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その絵を見るためだけに - 生々流転

東京国立近代美術館70周年記念展『重要文化財の秘密』。
サブタイトルに -「問題作」が「傑作」になるまで- とついているが、秘密とか問題作とか、ちょっと大げさじゃないでしょうか?
当時の批判についての解説はおもしろいけれど、そういうのは現代でもあるのでことさら「問題作だったんですよ!」と強調しなくてもいいと思う。でも、いい展示だった。

展示作品ぜーんぶ重要文化財、と言われると確かに豪華だけれど、いくつかは普段からMOMATの2階から上に展示されている常設から下の特別展に降りてきたり、近くのアーティゾンから出稼ぎにきてたりで、おなじみの顔ぶれがたくさん。

萬鉄五郎「裸体美人」
「あーら、また見に来たの?」って言われてる気がする
高村光雲「老猿」



だったら見に来るな!と言われそうだけれど、どうしても見たい作品があった。
横山大観の「生々流転」。

上:部分図 下:全体図
プレスリリースより

ちょうど100年前の1923年に描かれた、全長40mもの作品。
MOMAT所蔵だけれど、展示スペース確保の関係で作品全部を見られるのは数年に一度しかない。
10年くらい前に見て衝撃を受け、また見たいと思っていたのだったが、願いがかなった。

じっくりゆっくり見るために、普段はそんなことしないのに朝一に入館。「生々流転」は入ってすぐにあった。とにかく横に長く、ガラスケースに平置きしてあるので列に並んでしずしずと進みながら見るしかない。
それでも時間が早かったせいか、まだそんなに混んではおらず2回ゆっくり見ることができた。端まで見てまた先頭に戻るために歩くと、改めてこの40mの長さを実感。
他の展示を全て見て、最後にもう一度「生々流転」見ようかなと戻ったら、ずっと先まですごい行列ができていて3度目は諦めた。

作品は水墨絵巻。
山あいの湿った大気。そこから生まれた一雫の水滴が集まり、流れ落ち、瀬、淵、川となって海へ。嵐に波立つ大海から龍が出現し天に還っていくという大スペクタクル。
龍は水神。水が生まれて大地を流転し再び天にもどる輪廻を描いてる。
英語題は"Metempsychosis"。
でも、輪廻というよりはやっぱり「生々流転」という題がいい。

流されるという言い方自体はなげやりな意味を帯びるようだけれど、生まれ落ちて、今生を精進して次は更に高いステージへなんてことは特に考えずに、もしかしたらまた次があるかもしれないし、これでおしまいかもしれない、それは誰にもわからないけれど、色々ありながらも流れに身を任せて生を全うする、そんな当たり前の尊さを感じる。

靄や霧、驟雨など、全体が湿り気を帯びていて、山の岩肌や松などの木々もしっとりしている。龍神の祠や苫屋、鹿や猿、鵜などの生き物もちょこちょこ描かれていて楽しい。

木こりとか筏漕ぎ、漁夫なんかもいるのだが、人物の描写が「え?」って感じで雑だったりもする。
なんたって天下の横山大観先生なので雑に描いたわけではないんだろうけれど、風景の壮大さ、描写の技巧のすごさと比べるとゆるい感じ。だいたい水墨画の中では雄大な自然に比して、人物は儚くちっぽけな存在だしね。

途中、松林や波が延々と続いているところもあるのだが、そこがまたいい。
最後のクライマックス、龍になり水を含んだ大気が渦となり、空に消え、そして余韻…。
はぁ〜、ため息。

『しずくのぼうけん』という絵本を思い出した。バケツから飛び出した一滴のしずくが旅をして空に帰り、また雨となり…という、やはり水の循環を描いたお話。

マリア・テルリコフスカ 作
ボフダン・ブテンコ 絵
うちだりさこ 訳 福音館書店 1969



「生々流転」と絵本を重ね合わせるのもおかしいけれど、水に循環や輪廻を見るのは時代を超えて世界共通なのかな。
ところでこの作品、展示初日に関東大震災が起きたそう。当時の関係者の方たち、よくぞ無傷で保護して下さったと感謝。

「生々流転」を見るためだけに行ったかのようなタイトルをつけたけれど、他にも見られて嬉しかったのは関根正二の「信仰の悲しみ」、それから鈴木長吉の「十二の鷹」。

かっこいいー


福田平八郎の「漣」。

プレスリリースより

2階から4階のMOMATコレクションは春仕様。
4/9まで春まつり。

船田玉樹 「花の夕」
鈴木主子 「和春」の下草の部分
上には満開の梨の花が描かれている。


鏑木清隆にも褒められたそう。


安田靫彦 「木花佐久夜毘売」
桜餅みたいなコノハナサクヤヒメ。


杉浦非水の百花譜より



美術館の外も、花冷えだけど春仕様。


後期には菱田春草の黒猫ちゃんが登場する。
どこぞのお屋敷の飼い猫かと思っていたが、モデルになっていたのは近所の焼き芋屋さんから借りてきた子!


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