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あなたを待ってる

まだ書きたいことが2つあるので、「幸せなんていらない」で書いたことを前提に進める。

前回までのあらすじ

もしかして…世の中に絶対の「すべき」なんてない!?
幸せに生きる権利って自分にもある!?

青い鳥

今まで家で「◯◯すべき」「◯◯じゃない人間は生きている資格がない(原文ママ)」とばかり言われていたので、私は世界で一番ダメで惨めな人間というのが自分の中での通説だった。
顔も可愛くないしそもそも性格にかわいげがない、SAPIXでαクラスを維持できないから頭も悪い、考えたことは全部アラがあるし、笑いものになるべき惨めな子。

自分自身がそう思っているというより、「大人が」「他の人が」言うから、他人から見た自分てそうなんだな、と思っていた。
大人って、子どもが考えたことの拙さがわかるから、「かわいいね」の意味で「バカだなw」「こんなこともわかんないなんてしょうもなw」とか簡単に言う。

曇りある眼

でもどうやらべき論て世の中にないらしい、もっとハッピー目指していいらしい、と思ったとき、自分の幸せがなんなのかわからなかった
すべてにおいて「どうすべき?」を考えていたため、自分の感情や好みなんて何も知らなかった。

たとえば大学生になったばかりの頃は味覚がなくて、飲み会とかで「おいしい?」とか聞かれてもよくわかってなかった。(当然「おいしい」と言うべきなのでそう言うけど)
私は利き水などが得意なので味自体はわかっていると思うが、「おいしい」がどういうことなのか、自分がどう感じているのか、言葉にできなかった。
同様に「この人は歌が上手い」とか、「暑い、寒い」とかもよくわかっていなかったので、人との会話で結構困ったのを覚えている。
(最近は暑い寒いが理解できるようになったので、適した服装ができてすごしやすい。)

幸せを目指すようになって「なんかこれやってるときって気分悪くないかも」「なんかこれやると不眠症が改善してるかも」くらいのことがわかるようになった。
しかし依然としてやるべきことをやってないんじゃないかという罪悪感や悲しさなどがあり、正常な感覚で快・不快を捉えることは難しかった。

聖人上司

そんなことを考えながらハイパージジイの下で仕事をしていたのだが、ひょんなことから別の上司の下で働くことになった。

私が当時所属していた会社はグループ会社がいくつもあり、その中でもピカピカ、世の中でもベリーグッドと言われているグループのご出身で、とんでもなく仕事ができるらしい、とは事前に聞いていた。

彼は私が実現したい侠気・優しさ・賢さ・誠実さをすべて持っていた。
常にメールが「いつもありがとうございます!」で始まるし、わからないことは何時間でも粘って調べ続ける。役員から理不尽な要求をされても、動じずに交渉し続ける。
あくまで人間らしく、泥くさく、すべてと格闘していた。

こんな素晴らしい社会人があり得るんだ…と素直に驚いた。嘘と諦め以外で社会を渡ることなんて無理だと思っていたから、この上司の存在は人生の救いになった。

そんな仕事上の最推しが、なんと!
めちゃくちゃ私のことを褒めてくれて、このドキュメントのここがいいとか、英語できてすごいねとか、こういう切り返しよかったねとか、
まーーーもう、とにかく、影に日向に、認めてくれる。

世界で一番ダメで惨めな人間じゃないといくら言われても、心の中では、「その可能性も捨てきれないよね?」と思っていた。
でも自分が一番尊敬する人がこんなに褒めてくれるんだから、割とイケてるのかもしれない、と思い始めた。

そう思うと「幸せになる」罪悪感もだんだん薄れ、「正常な感覚を持っている状態」と「それ以外の状態」の見分けがつくようになってきた。

黄金の魂

そんな調子で自分の人生を進めていて、ふと衝撃的なことに気づいた。
いままで「◯◯じゃないやつは生きている資格がない」と言われてきたので、「生きている資格がない」人間がどこかに存在していると思ってきたけど、もしかして、そんな人間て1人もいないんじゃないか…? どんな極悪人であったとしても。

どんな人にも人生を謳歌する権利があるし、その対等な関係性のなかで、傷ついたり傷つけあったり、笑いあったり仲良くなったりして誰かと関係を作っていく、それがミルフィーユみたいに重なりあって自分という人間に収束する、人生ってそういうことなんじゃないか。

今まで枝葉を切り落として剪定していくことが人生だと思っていたので、それをあえて切り取ったり切り取らなかったりする自由が人生のことなんだ、と思った衝撃は大きかった。

あなたは来ない

自分がどんなことでもやる自由・素質があると思うと、だんだん、人生で救いを待ってる時間が無駄だな、と思うようになった。

今までは「人事を尽くして天命を待つ」と思っていた。
すべてのべき論を完全にこなせるようなれば、すべてから認められた完璧な誰かが「君いいじゃん!」と言ってこの寄る辺なさから救ってくれるはずだから。
シンデレラみたいに、誰かがいつか私を見つけてくれると思っていた。


でも私になんでもする自由があるのなら、気に入らない出来事を今ここですべて破壊して、「私はこうするんじゃ!」と叫んだ方が、来るかどうかもわからない人を待つよりはるかにマシじゃないか?
人に嫌われたくないよー> <と嘆きながら不如意を憂いて暮らすよりも、誰に嫌われてもいいから納得できる人生を作る方が健康。

今では私がバーサーカー

すべての困りごとを自分がロードローラーとしてあらゆる手段で轢いていこうと思うようになったので、ほかの人に怒ることがほとんどなくなった。

今までずっと
「こういうことしてほしいのに、なんでわかってくれないの!」
「こうすべきなのに、なんでしないの!」
という甘い期待込みで怒っていた。
自分が思うように勝手に世界がアジャストしてくれるのが理想だと思っていた。

でももう、
「わかってくれないなら、(できる範囲で)わからせる」
「しないなら、(できる範囲で)やらせる」
と完全にキマッてしまった。

もちろんこう思えるようになったのは、夫や友人がずっと側にいてくれる心理的な安全がある。
誰に嫌われても何があっても、夫がいれば基本的に私はそれだけで十分なのである。
もともと色んな欲がそんなになく、シャボン玉を吹いてるのが一番楽しいくらいの人間なので、隣にいる人のことが大好き以上に望むことはない。


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