらも妥協することで安寧を勝ち取ろうとする卑怯な思考。両方が”ちょうどよく”終わればそれで良いのだから、当然熱量には欠ける。それを分かっているからこそ、今の自分の「どちらも欲しい」という感情にあまり肯定的ではない。そして、どの人々にも歓迎されないだろう。特に内容美を意識する人々には、曖昧な線引きでどちらも得ようとしている人間に決して好意的ではないと予想できる。
ここまで話してきて、ようやく形式美派の考えに触れてみる。形式美、それは内容美をくり抜いた存在だと私は考える。表面上の煌びやかな部分だけを寄せ集め、ひたすらに愛す。純度の高いラブの感情。そういったものを大切にしている。内側のやけに長く気難しいストーリーはそこには不要、もしくは端的な説明のみで十分であり、ただただ直感的な好きを追求する。内容美を重んじる人々には嫌われがちだが、形式美を意識している人々は常に自分の感性が刺激される先を選択する傾向があるため古いモノに固着する人間にはさほど興味が無さそうにも伺える。欠点といえばやはりその文化の根元にある存在に疎いことで、ルーツや歴史を知らない故に損をする場面もあることだ。前提的に、ルーツを知ると今自分の居る世界が変わるというのはよくあることで。発端となる起源は少し探るだけでも少し得をした気分になる。形式美を重視する人々は、そういった知識への興味が薄いのだと思う。わたしは形式美・内容美ともに深い理解があるわけではないし何らかの根拠を持った上でこの話をしているわけでもないので、タイトル通りあくまでも雑記として捉えて欲しいのだけれど、やはり自分はどちらかといえば内容美に傾いていたいと思う日が多い。しかし、ついこの間もロリータファッションに適度な破壊をもたらすような服装で外出したこともあり、もしも自分がそんなことをしながらも内容美を大切にしたいと主張しているならば、傍から見たとき誰が何を重視しているかは正直分からないだろうなとも思えてしまう。自身の踏ん切りの問題といえばそうであるし、同コミュニティに存在する人間達が周囲にどういった影響を及ぼしあっているかにも寄るだろう。それが愛か破壊か、私にはまだわからない。だからもうすこし中途半端なままで、息させてほしい

黒いお洋服は単なる布の塊ではなく、概念だ。それを愛する人々は常にその黒と向き合って生き、その中でも特にゴスの精神を持つ人間は自分にとっての黒の存在意義とその歴史を重んじている。もしわたしが黒の精神を本気で愛したいと思ったなら、ファッションに精通する以前から長く続くゴシックの歴史を一から学ぼうと考えている。Amazonのカート内に眠った本が、私の手元で目を覚ますまで。あと何秒?

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