蝙蝠光線

第一回
 会場の中を無重力状態の中に置かれた木の葉のように飛び回っていた無数のこうもりは来栖みつのりが合図をするといっせいに舞台のほうに舞い戻り、舞台の上にしつらえた金属製の前衛芸術めいた樹木の上に飼育されている蜂が養蜂家の被る防護マスクに群がるようにその金属のすべての表面を覆い尽くした。こうもりが会場をわがもの顔に飛び回っているあいだその会場にいた観客はあまりのおぞましさに声も出なかった。こうもりの巨大な顔が頭の上すれすれに近づいてくる。それは定規による大きさではなく絵画の理屈の遠近法の作用でそう拡大されて見えるのである。犬や猿を飼い慣らす芸人はいる。それはそれらのほ乳類が高等な頭脳を持っていて人間ほどでもなくてもその意志の疎通がはかれるからである。目に見えているのか音に聞こえているのかわからないがその情報の意味を自分を取り巻く環境に関連づけることができるからである。
 「さて、十七枚のカードを配り終えましたかな」
普段は誰も絶対に着ないような銀ラメのピカピカするペンギンのような背広が光りを反射してアルミ箔を空中にまき散らしたように光の乱舞になった。そのアルミ箔も薄く青色をつけられているものや、黄色、赤色といろいろとあって虹が細切れにされて空中を舞っているようだった。その光をわれ関せずというように固まっている無数のこうもりは魔術師のしもべのようにじっとして動かない。魔術師の顔はテレビの撮影用のライトに照らされててらてらと輝いた。額の髪の生え際のあたりに浮き出ている汗は視聴者の家に置かれたテレビの受像器の画面には映っていないかも知れない。しかし彼を映しているテレビカメラを操作しているカメラマンには確かに見えていた。
 この熱気はテレビの撮影用の照明用のライトのためばかりではないだろう。
 この魔術師のおこなう奇跡に対する観客の期待が熱気となって生じているのか。魔術師はその観客の期待を確かに感じ取っていたし、観客たちをすべて掌握していると云う舞台に上がると云う業をなりわいにしている人間の特有の喜びや満足感が魔術師の唇を変なふうにゆがめさせていた。油でかためられた魔術師の黒髪はてらてらと輝いている。
 観客の視線は魔術師の一挙手一投足に注がれていた。
 魔術師は自分のことを手品師と呼ばすに魔術師と呼んでいた。その根拠がどんなところにあるのかわからないが、そのいかがわしい容貌にも関わっているのかも知れない。
 まず外見は日本人には見えない。東欧あたりの人間の血をひいているように見える。事実彼は自分はある東欧の地の出身だと言っていた。それも大部分が東欧の血が入っているのではないだろうか。夜と昼の境界があやふやで死霊が飛び回る因習と悪鬼の伝説がまことしやかに語られる土壌に生まれ出た怪人のように見えた。
 古来よりアッチラの侵入によりたえず略奪と殺人の荒波にもまれた土地柄は呪われた血なまぐさい伝説にはことかかなかった。
 そのくせ彼は日本語を自由に扱うことができたのである。
 髪を油でべったりと後ろになでつけ、鷲鼻をはさみつけるような位置にある両目はその球体が幾分か飛び出しているように見え、空を飛ぶ猛禽類のように見えた。
 その魔術師にも魔術をおこなうための助手がいた。彼の妻である。妻も同じ出身だったが東欧の血が流れているわりには小柄で清楚な感じがするのは意外だった。悪鬼に魔法をかけられてくぐつとなって騙され仕えている巫女という感じだった。
 魔術師の名前は来栖みつのりと云う、その助手でもある妻の名は来栖弥栄子という日本名がついている。それがどういう手づるかよくわからないのだが日本のテレビに出始めて魔術を見せ始めた。今日はテレビの公開録画と云うことで新宿の****ホールに三百名の無料の観客を入れてステージの上で魔術師こと来栖みつのりが魔術を見せると云う段取りになっている。
 その魔術は最近はやりの大がかりのものではなかったが、たねが絶対に割れないということで充分神秘的だった。しかしプロのマジシャンは絶対に見破れると主張してその手品のうらを自分なりに予想しているものもいた。それに対して魔術師は反論することもなかった。そしてこうもりを自由に扱えるとい不思議である。
 小ぶりな手品だったが決定的に誰かがたねを明らかにすると云うことはなかった。それが意図的なのか、不可能だったのか、面倒くさかったのか、わからない。
 そしてその中のマジックのひとつを魔術師は披露しようとしていた。それがカードの十七と云うマジックだった。
 まず十七枚のなにも書かれていないカードを魔術師は用意する。そして一枚一枚に星を十六個、自分の用意した黒いマジックインキで書き込む。つまり十六個の星が書かれたカードが十七枚出来たと云うことを意味する。
そして出来たカードを十七人のテレビ局のスタッフが持って観客席に降りて行った。それから観客席の後ろのほうに行って観客に渡した。と同時にえんじ色をした布の袋を持って行き、それらの袋も同時に渡した。
「カードを手渡されたお客さまは立ち上がってくださるかな」
魔術師は舞台の上で数歩前に出て、客席のほうに向かって話しかけた。彼の声は会話をするくらいの大きさだったが、胸元にピンマイクがついているのでその声は拡声されて客席のうしろのほうにまで届いた。
 助手の来栖弥栄子は魔術師のうしろのほうで無表情に立っていた。
そして彼のしもべであるこうもり達もじっとして彫像のように動かない。
 カードと布の袋を渡された観客は自分の席をその位置で立った。彼らの両手にはカードと布の袋が握られている。そこにいる観客たちはうしろの席に立っている十七人の客のほうをちらちらと見た。これらの十七人は魔術師がこのマジックに協力してくれるかと客に問いかけたとき、何人もの観客が手をあげたうちの魔術師が指定した客だった。
「まず、袋を調べてみてくださるかな」
魔術師がそう言うと立っている客はえんじ色の袋を裏返したり引っ張ったりして吟味した。しかし、そこになんの細工もなされていないようだった。
「なんの仕掛けもないと同意してくださるかな」
壇上で魔術師が言うと立っている客は同意して手をあげたり、首を振ったりした。
「同意してくださったかな。では、今度はカードのほうを見てくださるかな」
魔術師が言うと客たちは今度はカードのほうを見た。もちろんカードがただの厚めの紙かと言う意味である。
「それにスペードが十六個描かれているかな」客たちはカードの裏表を見てそこの片面に魔術師がマジックインキで描いた十六個のスペードが描かれていることを認めた。あるものは結婚式の宣誓のようにカードを肩よりも高い位置にかかげた。
「カードになんの仕掛けもないことを確認しましたかな。それなら袋の中にそのカードを入れて袋の口を締めてください」
客たちはそのようにした。壇上から十七人の観客がその作業を終わるのを確認して魔術師はそのカードの入った袋を自分の足下に置くように要求した。
「袋の口をしっかりと締めましたかな。足下に置いてくれましたかな」
魔術師はそう言うと指をパチンと鳴らした。その瞬間、固まっていたこうもりが飛び立って会場のすべてを支配するように飛び回った。会場には悲鳴があふれた。そして会場の照明はいっせいに消えてその中は真っ暗になった。事実は真っ暗ではなかったが目が明るいところに慣れていた客たちは全くの漆黒の闇に投げ込まれたと思ったことだろう。そして闇の中でおぞましいこうもりが飛び回っている。こうもりの羽音が聞こえる。突然のこの現象に客たちは自分の席に座ったまま瞬間的に絶対零度の魔法をかけられて凍り付いたように身じろぎもしなかった。もちろんこのアクシデントもマジックのパフォーマンスの一環に過ぎないということを観客は知っている。しかしそれは頭の中でも理屈を取り扱う部分でこの事実を受け止めてでの話である。
 魔術師はまた指を鳴らした。すると照明がまたついて会場は明るくなった。それは時間としてはほんの数分のことだった。こうもりはもとのように止まり木を覆い尽くしていた。
「みなさん、少し驚かせたことをお詫びしますかな。では十七人のお客さまにまたお願いを申し上げます。みなさんは照明が消えているあいだその袋にも、袋の中に入っていたカードにもなにもしなかったと証明できますかな。しかし悲鳴をあげてわれを忘れていた人もいるようですな」
客たちは同意した。
「では袋の中をあけてそのカードを確かめてください」
魔術師がそう言うと客たちは袋の口をいじっていたが最初にカードを取り出した客がけげんな顔をしている。あとに開けた客たちもけげんな顔をしてつづいた。
「なにか、変わったことがありますかな」
壇上から魔術師が言うと後ろのほうに立っていた背の高い客が大きな声を出して答えた。「スペードが一個増えています」
「他の人もそうですかな」
他の十六人も同意した。そこで拍手がわき起こった。もちろん、その拍手は同時に自然発生的な意味もあったがテレビ局のアシスタントがそれを強要したのである。
 不動付言は客席の中でそのマジックを見ながらそのたねを自分なりに考えていた。魔術師のマジックを見に来たのはテレビ局で発行していた入場券を持っていた同僚が急な用事で見に行くことが出来ず、ゆずられて、そのうえちょうど空いてる時間があったので暇つぶしに新宿まで出てきて見物したのである。 不動付言は自分なりにスペードが一個増えたマジックのたねを考えてみた。
 一番簡単なのは無作為に選ばれたように見える十七人の観客が実はさくらだったという線である。これが一番わかりやすいし、可能性が高いような気がする。その観客がカードをすり替えたのか、自分でスペートを加えたのか、いくらでもいんちきは出来る。魔術師がマジックインキでカードにスペードを描いているときに細工がなされたという線も考えられる。マジックインキが特殊なもので時間が経ったり、状況の変化がおこらないと紙に絵が表れてこないのかも知れない。そして一瞬こうもりが会場を飛び回っているパニックがおこったこともある。こうもりに気をとられてカードの中のスペードどころではなかっただろう。ごく日常的な自然現象でかなり不思議なことはたびたび起こるものだ。そのことに興味を持って見ないことで見落としているのである。不動付言は不思議なことを考えてみた。
たとえば遠いところから放された伝書鳩が自分の巣に戻って来るというのは不思議なことだと思う。どこかの高い塔の一角から瓦屋根が波のように並ぶ民家の鳩小屋に戻ってくるのは地球の表面に直線が引かれてそれに沿って戻ってくるのだろうか。その直線のことを測地線と呼んでいる。飛行機の中に積まれたジャイロコンパスと同じものがあるのか、地球の地磁気を感じる特殊なセンサーが鳩の内部にあるのか。ともかく地図を印刷する能力も地図を分析する能力もない鳩が自分の巣箱に戻って来るのは不思議なことだと思った。流しの中に水を張ってそれを排水口から流したときいつも一定の方向に渦の回転ができる。それも不思議なことだ。
 そんな誰の目にも一見不思議と思えない不思議なことが目の前で起こっているという感じだった。もしかしたらこの魔術師が本当の魔術をやっているのではないかということだった。それが真実なら何食わぬ顔をしてそばにやって来てとなりに立っているだろう。もちろん逆もありうる。しかしそれはそれの現れ方をまねした偽物のやりかただ。
 魔術師は自分のねたは観客には絶対に理解できないだろうという自信に満ちた顔であたりをへいげいしている。そのばた臭い顔を見ていると不動付言はいまいましい気持ちもする。
そういった感情を少し和らげてくれるのはその助手をつとめている魔術師の妻の笑顔だった。西洋人にしては小柄で年のわりには愛くるしい顔をしている。魔術師は三十五、六でその妻は三十前後だろうか。
「わたしのやっているのは魔術でありますな。決して手品ではありません」
不動付言はその魔術師の発言がこのショーの神秘的な感じを盛り上げるための演出だということははっきりとわかっていた。このテレビの公開録画の終了の時間もせまっていたのでここで司会者のエンディングが入ってディレクターが顔を出してこの企画は終わるのだろうと思った。台本にもそう書いてあるのだろう。魔術師夫婦は舞台のうしろのほうに下がり、司会者が前のほうに出ている。司会者はまとめに入っている。
「少し待っていただけるかな」
客席のほうから声がした。司会者がなにも言わないうちに客のひとりが立ち上がった。開襟シャツを着た初老の紳士だった。不動付言はその客のほうを見て以前に見たことのある人物だとすぐに覚った。
「魔術だと宣言するのは少し科学的ではないのではありませんかな。少なくとも科学的ではない。だから最初からこれはマジックだとことわってくれれば少しも文句はないんですよ。全然物理的じゃないよ。袋の中の紙の中に見えない力でスペードが一個描き加えられたなんて常識のある大人だったら信じられるわけがないじゃないですか」
「えっえっ」
急に立ち上がって話し始めた紳士に対してステージの上の司会者はあきらかに狼狽を示している。紳士は片手に資料のようなものを持って膝の前あたりでぶらぶらさせている。不動付言が見たことがあるはずで立ち上がった観客は専門の物理学者で違うテレビ局の番組で自称超能力者のインチキを見破ったことがある。それは金属の鍵が液体化して解けてなくなるというものだった。今度もそれと同じことをやるのだろうか。相変わらず司会者は狼狽している。それは時間通りにこの公開録画の番組が終了するかというあせりのようだった。
 司会者はステージのはじの方にいるチーフディレクターのところに相談に行った。窓口で待たされている客のように物理学者のほうは少しいらだった表情で椅子に腰掛けてステージのほうを見ている。相変わらず司会者とチーフディレクターは小声でなにかひそひそと話している。なにか話がついたのか司会者は舞台のほうに戻った。
「とにかくなにかこの番組に要求があるなら言ってください」
「そんな描かれてもいないスペードが一個増えるなんて誰が考えてもおかしいじゃないですか。それは物理法則を否定するということですよ。念力と同じようなものですよ。離れたところに障害物を通して力を加えることが出来るならパチンコ屋でお金をする人なんていないわけだ。ガラスを通してパチンコ玉が落ちて行くときに穴の中に入れてやればいいわけだから、そうすればいくらでもパチンコ玉は出てきますよ。そうしたらパチンコ屋はすぐにつぶれてしまいますよ」
「じゃあ、**先生は魔術師の魔術がトリックだと言うわけですね。トリックだとすればそのねたがあるわけだ。先生にはそのトリックがわかるのでしょうか」
司会者は魔術師のほうをちらちらと見ながら言った。あまり自信がないようだった。
「わたしのやっているのは魔術です。トリックではありませんな。わたしはどんな挑戦でも受けるつもりですな」
魔術師はにやりと笑いながら言った。まわりの招待された観客は何も言わずにこのやりとりを聞いていた。
「じゃあ、挑戦を受けてもらいたいですな」
「よろしいでしょう」
魔術師がにやりと笑うとその犬歯がきらりと見えた。
「じゃあ、とにかく、ステージの上に上がって来てください」
司会者はやはり台本にない展開にうろたえている。科学者はステージの上に上がって行った。
「わたしがこの手品のインチキをあばいても文句を言わないですよね。それでマジックの仕事が一つ減ったなんて言われたら始末におえませんからね。日本でのホテルの滞在費を出してくれなんて言われたってホテル代は僕は出しませんよ。テレビ局のほうに請求してくださいよ」
「もちろん」
魔術師は腕を組みながら薄笑いを浮かべて科学者のほうを見た。いつの間にか物理学者はステージの上に上がっている。
「前にも一度、来栖さんですかな、魔術師さんのマジックを見せてもらったことがあります。それでこんなものを用意してきたんですよ」
物理学者は透明なビニール袋を前に出した。
「これを使ってもらいたいんですな」
彼は客のほうを意識せずに魔術師のほうを見ながら言った。そしてビニール袋の中から大きななにも書かれていないカードとどこでも売っていそうなマジックインキを取り出した。
「これを使ってさっき見せてくれたマジック、いや魔術を見せてもらいたいんですよ。それで十六個のスペードが一個増えて十七個になるんだったら、僕もあんたのやっていることがたねも仕掛けもない魔術だということを信じましょう」
魔術師来栖みつのりは王朝風の背の高いテーブルに片手をつきながら物理学者の話を聞いていた。その金メッキされた彫刻の施されているテーブルの上で逆さにしたシルクハットの中から鳩を出したりしていたのだ。
「それを使ってもいいんですがな。あなたが私の魔術に挑戦してくれるという立場ですから、わたしも好きなシチュエーションで自分の魔術をおこなってもいいでしょう」
「ほら、それだから、おかしいんですよ。魔術というからには、使う道具にも依存しないわけですよ。それだから魔術というわけだ。それだからマジックだと言われるわけですよ」
物理学者の反論にも魔術師は顔色ひとつ変えなかった。そこにあの動揺していた司会者が割り込んできた。
「いちおう、****先生は来栖氏に挑戦するわけですから、そのですね。来栖氏の要求も少しは取り入れていただけませんと」
語尾のほうはしどろもどろになっている。
「まあ、いいでしょう。少しぐらいのバリエーションの変更は許してあげましょう」
物理学者は余裕のある態度を示した。ステージはフアンタジー小説にでてくる魔法使いの部屋を模しているらしく、おどろおどろしい変な測定装置や天球儀のようなものが置かれている。ステージのはじのほうには魔法の本が本棚に収納されていて作り物の背表紙がたくさん並んでいる。
 魔術師が指をぱちんと鳴らして合図をすると来栖みつのりの助手の来栖弥栄子がその本棚のほうに行き、作り物の背表紙のあいだに手を伸ばした。全部作り物の背表紙ではなかった。そのあいだに中身のある魔法の書もはさまれていた。まるで中世の宮廷の淑女のようにその中の本を一冊取り出すと彼女は胸に抱えながらその本を来栖みつのりのところに持ってきた。巫女のように。
 かなり大きな本である。百科事典ほどの大きさはある。煉瓦色の表紙に装飾文字で金色で何か読めないような題が書かれている。
 来栖弥栄子はその本を魔術師に渡した。
「あなたが自分の用意したカードに自分で用意したマジックインキでスペードを十六個描く。それをこの本のあいだにはさむ。そしてこのテーブルの上に置く。そして時間が経ったらこの本を開いてカードを確認する。いいですかな」
物理学者はかなり不満気な顔をしていた。
「もちろん、その百科事典になんの仕掛けもないか確認するため見せてもらいますよ」
物理学者はその本をひったくるように受け取ると調べた。全部のページをくくっていた。そこに何もないことを確認するとステージ上のテーブルの上に置いた。彼の手には真っ白なカードとマジックインキが握られている。
「では、そこにスペードを十六個描いてくださるかな」
魔術師がそう言うと物理学者はスペードを十六個描いた。それからおまけだと言って自分のイニシャルをカードのすみに描いて挑戦的な目をして魔術師に渡した。魔術師はそのカードがよく見えるようにして公開録画に来ていた観客に見せるとくるりと身体を回転させて百科事典のページを開いてそのあいだにカードをはさんだ。
 すると同時に舞台の上の照明が消えて数分のあいだ、真っ暗になった。そしてまた電気はついた。そのあいだ舞台の上にいた人物たちは一歩も動かなかった。いや、動かなかったのだろう。電気が消える前と同じ位置で立っていたからだ。
「では、さっきのカードがどうなっているのか確認していただけますかな」
魔術師はいやに余裕のある表情でそう言うと物理学者に促した。物理学者は大きな本をめくっていたが自分ではさんだそのカードを見つけたらしかった。と同時に物理学者の表情はみるみる曇っていった。
「そのカードをみんなに見せてくださるかな」
しぶしぶ物理学者はそのカードを観客のほうに指し示した。
 そのカードのスペードは十七個に増えていて、カードのすみには物理学者のサインも確かに書かれていた。
 不動付言はそのトリックを見破ることは出来なかった。なぜスペードが一つ増えていたのか。そのカードには物理学者の描いたサインも確かに残っている。と同時にステージの上の照明が半分消えてレーザー光線のような光が無数に飛び回って無数のコウモリがステージ上を飛び回った。そしてトランプのカードに変わってステージの上に落ちて行った。こうもりの姿はどこにもなくなっていた。
カードのマジックよりも不動付言にはこのこうもりのほうが不思議だった。
 帰って行く観客の波に押されるようにして不動付言も出口に出て行くと声をかけられて振り向いた。
「不動じゃないか」
「なんだ吉田か」
出口のところにとんぼめがねをかけたグループサウンズの生き残りという感じの背の高い男が立ってこちらに手招きをしている。
「こっちに来いよ」
そう言ったのはスタッフの通用門のところだった。なんの原因だったか覚えていないが中学のとき急に転校してきてその後不動のわからない問題を起こして転校していった生徒がいた。彼は誰とも話さなかったのだが不動とは座席が前後していたので半年ぐらい一緒に下校していた中学生がいた。それが吉田だった。吉田はテレビ局のディレクターになっていた。不動付言は吉田につれられてスタッフ控え室に入っていった。控え室といっても地方の分校の控え室ぐらいの大きさがあった。
「ここに座れよ。しんちゃんアイスコーヒー二人分」
控え室のはじのほうに机があって外人が日本人と談笑している。よく見ると来栖みつのり夫妻とあの物理学者ではないか。そのことを聞くのはさすがにためらわれた。
「今日の公開録画はいつ放送するんだい」
「お前、なに言っているんだよ。あれは生中継じゃないか」
「本当」
「本当だよ」
「騙された。家のビデオで録画しておくんだった」
「今日、ここに来たこと家族に言っていたの。きっと誰かがきみのことを見ているぜ」
不動付言のまったくの勘違いだった。彼自身この番組がなんの根拠もなく録画番組だと信じ切っていたのだ。
「じゃあ、ついでに聞くけどなんで魔術師と****教授が一緒のテーブルで談笑しているわけ」
「やらせだよ。やらせ。この組み合わせ、つまり対決だね。これを五回分に分けてやることになっている。もう台本も出来ているよ。今日は教授を下げて来栖さんを上げる構成になっていただろう。次回は逆だ。それで結論はあいまいなままにして五回やって、評判がよければ来年もやるつもり」
吉田は足を組んで鼻からたばこの煙をはいた。
「良心の呵責を感じないの。放送人として」
「遊びだよ。遊び。エンタティメントじゃないか」
「じゃあ、魔術なんていんちきなんだ」
「当たり前だろう」
ふたりでアイスコーヒーをちびりちびりやっていると不動は誰かの人影を感じた。
「あの、なにかお話があると聞きましたんですけど」
「ああ、来栖さんの奥さん、今度の放送のときはもう少し派手な衣装にしていただけるとありがたいんですが」
「はあ」
そう言って来栖弥栄子は大きな目でじっとふたりのほうを見つめた。不動付言はどきりとした。作り物の世界の中に本当のものがあるという感じだった。
「いや、奥さん、頼みますよ」
「ええ」
来栖弥栄子はほほえんで向こうに行った。
「美人だろう。彼女に見つめられるとどっきりするよ」
「なんであんなに日本語がうまいんだ」
「あの夫婦は十六分の一日本人の血が流れている。れっきとした東欧人なんだけどね」。来栖みつのりに来栖弥栄子か。少し視聴率を稼がせてくれるといいんだけどなあ」
吉田は自分の台所事情を語った。

   第二回
向島の駅から表通りを抜けて行くと、まだここには下町情緒が残っている。家の前に植木をたくさん並べて年寄りが水をあげていたりする。それも小さな植木ばかりでカルシウムの肥料をあげるために卵のからなんかがふせられている。万年青や盆栽なんかである。裏通りのかどを曲がると日本髪がひょっこりと顔を鉢合わせにするのではないかと思う。まだこの街には小舟が近くまで乗り入れて来られるように水路がひかれている。
 江戸時代から続いている小店も多い。そこには昔から庶民に使われて来た商品が置かれている。佃煮や櫛や履き物やそんなものが売られている。
 不動付言は横町に入って自分の家に通ずる横道を歩いていた。不動付言の家は瀬戸物屋をやっていた。大正時代のはじめからある木造の店で木が黒光りしている。瀬戸物屋の並びには同じような店が並んでいる。
そして細い道を境にして向こう側にも古い小店が並んでいる。不動の実家の向かいは和菓子屋だった。それは少し上品な呼び名で実際は団子屋、餅菓子屋である。テレビの放送に参加してから家に帰るともうすっかりとあたりは暗くなっていた。いつも見慣れた商店街も明かりがともっている。表の方から家の中に入ろうとすると足下に水をまかれた。
「おい、なにするんだよ」
団子屋の方を見るとワンピース姿の付言と同じくらいの女がひしゃくを持って家の前で打ち水をしている。
「みちよも家の手伝いをすることがあるんだ」
「付言くん、みちよもは余計じゃないの」
女は付言のほうにすり寄って来た。
この団子屋の娘、平家みちよは不動付言の幼なじみだった。平家みちよはなぜか旧態依然とした日本の風俗にどっぷりとつかって育ってきたくせにワインに興味を持っていて洋酒メーカーに就職して就職したとたんにヨーロッパのワイン園に出張していた。それはもちろん学生時代から培って来たワインに対する知識と語学の力におうところが大きい。もちろん彼女とは幼なじみであり、付言自身、みちよを女として意識したことはない。
「ベルギーにいる友達から送ってもらったの。おばさんにあげたら付言くんが帰って来たら一緒に食べたらっていっていたのよ。付言くんが帰って来たから、一緒に食べようか」
みちよはなんだか舌を噛みそうなヨーロッパのお菓子の名前を言って付言を煙にまいた。付言が実家の繰り戸をあけると父親は勘定場に座りながらテレビの相撲中継を見ながら片手で瀬戸物にはたきをかけていた。
「お帰り」
親父はテレビの相撲に目を奪われてふたりの方をちらりと見ようともしなかった。
「おばさん、今晩は」
二階に続く階段をお袋が下りて来て
「みちよちゃん、冷蔵庫に入っているわよ」
付言が瀬戸物が荒縄で縛られて横に積まれた階段を上っていくとうしろからワンピース姿のみちよも上がってきた。まったく遠慮というものを知らない女だった。
「今、冷蔵庫から出して切って持って行くからね。みちよちゃん、冷やした方がおいしんでしょう」
「そうよ。おばさん」
「麦茶でいいぞ。わざわざビールなんか出すことないからな」
不動付言が大きな声で言うと勘定場に座っていた親父が大きな声を張り上げた。
「付言、罰当たりなことを言うんじゃないぞ。お前がいくらみちよちゃんの世話になっているのか覚えているのか。みちよちゃん、ビールでもなんでも飲みなよ」
「はあい、おじさん」
不動付言はこれらの発言を無視した。
みちよは女のくせに平気で付言の部屋に入って来た。
「この部屋は見通しがいいのよね。それに風通しもいいし、向かい同士の家なのになんでこんなに違うのかしら」
実際不動付言の二階の部屋は風通しもよいし、見晴らしもよい。家の裏がちょっとした広場になっていてその向こうは墨田川の支流が流れている。もっと昔の時代にここに住んでいる人間が漁師ばかりだった時代にはここで干物を干したのだと死んだじいさんが言っていた。不動付言が扇風機のスイッチを入れると階下からお袋がお菓子と麦茶を持って上がって来た。その前にみちよはうちわを取り上げて自分をあおいでいた。
 不動付言はみちよがヨーロッパの知り合いから送ってもらったという菓子を切り分けると口の中にほうりこんだ。
「付言くん、テレビに映っていたわよ。馬鹿みたいな顔をして手品を見ていたでしょう」
「馬鹿みたいだけ余計だよ。でも格好よく映っていた」
「もとが格好いい人は格好よく映るのよ。そんなの常識じゃない」
「なにが常識だよ。あんな番組を真剣に見ているみちよのほうが馬鹿みたいだよ。あそこで吉田が働いていたよ。吉田と云ってもみちよは知らないかも知れないけどね。ある時期ここらへんに住んでいたんだぜ。みちよは覚えていないかも知れないけど、すぐに転校して行ったからな。その吉田が言っていたよ。あんなのやらせだって。みちよは本気になって見ていたんじゃないだろうな」
不動付言はお気楽に平家みちよから貰った菓子をもう一切れ口の中にほうりこんだ。
「なあに、あれはやらせだったの。じゃあ、あの先生も前もって出ることが決まっていたの」
「そうだよ」
そのとき階下から不動の母親の声がして不動付言は二階の階段を上がったところにある木の柵から下のほうを見ると母親がのれんのあいだから顔を出して不動のほうを見上げていた。
「吉本あつきさんがいらしゃったわよ」
「上がってもらって」
みちよは急に不機嫌になった。
「吉本あつきさんって」
「同僚だよ。と言っても向こうのほうが三年ほど先輩だけどね」
「なんで来たのよ」
「前から約束してたんだよ。僕に用があるんじゃなくてこの家に興味があるみたいだよ」
階下から二階の付言の部屋に大人の雰囲気を少しく漂わせている吉本あつきが上がって来た。みちよより背は低いが顔つきが大人ぽいので全体として落ち着いて見えるし、不動付言よりも大人に見える。
「はじめまして、お客さんでしたの」
「いえ、こちらは向かいの団子屋の娘で僕の幼なじみなんです」
「本当、付言さんの幼なじみなの。付言さんの思い出話なんかを聞きたいわ」
「思い出話なんてたいした話はないんですよ。この裏に流れている川に浮かんでいる釣り船に岸から飛び乗ろうとして溺れかけて大騒ぎになったことがあったわ」
「くだらない」
不動付言はくさった顔をした。
「それから大空電気の前に飾ってあった宇宙金星王子の人形を自分の家に持って来て隠していておまわりさんに大目玉をくらったことがあったじゃないの」
さらに付言ははなじらんだ。みちよはさらに五、六個付言の得点を下げるような思い出話を続けたが、それらがみんな事実だったので付言はくさったが反論することも出来なかった。そのたびに吉本あつきは笑ってそれが調子を合わせているのか真実から笑っているのか付言には判断出来なかった。
 そしてまた世話焼きの付言の母親が階下から二階に上がって来た。母親は三人分のメロンの切ったのを持って上がって来た。
「吉本さんがメロンをおみやげに持って来てくれたの」
不動付言の部屋にはみちよがくれた名前のよくわからない洋菓子、ビール、そしてメロンがあった。窓から外を眺めると昼間の天気が良かったからなのか、真っ暗な空の中に星がちかちかと輝いている。
「むかしは病院に入院でもしなければマスクメロンなんて食べられなかったな。でも特別にうまいものでもないのになんで高級品なんだろう」
付言は言ったあとでしまったことを言ったと思った。横の吉本あつきの顔を見るとにこにこしているので付言は安心した。
「このメロンの角度は六十度じゃない。ということは三つで百八十度なわけだ。きっと下で九十度のメロンを食べているよ」
不動付言の予想は当たっている。事実、下の部屋では付言の両親が半分のメロンをふたりで山分けして食べていた。それもがつがつと食っていた。
 みちよは吉本あつきが女にしては大きなバッグを持っているのが不思議だった。そしてなぜ吉本が不動付言の家に来たのかよくわからない。しかし、そのわけもすぐにわかった。下にいったん下りて行った不動付言が上がって来て言った。
「今、おふくろが風呂に薪をくべているところですから二十分もすれば風呂も沸きますよ。前もって電話をかけて来てくれればよかったのに」
大きなかばんの中をあけて吉本あつきが中からバスタオルや石鹸を出して持ち物を確認している。
「お風呂に入りに来たのよ」
吉本あつきがあっけらかんにそう言うと平家みちよは馬鹿じゃないのと云う表情をした。実際うら若い女が他人の家の風呂に入りに来ることは珍しい。そんな話は聞いたことがない。しかしそれなりの理由があった。付言の家は瀬戸物屋をやっているが明治の頃には違う商売をしていた。ちょっと大きな旅籠屋だった。それで旅人が荷を下ろして風呂に入るのに風呂も少し変わっている。下から薪を炊く五右衛門風呂だった。大きな鉄の釜に水を張って直接に火を炊くので裸足では入ることが出来ない。下駄をはいて入るのだがその話をすると吉本あつきは是非入ってみたいと言うので招待したのだった。そのため風呂場はいつもより念入りに掃除をして水も張ってある。いつも石鹸箱に置いてある石鹸も小さくなったので新しいものに変えられていた。
 馬鹿じゃないのと内心でつぶやいたみちよの印象を吉本あつきは知っているのか知らないのか違う話題を取り上げた。
「今日、変わった話を聞いたのよ」
「どんな話ですか」
不動付言はあぐらを組みながらスプーンでメロンの果肉をひとつすくって口の中に入れた。
「関東航空輸送の人から聞いたんだけど、三日前のことらしいんだけどね、セスナが全部借り切られたんですって」
吉本あつきはうちわで自分のほうに風を送った。平家みちよは付言と同じようにメロンをスプーンですくって口に運んだ。
「関東航空輸送のセスナが全部ですか」
「業界の中での噂ではほかの民間の航空輸送会社でも小型飛行機が全部借り切られたそうよ。だから三日前の東京の空の上では何十機という小型飛行機が旋回していたというわけね」
「でもどんな目的でそんなことをしたのだろう。それらの飛行機を借り切ったのがどんな人なのかわかっているのですか」
「さあ、そこまでは聞かなかったけど」
三日前の夜の東京の上空に多くのセスナ機が飛び回っていたのだ。
「それがおかしいことにはパイロットは必要としなかったんですって、自前のパイロットに操縦させたらしいわよ」
「世の中には変なこともあるもんですね」
不動付言はもっともらしくうなずいた。そのうち母親が風呂が沸いたと言いに来たので吉本あつきは下に風呂をもらいに下りて行った。風呂から上がって一休みした吉本あつきを別当付言とみちよは駅まで送って行った。そこで来栖みつのりと云うマジシャンの話になり、吉本あつきもその手品師の出ているテレビを見たことがあると云う話もした。つい最近の生中継のとき不動付言がテレビに映ったと主張したがその場面は見ていないと吉本あつきが言ったので付言は少しがっかりした。
 新宿にある伝染病研究所の一階にある食堂で不動付言が昼定食を食べていると食堂のはじにある天井につり下げられているテレビがニュースを流した。不動付言のつとめる伝染病研究所は近代的な建物である。一階はすべてガラスの素通しになっていて充分な光が取り入れられるようになっている。
 ここが昔、戦前は軍の研究施設になっていてあやしい細菌の研究がなされていたということは噂で知っているもののその実体を不動付言は知らなかった。中にはここの地面を掘ると人骨がざくざくと出て来ると言うものもいる。しかしそれは冗談だと思っていた。
 そんな過去をまったく想像だにさせないほどこの建物は新しい装いを身にまとっていたからである。
 不動付言がトレーの中で安物のフォークを使ってメンチカツを切り分けていると天井につり下げられているテレビからアナウンサーがニュースを読んでいる声と映像が流れてきた。
 最近、関東地方では原因不明の皮膚病が発見されました。もものあたりにDという文字に似た斑点が生ずる病気です。それが健康にどういう影響を与えているのかはっきりしたことは研究中です。この報告は**医科大学の鷲見博士からなされました。なお感染経路は不明です。
 話を要約すればこういうことだった。
結局なにも重要なことはわかっていないらしい。たんなる皮膚病なのだろうか。しかし感染経路に関してはある程度のことはわかるだろうと不動付言は思った。しかし、その原因となる細菌の種類がわからないということがネックになっているのかも知れない。不動付言は自分の仕事に関係しているらしいことなので興味を持ってそのニュースを聞いた。
 不動付言は微生物の研究からこの伝染病研究所に入った。すべての微生物は不動付言の友達のようなものである。昼のランチを食べ終えて廊下を歩いていると向こうから同僚の鍋島が歩いて来る。
「376号は役に立っているかい」
鍋島が歩いているのを止めて不動付言に話しかけて来た。
「役に立っている。極めて有効だ」
376号と言っても囚人のことではない。新しい種類のウィルスのことである。日本ではそれが手に入るのは鍋島を通さないと入って来ない。それがそもそもドイツで発見されたものだったが鍋島がドイツで研究生活を送っていたためにその研究グループに属している鍋島の手元にしか届かなかったのだ。それは実験器具のようなもので非常に有効なウィルスだった。
「昼間のニュースを聞いたか。変な皮膚病が発見されたと云う話だが」
「知らん」
鍋島は自分の研究以外には興味がないようだった。
「それより前田さんが呼んでいたぞ」
「なんの用で」
「知らん」
鍋島はそのまま行ってしまった。
 不動付言はここの所長の前田になんで呼ばれたのか考えてみた。最近出たデーターがおもわしくなかったのだろうか。規模を縮小するのかも知れない。そうなると自分はもっと小さい部署にまわされるのかも知れない。不動付言の心の中には一抹の不安が広がった。 所長の前田の部屋の中に入ると前田はいやに神妙な顔をしていた。話は深刻な問題なのだろうか。
「不動くん、きみにお客さんが来ている」
「おじさん」
不動付言は思わず口を滑らした。部屋の隅には警視庁捜査一課に勤めるおじの木島たかのりが座っていた。
「木島さんはきみに捜査の協力を要請に来ている。ここに籍を置きながら捜査に協力してくれ」
所長の前田が言った。
「捜査とはどんなことですか」
「まあ、座りたまえ」
所長の前田が木島の座っているソファーの向かいに不動を座らして自分自身も木島の横に座った。
「東京で発生している皮膚病のことを知っているかい」
「さっき、ニュースで知りました」
「もものあたりにDという文字に似た斑点が浮かび上がるという奴ですよね」
「そうだ」
「それで問題が生ずるというのはどういうことなんですか。それが単なる皮膚病ではなく患者の生命を脅かすというようなおそれがあるとか」
「そういう可能性ももちろんあるが、それはまだ確認されてはいない。しかしそれがある細菌によっておこっている可能性ははなはだ高い」
所長の前田が言った。
「付言、それよりも問題になることがある」今度はおじの木島たかのりが口を開いた。このおじの顔を子供のときから不動付言は見ている。
「問題ってどんなことですか」
「社会的問題だ」
「社会的問題って」
「新興宗教に関連している」
「新興宗教ですか」
不動付言にはなんのことかわからなかった。年取った人の良い保険の外交員のような木島たかのりは肩掛けかばんの中から変な文様のたくさん描かれたなにかのマニュアルのような本を取りだしてソファーの前のテーブルの上に置いた。そして最初に目星をつけておいたページを開いた。
「これは」
不動付言はその本をのぞきこんだ。外国の実験器具のマニュアルで日本語に訳してコストを下げるためにこんな装丁にした本を不動付言は見たことがある。しかしこれは実験器具のマニュアルではない。それが簡単な装丁で作られているということは秘密裏に少量の部数が作られたということを意味していないか。
「とにかく読んでみてくれ」
木島たかのりがそう言うので不動付言はその本を読んでみた。最初の数行を読んだだけで普通とは感じが違っている。
 この世界の構造のことがある種のヒエラルヒーを持って記述されている。しかし、それは科学的ではなく思いこみが動機になって書かれている。どうも新興宗教にかぶれている人間の書いたテキストだとしか思えない。その本の内容には神と同義語が違った言葉で語られている。
「おじさん、この本は」
「もっとさきの部分を読んでくれ。そこにメモ用紙がはさんであるだろう」
「この傍線はおじさんが引いたのかい。世は終結に近づいている。そして世が終わるとき神に選ばれた者と破壊される者の印があらわれるだろう」
「変なことが書かれているだろう。社会的不安をあおるような内容が」
「確かに。変なことが書かれているけど、よくこんなことを書かれている本はあるよ」
「しかし、そう書かれていても想像の世界だけでそれが終わればいいんだけれどな。その本を所有している人間が傷害事件をおこした」
「この本が引き金になってその傷害事件が引き起こされたというのかい」
「そうだ。もものところに特定の文字が浮かび上がる皮膚病が起こっているだろう。その病気で皮膚科を尋ねて来た患者がいる。その患者を急に殴りかかった男がいる。病院の中でのできごとだったのだがな。すぐにその男は取り押さえられた。まわりの人間にな。その男はそのに行動の理由をその本に啓示をうけたからだと言っている。つまり今回流行っているこの皮膚病の症状が選ばれたものと破壊されるものの区別だと思っているんだな。ひとりそういう人間が出て来るということは同じ人間がまた現れるということだ。これが社会的な問題と言わずになんと言うのだろうか。似たような事件がまた起こるかも知れないんだ」
木島たかのりはむずかしそうな顔をした。
「この本は誰が書いたのですか。それはわからないのですか。新興宗教のリストの中でそれにかくとうする集団はないのですか」
「木島さんもそれを調べたのだがわからないそうだ。その犯人もそれをどこで手に入れたのか、はっきりしたことを言わないそうだ」「はっきりしたことを言わないのではなくて本人もそれがどこの誰だかはっきりわかっていないようですな。渋谷の地下街を歩いているとき、ゴミ箱の上にそれが捨ててあったので拾ったと言っている。そしてそれを読み始めて自分にとっての天啓だと言っている。本人もかなり妄想にとらわれている節がある」
「たまたま誰かを殴りたくなってその理由をつけるためにその本を引き合いに出しているんじゃないですか」
「もし、そうならその男だけの問題なのだが、最近流行っている皮膚病の問題があるだろう。それに関連してまた同じような事件が起こるかも知れない。今回の皮膚病との因果関係を調べてもらいたいのだよ。付言。もちろんこの本が誰によって書かれたのか、警察のほうでも調べるが」
「不動くん、君を警視庁のほうに臨時で出張させるということで話はついているのだ。今回の皮膚病のことについて調査をしてもらいたい。これがある種の細菌によってひきおこされているかも知れないということでの調査も続けてみよう」
「所長がそう言うならそうしますが」
不動付言はいやいや返事をした。
 不動付言はこの事件の担当にさせられてしまった。別に警察に関係した人物でもないのにである。もっともおじが警視庁の捜査一課に在籍している。そのおじの声がかりでその役をふられたのではあるが。
 そしてその役を振られたというのも不動付言の専門が微生物の研究といってもきわめて特殊なものであるからである。感染経路の研究をするという日本にはあまりない分野をやっている。同じ病原菌でも感染力にいろいろなものがある。それには菌の増殖力や媒介をする生物との関わりがある。そこに不動付言の研究の余地が、というよりもわからないことが多くあるのだが。そこが微生物と人間社会をつなぐ謎を不動付言は調べているのだ。 そのことをおじの木島たかのりが知っていたから白羽の矢が立ったのだ。
 所長の部屋を出るとき所長が声をかけた。「君が尊敬している葦か沢京太郎くんも今回の皮膚病には興味を持っているようだよ」
その声を背後に聞きながら不動付言はびっくりすると同時にたのもしく思った。
「葦か沢京太郎さんもこの皮膚病に関わっているのか」
なにか楽観的な見通しが頭をよぎるのだった。
微生物研究所の正門から外に出ようとするとくぬぎの木の下から見慣れた女が向こうから歩いて来た。肩のところから袖のない服を着て手を振っている。近づくにつれて顔がはっきりと見えた。
「不動くん、これから君のところを尋ねるところだったのよ」
「どういう用件で」
「仕事でよ。もちろん。あなた、葦か沢京太郎っていう生物学者を知っているんでしょう。その人を紹介してもらいたいのよ。その人が微生物のことで役に立つ発見をしたというじゃない。ワイン作りに必要なのよ。その人の研究成果を利用すればうちの会社もだいぶもうかるわ」
「葦か沢京太郎先生と呼べ、微生物の世界では俺がもっとも尊敬する人物だ」
「それなら葦か沢京太郎先生でもいいわ」
「これから尋ねるところだ。よかったらついて来い」
ふたりは最近出来た地下鉄の郊外に向かうほうの線に乗り込んだ。電車は途中から地上に出て私鉄の線路の上を走る。眼下には平行に走っている高速道路のインターチェンジが見える。インターチェンジの背後には大きな森があった。ここいらが都心と郊外の境目になっている。ここいらから奥多摩の背後にひかえる山が見えるからだ。
 葦か沢京太郎の研究所は駅から歩いて十分ほどの場所にあった。葦か沢京太郎は微生物のいくつかの発見をなしとげていてその産業的な成功がこの研究所を建てることを可能にしていた。高い塀に囲まれた研究所の敷地の中に入ると建物の外に立っている高い塔が目についた。
「ずいぶん、高い塔が立っているじゃないの。二十メートルぐらいあるかもしれない。なにに使うの」
その塔の横を通るとき平家みちよにそう言われたが不動付言自身それがなにに使われるのかさっぱりとわからなかったので何も言うことが出来なかった。研究所の中に入って葦か沢京太郎の事務所のドアを開けると中では乱雑にいろいろな書類の載った机の上を一部のスペースを開けてそこにお盆が乗せられていてお盆の中にはバターを塗ったトーストとミルクティという簡単な食事がのっていて葦か沢京太郎はトーストをほおばっていた。前もって電話で来訪をつげていたので葦か沢京太郎特別な挨拶もせずにふたりが自分の事務所に入って来たとき特別な挨拶もせずに「やあ」と言ってソファにすわるように促しただけだった。と言うよりも不動付言と葦か沢京太郎がそれだけ親しいということかも知れない。葦か沢京太郎は付言よりも十歳くらい年上である。しかし微生物の研究者のあいだでは世界的にその名前は鳴り響いている。葦か沢京太郎の研究成果によって産業界では一つの分野が成立しているくらいなのだ。
「付言くん、電話で聞いたよ。そうそう、そこに紅茶の入ったポットがあるだろう。冷蔵庫の中にはミルクも砂糖もすべて入っているし、カップのある場所もわかっているね。かってに飲んでくれたまえ。さて、そのお嬢さんは」
「僕の家の向かいに住んでいる女で、洋酒メーカーに勤めているんですが、京太郎さんの研究成果を使わせてくれという話なんで」
「あっ、そう」
「緊急を要する問題ではないようです」
平家みちよは付言の言葉にむくれた。
「お嬢さん、申し訳ありませんが、お嬢さんの話はあとで聞きましょう」
葦か沢京太郎は手についたトーストの粉を払った。そしてソフアーにこしかけているふたりの前に来て座った。不動付言がなにか話し始めようとすると葦か沢京太郎はそれを手で制した。
「待ってくれ。付言くん。きみの言いたいことはわかる。都内で発生している原因不明の皮膚病のことだろう。もものあたりに英語のDに似た文字が浮かび上がるという」
「そうなんです。なんでそのことを知っているんですか」
「僕は東京に存在する有害物質や病原菌のサンプルを集めることも仕事にしている。それが最初は人間に敵対して見えていても使い方で人間にどんな利益をもたらすかわからないからだ」
不動付言はあらためて葦か沢京太郎の用意周到さに感嘆した。
「きみはこの研究所に入って来たとき高い塔が立っているのを見ただろう。あれがここらへんにある有害物質や病原菌を採取する道具なのだよ。気象観測所にある百葉箱にちょっと似ているかも知れない」
「それでその皮膚病に関連したことを見つけたんですの」
みちよは自分の用件を忘れてこの事件に興味を持っているようだった。
「その原因はつかめていない。しかし、この一週間の間に今まで記録されていない病原菌が採取されたことは事実だよ。こっちに来てくれるかい」
葦か沢京太郎はこの部屋の隅にあるパソコンのある机のところに行き、機械を操作した。
「これを見てくれ」
葦か沢京太郎はマウスを操作していった。画面には無数の芋虫のようなものがうごめいている。
「これだよ。これが新種の菌だ」
「これをいつ採取したのですか」
「七月の十一日だよ」
そこで不動付言は頭にひらめくものがあった。七月十一日というと吉本あつきがそのことについておもしろいことを言っていた。
「もっと詳しいことはわからないのですか」
「どの方向から来たのかなどということもわかる。ちょうど北北西の二十度のあたりからこの菌が風に飛ばされて来たことがわかる。その日の気象情報を見ると北北西の二十度の風がこの付近には吹いていたことがわかった」
「この付近にはここにある塔よりも高い建物はないんですか」
「ないよ」
「じゃあ、空中のかなり高いところからこの菌がまかれたという可能性は高いわけですね」
「この付近にそんな高い建物がなければそういうことになるね」
「でも、その菌が人間に有害だとは言えないではないですよね。それがその皮膚病の原因だとは特定できませんよね」
平家みちよが横から口をはさんだ。
「そうに決まっているよ。この市で同じ症状の皮膚病にかかったものは何人いるんですか」
不動付言は葦か沢京太郎に聞いた。
「この市でも五人の人間がその皮膚病の症状を呈しているそうだ。テレビでもその皮膚病のことを報道したのでその症状のある人間やそれを発見した医者が保健所に届け出ている」
「伝染病研究所の同僚からおもしろいことを聞いたんですよ。七月の十一日に都内の民間の会社のセスナがみんな借り切られたという噂を聞いたんだそうです」
「そのセスナからこの菌が東京の上空にまかれた可能性はある」
「しかし、空中からまかれて発症するなんてずいぶんと伝播力の強い菌ですね」
「いや、それより、それで症状が発症したのがこの市内に五人しかいないということが不思議だ」
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不動付言は自分の勤める伝染病研究所で吉本あつきを見つけた。彼女は中庭の池に面した藤だなの下で涼んでいた。
「吉本さん、あの皮膚病の原因がどうやらわかりそうですよ」
不動付言は吉本あつきが座っている木のベンチの横に腰掛けた。不動付言の表情は定期テストが終わった中学生のように少し晴れ晴れとしていた。吉本あつきは形の良い横顔を少しねじって不動付言のほうを見てほほえんだ。
「原因ってどういうことだったの」
「吉本さんが関東航空輸送のセスナ機が全部借り切られたというような話しをしたじゃないですか。それにほかの航空機会社のセスナ機も借り切られたという。それですよ。それが原因ですよ。そこでセスナ機から皮膚病を発症させるような菌がばらまかれたんですよ」
「そう」
思ったよりも吉本あつきの驚きは小さかった。彼女は不動付言が警視庁の依頼を受けて捜査に当たっていることを知らないようだった。
「でも、あの皮膚病の原因は一種の食中毒ではないかという話しもあるようよ。何日か前に聞いた話だけど、境さんが話していたけどこの区内にあるクランケの調査をしたところ**冷食という食品会社があるのよね。そこのそこの冷凍いかフライを食べた人たちにその症状が出たという話しだったわ」
「いえ、たしかにセスナ機で菌がばらまかれた形跡があるんです。葦か沢京太郎さんの調査ではそうなっているんです」
「そう」
不動付言ほど吉本あつきは葦か沢京太郎を評価していないようだった。臨床医と細菌学者の違いだろうか。
「境さんの話しによるとその症状のクランケはみんな完治したそうよ」
「うっそー」
不動付言はその良い知らせをむしろつまらなさそうに聞いた。
廊下を歩いていると研究員のひとりが不動付言をよびとめた。
「所長が呼んでいるぜ」
所長の部屋に入るとそこにはおじの木島たかのりも座っている。
「不動くん、きみは本来の研究に戻ってもよろしい」
「えっ」
不動付言は拍子抜けした。
「付言、あの皮膚病の原因がわかったんだよ」横に座っていた木島たかのりが不動付言のほうを見て言った。
「原因ってどんなことですか。聞いていません」
「一種の食中毒でその食物も特定できている」
「冷凍いかフライなんて言うんじゃないでしょうね」
「そのとおり、なんで知っているんだ」
「同僚に聞きました」
「そうか」
「でも信じられませんよ。もっと有力な手がかりを僕のほうも持っているんですよ。おじさん」
「でも、わしには専門的なことはわからないが食中毒だろ。みんな食中毒の薬で完治したと聞いている」
「ほんとうですか」
「捜査を担当しているわしがそんなうそのことを言ってどうなるんだ。だから食中毒のほうが重要なのではなくて煽られて傷害事件を起こした、その煽りをおこなったあのわけのわからない小冊子の出所をさぐるのが警察の仕事だ」
「とにかく、不動くん、本来の研究に戻ってくれ。きみには義務以外の仕事をやってもらったよ。ご苦労だった」
不動付言はなにか釈然としないものを感じた。付言が何よりも尊敬している葦か沢京太郎の分析のほうがどうしても正しい気がする。その割り切れないものを抱いている不動付言の表情をおじの木島たかのりは察したらしい。
「付言、お前には余計な手間をかかせたな。よかったらこれでショーにでも行ったらどうだ」
木島たかのりは不動付言になにかの券のようなものを渡した。
「なんですか」
不動付言は一瞬ビール券かと思った。ビール券なら平家みちよがいくらでもくれる。
「みちよちゃんと一緒に行ってきたら」
どうやらそれはショーの券だった。
「今、流行っているじゃないか。魔術師というマジックショーが」
「みちよと一緒だけ余計ですよ」
木島たかのりはその言い方がもうふたりが結婚を決めたようなのでおかしかった。
 来栖みつのりのマジックショーは浜松町にあるライブハウスでおこなわれた。港に面した場所にある百人ほどの観客が収容される施設で建物の半分の部分は海の上から立っている。道路に面した部分は小さな窓がいくつかついているだけなのだが海に面した部分には大きく窓がとられている。その建物自体が船をイメージしているようだった。入り口も船の甲板から客室内に入るような感じになっている。
 テレビに魔術師が出たせいだろうか。この手のショーをふだんは見に来ないような若い客もいた。
「やっぱり僕と来るからいつもよりいい洋服を着てくるのかい」
「ふん、しょっているわね。久しぶりに都会に出るからよ」
「そんなことを言って、いつもより丈の長いスカートをはいて来ているじゃないか」
ふたりが厚い絨毯の上に置かれた椅子の上に腰掛けていると魔術師の来栖みつのりと来栖弥栄子がステージの上に出てきた。それは以前、不動付言が新宿で見たと同じ状況である。ステージと客席はある程度離れていて、照明も暗くおとされていて来栖みつのりの指先の動きの細かいところだけはときどき見落としてしまう。
「新宿で見たのと同じ」
平家みちよが横で不動付言の片腹をひじでつついた。
「同じだよ」
ステージの上にはやはりこうもりがいて照明のあてられかたによってきらきらと輝いていたりする。
「あのこうもり作り物じゃないの」
平家みちよが横で不動付言にささやいた。
新宿の公会堂で見たときは距離が遠かったのでつくりものだとは気づかなかったが近い距離から見ると平家みちよの言うようにそれは作り物だった。そうでもなければ照明にあんなにきらきらと輝かないだろうということはわかった。
 新宿でやったときと出し物は違っている。客席との掛け合いはほとんどなかった。それでもそれなりにその出し物は楽しむことは出来た。不動付言の座っている席からはこの建物の下にある海面が見ることが出来て、夜の海が妖しく動いている。来栖みつのりはやはりマジックという表現を使わずに魔術という表現を使っている。一時間ほどのショータイムが終わって魔術師の夫婦は見栄を切って退出した。
「結構楽しかったわ」
「ただで見られたんだから十分だよ」
出入り口のところからライブハウスの中にいた観客はぞろぞろと出て行った。不動付言と平家みちよのふたりは最後に出てきたうちの観客の一組だった。外に出るとあたりは暗くなっている。客が道路を渡ろうとしているのを前のほうに見ていると後ろのほうに人の気配を不動付言は感じた。
 ふりかえると来栖弥栄子が立っている。それも浴衣を着て立っている。その横には開襟シャツを着た来栖みつのりが立っている。
 外人が浴衣を着ている姿は本来はおかしなものだが来栖弥栄子は小柄のためにそれほど変な感じはしない。
「あなたは新宿で公演をしたときもいましたわよね」
不動付言がなにも言わないうちに来栖弥栄子のほうで話しかけてきた。
「ええ。いましたけど。よくわかりましたね」
不動付言はどきまぎして答えた。来栖弥栄子の瞳の色は不動付言をどぎまぎさせるだけのものを持っていた。横で平家みちよが不満気な表情をした。
「外国人のあなたが浴衣を着て外に出るなんて少しおかしいですね」
不動付言はつまらないことを聞いた。面食らうと同時に彼女との会話を続けたいとい意志も持ち合わせていたからである。
「これから花火を見に行くつもりなんですよ」
来栖みつのりが舞台と同じようなずっしりとくるような声で横から口をはさんだ。
「吉田さんのお友達なんでしょう」
「ええ、ほんの短い期間だったんですけど、同じ学校に通っていたことがあったんです。吉田くんと僕が話していたのを見ていたんですか」
「ええ」
不動付言はテレビ放送のやらせなんてことも話していたのを聞かれたのかとも思ったが、そんな様子もないようだった。
「どこの花火を見に行かれるんですの」
横にいた平家みちよが素っ気ない調子で聞く。「東京湾でやるそうですね」
来栖弥栄子が外国人とは思えないようななめらかな調子で答えた。
 そのとき甲高い声が聞こえた。
「やだあ、史郎ちゃん、アイスクリームをつけちゃって、しみになったらどうするのよ」
少し離れたところに立っている若いアベックの声だった。アベックの男のほうがアスイスクリームを持っているかして、浴衣を着ているほうの女にアイスクリームをつけたらしい。
「やだ。史郎ちゃん、ストロベリー味のアイスクリームじゃないの。しみになっちゃうわよ」
若い女はさかんにハンケチでそのしみをとろうとしている。
「ちょっと失礼」
来栖たかのりがその若い女のほうに近づいて行った。来栖弥栄子はその様子を見ている。来栖みつのりは普段着のズボンから自分のハンケチを取り出すと、その汚れた浴衣の上に置くと右手をパチンと鳴らした。するとどういうことだろう浴衣についていたアイスクリームのあとはきれいになっている。
「これが魔術というものですな」
来栖みつのりは不動付言のほうを見るとにやりと笑った。
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第三回
不動付言が眠い目をこすりながら夢とうつつのはざまをさまよっていると階下から母親の大きな声がする。
「付言、起きるんだよ。たかのりおじさんから電話だよ」
一度目の母親の大きな声で起こされて、二度目の声でまわりの状況を把握したらしい。つまり自分の部屋で自分のふとんで寝ているということを。そして窓の障子を通して柔らかな光が部屋の中にさしこんでくる。
「今、いくよ」
不動付言は眠い目をこすりながら手すりにつかまって急な階段を下りて行った。電話をとると、警視庁捜査一課の木島たかのりの声が聞こえる。勤続三十年というこのベテラン刑事の声がいくらかたかぶっている。
「付言、お前が捜査に必要ないと言ったのは取り消しだ。まだ、捜査に協力していてくれ。所長にはわしの方から話しはつけてある」
「おじさん、どういうことですか。こんなに突然に」
「突然でもなんでもいい。お前の協力がまだ必要だということだ。警視庁のほうからお前を迎えに車が来るからそれに乗ってくれ」
そう言っておじの木島たかのりはがちゃんと電話を切った。
「事件かい」
不動付言の母親は自分のことのように興奮していた。そして喜んでいた。
「父ちゃん、付言が犯罪現場に行くみたいだから、みそ漬けを出してくれ。お茶づけでも食べさせて行かせるから」
父親は冷蔵庫の中からタッパーに入ったみそ漬けを出して流しで洗った。ちゃぶ台の上には昨日の残り物の冷めた飯が茶碗に盛られて置いてある。その横には蔓の取っ手のついた丸い急須が置かれていた。
 警視庁から派遣された覆面パトカーに乗せられて不動付言は首都高速の上を走った。そして郊外に出る前に下りて車は町田に入った。外国から来た雑草がちょうど目の位置にある空き地をいくつか通り過ぎて変わった彫刻の施された門のあるところに着くとすでに二、三台のパトカーがその門の中に入っているようだった。警視庁の安岡刑事が不動付言を出迎えた。
「木島警部はこっちのほうで待っています」
安岡刑事はまだ三十の前半ぐらいで事態を詳しく聞けないぐらい緊張が表れている。不動付言も詳しいことを聞きそびれてしまった。不動付言ははじめて来た場所だったがここが遊園地だということはわかった。しかし大きな会社が作ったものではなく個人がここを作ったのではないかと思った。園内の大きさは野球場くらいの大きさがある。畑か草ぼうぼうの空き地を無理に遊園地にしたようで自治体の作っている公園を巨大にしただけのように見える。横浜のさきのほうにこどもの国という施設があるがそれを小規模にしたような施設で、そこには電気で動くような遊具はない。すべてが人力で動くようだった。その遊具も工場で作られたのではなく、手作りのようだった。素朴さを売り物にしているような感じだった。園内も空き地のままで整備されていず、人の通る歩道と遊具の置かれている場所が雑草をかられて人が通れるようになっている。
 安岡刑事のあとをついて迷路のような細道を歩いていくと警察の連中で人だかりになっている場所があった。その人だかりの中心になっている場所に大きな透明な土管のようなものがあった。土管は半分は透明になっているので中が見える。その見え方も少しおかしかった。土管のあたりにいた木島たかのりが安岡につれられて来た不動付言の姿を見つけてやって来た。
「おじさん、突然、家に電話をしてくるから驚きましたよ。なにがあったのですか」
「殺しだよ。それにお前の協力も得なければならない」
「あの土管みたいな中で布をかぶされているものが被害者ですか。とにかく僕に関係があるかどうか見せてくださいよ」
不動付言は木島たかのりのあとについて土管のほうに行った。それが土管ではなくて大きなアクリルの筒だということがわかった。そして土管の中が変なふうに見えていた理由もわかった。まずそれがアクリルで出来た大きな筒でその筒のたて半分が鏡面メッキされている。つまり鏡のようになっていて筒を縦に切った半分の内側が鏡のようになっているのだ。つまり土管の中から見れば凸面鏡のようになっている。そのためにその中にあるものは実際よりも大きくてゆがんで見える。
「大きな土管ですね。どのくらいの大きさがあるんですかね」
「直径が一メートル五十、筒の長さが三メートルある」
「これはなんなんです」
「作った奴に聞かなけりゃわからんよ。おっ、ご苦労」
「警部、気をつけてください。背が低いから頭をぶっけてしまいますよ」
中にいた刑事とふたりは入れ替わった。
「これだ」
木島が上にかぶせてあった布を取り去ると血液の流れが止まって蒼白となった若い女の顔が表れた。
「おっ」
不動付言は思わず声を上げた。殺人事件で死んだ女の顔を見るのははじめてだった。
「顔から下の布を上げてみようか」
「おうっ」
不動付言は最初のときより大きな制御できなない声を上げた。被害者の下に血だまりがあり、その理由がこれでわかった。
「なんですか。おじさん、これは。今は戦国時代じゃありませんよね」
長年、人の死体を見慣れてきた木島たかのりが驚いているのだから、不動付言が驚くのは当然だった。はだけられた女の胸元、ちょうど心臓の真上のあたりに長さ二メートルほどのさきの尖っている鉄製のもりが刺さっているのである。さきが尖っているらしいのはその刺さりかたでわかった。もりと言ったのはもりのように見えるということただけであって、それが本当にもりであるかどうかはわからない。とにかく長い鉄の棒である。それが若い女の胸、ちょうど心臓のあたりに刺さっている。
「むごいですね」
「なにか別の凶器で殺されて死体を冒涜するためにあとからこの鉄の棒で心臓を突き刺されているならいいのだがこれで刺されたことが死因になっている。しかし一瞬のことだったろう。鉄の棒が心臓に突き刺さった瞬間に絶命したに違いない」
「おじさん、でも、なんで僕がこの事件にかり出されたというわけですか」
木島たかのりはもとのように頭の上にナイロン製の布をかぶせた。
「こっちなんだ。不審なのは」
木島たかのりは下半身のほうにかかっている布をずりあげた。すると女の足が表れた。そしてワンピースのスカートがずり上がって太もものあたりが見える。
「これは」
「そうだ。Dの文字だ。これが付言、お前を必要としている理由だ」
女の太もものあたりに英語のDの文字が浮かんでいる。
「あの皮膚病の事件は解決したのではないのですか」
「わしもそう思っていた。発病者の症状はみんな完治して、その原因というのも食中毒の一種だという結論を得ていたからな。それが甘い見通しだったのかも知れない」
「でも、おじさん、表面的に同じ症状が現れたとしても原因が別のことだということも多いじゃないですか。偶然、同じ症状が出たということも考えられますね」
「そのことについてはわしにはわからん。わしは医者でも細菌学者でもないからな。それがお前の仕事だ」
「このお嬢さんがどこの誰かということはわからないのですか」
「彼女はさいふしか持っていなかった。そのさいふの中にはカード類も定期も入っていないんだ。やっかいな事件だよ。さらに混乱を引き起こすような遺留品もある」
「どんなものですか」
「園田くん、あれをちょっと持って来てくれないか」
木島たかのりが園田刑事を呼ぶと園田はビニール袋に入った紙片を持って来た。ビニールは透明なので中に書いてある文字も読むことができる。手帳の一ページをやぶいたもののようだった。
「これが被害者のそばに落ちていた」
木島たかのりは不動付言の前でその証拠物件をひらひらさせた。
「自分のもの」
不動付言はなぐり書きされたその紙片の文句を読んだ。
「自分のもの、どんな意味ですか、おじさん」
「この被害者がどんなものを持っていたのかわからないが、その所持物を被害者が自分のものといったのか、犯人が自分のものと言ったのか、その部分はわからない。犯人がその所持物を盗んだのかも知れない」
不動付言は自分のもの自分のものと口の中で繰り返してみた。
 生きていたときはこの女性も可愛く微笑んでいたのだろう。それが今は生きていたときの輝きはなくなっている。その彼女の持っていた紙片に「自分のもの」と書かれているのはどんなことなのだろうか。不動付言には皆目見当がつかなかった。
 この土管のかたちをした遊具がどんな状態かというとこの土管から三メートルぐらい離れたところにこの遊園地の外周をなしている金網がある。金網の高さは二メートルぐらい、そこにも雑草がはえていてその向こうに道路がある。土管、実際は大きなアクリル製の筒であるが半分は鏡面になっていて半分は透明なままでその透明な部分が外周のほうに向いている。
「これはなんだろうね」
「こんなものを僕もむかしどこかで見たことがありますよ。ここに入って鏡に自分の姿を映してみるとゆがんで写るんですよ。子どもが入ってちょうどよい大きさだから、子どもがここに入って自分の姿を写してびっくりするんじゃないでしょうか。おじさん」
「似たようなものがこの遊園地のあちこちにあるわけか」
そこへ刑事のひとりが木島たかのりのところにやって来た。
「被害者の胸に突き刺さっていた鉄の棒ですが同じものがあそこにあります。この遊園地の備品のようですよ」
刑事は外周の金網のほうをゆびさした。
「あそこに鎖で閉鎖されている扉がありますよね。あの向こう側に同じ鉄の棒が山と積まれています」
「あそこか」
「ええ」
「じゃあ、そこにある鉄の棒を一本引き抜いてきて被害者の心臓に突き立てたというわけか」
「しかし、どうやったと思う。よほどやりの名人でもないかぎり被害者の心臓になんの狂いもなく突き刺すことができるだろうか」
木島たかのりは疑問を呈した。
不動付言もそのことは非常に疑問を持っていた。二メートルもある鉄の棒である。重さも相当なものとなるだろう。力のある男でも簡単には扱えないと思う。
「まあ、とにかく、この鉄のもりをどうやって使ったかは棚上げだ」
木島たかのりと不動付言がその疑問が解決することが出来ず、押し黙っていると安岡刑事が小太りで背の低い頭のはげた男をつれて来た。男はしきりに目をぱちくりしている。
「警部、地図芋さんをお連れしました」
「こっちに来て頂こうか」
そばに停まっている移動交番のようなワンボックスカーの横の扉の開いているほうに木島たかのりと不動付言のふたりは地図芋と呼ばれた中年の男をつれて行った。後ろから安岡刑事もついて来る。移動交番の中は椅子も机も備えられていて中で取り調べが出来るようになっている。地図芋は神妙に構えている。「あなたがここの経営者なんですね」
「ええ」
地図芋は下を向いてつぶやいた。その横では安岡刑事が机の上で調書を書いている。
「経営者と云ってもここで働いているのは僕しかいませんよ」
「ここの正式な名称はなんというんですか」「ポッコリランド。ポッコリ村という幼児向けのテレビ番組を知っていますか。そこから名前をとったんです」
「たくさん遊具がありますね。全部、見たわけじゃないんですけど。みんな手作りのようで暖かい感じがしますね。どこで作っているんですか」
木島たかのりはちょっぴり持ち上げながら地図芋に聞いた。しかし地図芋は少しもうれしそうではなかった。
「自分で経営していてなんですが、単に空いている土地を利用するためにやっているだけなんですよ。昔はここらへんはみんな畑や雑木林だったんですよ。わたしが子どもの頃はらへんにこんなに人が住み着くようになるとは思わなかったんですよ」
「土地の有効利用のためとおっしゃいましたが、この遊園地をやろうと思ったきっかけがあったんでしょう」
「弟がいるんですけど、いっぱしの芸術家きどりでしてね。わけのわからないブランコだとか、風車だとかをいっぱい作っているんです。これらの遊具はここで展示していて遊べるだけではなくて売り物でもあるんですよ。今まで売れたことはないんですけど。中には本当に変なものもあるんですよ」
「弟さんの協力でこの遊園地をやっているんですか。さっき地図芋さんはここで働いているのは地図芋さんひとりだけだと言っていましたよね。具体的にどういうことなのか、教えてもらえますか」
「ここはこれでも入るには入園料をとるんです。そこで入り口を見ましたよね。あそこに小さな事務所を開いていて入って来るお客さんから入園料をとるんです。でも平日だと一日に二十人くらいの客が入るかどうかというところですね。だいたいが小さな子どもをつれた母子づれが多いんです。そしてあとは園内の掃除と何カ所かに置いてあるジュースの自動販売機にジュースの補充とかをするんです」
不動付言も木島たかのりもちらりとその遊具を見ただけだったがなかには変な遊具もあったようだ。きっとその芸術家の弟というのが作ったのだろう。
「それでこの死体を発見したのは今日の朝なんですね」
「そうです。園内を一回り掃除をしているとあの土管の中に変わったものがあったでしょう。そばに行ってみると下のところは血だらけになっていますし、そばに行くと若い女が死んでいたんです」
「その女の人の顔を見たと思いますが、知っている人ですか」
「いいえ。まったく見たことがありません。はじめて見た顔です」
地図芋は大げさに否定した。
「でも、この園内にいた人でしょう。昨日のうちに入ったのではないでしょうか」
「そうかも知れませんが覚えていませんよ。入ってくるお客さんの顔を全部覚えているわけじゃないし、事務所の中では暇なもんだから本を読みながら店番をしていますしね」
「昨日の客は何人ぐらい入ったんですか」
「帳簿の上では十七人となっています。でも、外周になっている金網を見たらわかると思うんですけど、ところどころ穴が空いているでしょう。それに子どもだったらあんな金網を乗り越えるなんて簡単なことですよ。だから昨日、この園内に何人の人が入ったなんて言われてもちょっとわからないですよ」
それから木島みつのりはさっき拾った紙片をとりだした。
「こんな紙片を拾ったんです。死体のそばでですね。見覚えはありませんか」
地図芋はビニールに入ったその紙片をのぞき込んだ。手帳の切れ端には「自分のものだ」と書かれている。地図芋はその紙片を見て目をぱちくりさせた。
「知りません」
「昨日もそこを掃除したわけですよね。同じ紙片があったかどうかは覚えていませんか」
「わかりません」
不動付言はそれは聞くほうが無理だと思った。あとで署まで来てもらうかも知れないと言われて地図芋はそのワゴン車の中から出て行った。
「この紙片が誰のものか指紋を調べなければならないな」
木島たかのりは出て行く地図芋を見ながら言った。
「まず、被害者がどこの誰だか特定しなければならないな」
木島たかのりはポラロイドに写された被害者の顔を見ながらつぶやいた。
「死人の顔にしてはこの女性、可愛い顔をしていると思いませんか。生きていたら、きっと相当可愛いですよ」
「そうかな。付言はどう思う」
木島たかのりはその写真を見ながら不動付言に聞いてきた。
不動付言も初めて見た殺人被害者の写真だったが、そういう印象を受けた。帰ったと思った地図芋がどうしたのかのろのろと戻って来たので不動付言は不審に思った。
「地図芋さん、どうしたんですか」
「昨日、事務所にいたら変なことがあったんです。なんでも気がついたことはお話しておいたほうがいいと思ったんでお話するんですけど」
「どんなことですか。なんでもいいから、話して下さい」
安岡刑事はふたたび調書を前にしてペンをとった。地図芋は今度はワゴン車の中に上がってこないでその前に立って話し始めた。
「ここは七時に閉園になるんです。その三十分くらい前のことでした。山岡荘八の徳川家康を読みながら閉園の時間を待っていたんです。事務所の時計を見ると六時四十分でした。ちょうど徳川家康が姉川の戦いの場面でした。ちょうどそのとき入り口のドアのところでコツンという音がして誰かが来たのかなと思いました。それでドアのほうを見たんですがドアの窓のところには誰もいませんでした。そしてどうしたんだろうと思いながらまた徳川家康を読み始めたんです。そしたら今度は窓のところに黒い影が見えて、耳をすますとばたばたという音がするじゃありませんか。今度はどうしたんだろうと思って入り口のドアのところに行き、ドアを開けると誰もいませんでした。おかしいと思ってまたドアをしめようとしたんです。そしたらドアの前のコンクリートのところに黒い風呂敷みたいなものがあるのでおかしいと思ってよく見るとその風呂敷が豚みたいな鼻をして顔を上に上げたんですよ。それはこうもりだったんですよ。私に気づいてこうもりは再び飛び上がって宵闇の中を飛んでいきました。そしてわたしもそっちの方を見たら空中を何十匹というこうもりが私の園の頭上を飛んでいるんですよ。わたしも気味が悪かったんですが一方でその姿に見とれてしまいました。しかしそれを十分くらい見とれていましたでしょうか。また集団でこうもりはどこかに飛んで行ってしまいました。気味が悪かったんですが、面倒くさかったのでそれを調べずにそのまま七時に帰ってしまったんです」
「そんなことは今まで何度かあったのですか」
「一度もそんなことはなかったですよ」
地図芋はそれだけの話をすると家に帰って行った。しばらくこの園を閉鎖するという話しになったが地図芋はお金をもうけるためにやっているのではないといい、それになんのためらいもなく同意した。死体は通常は警視庁で引き取るのだが、伝染病研究所に運ばれ、そこの医師の手で解剖調査されることになった。もちろん警視庁の解剖医立ち会いのもとである。
 不動付言が自宅の瀬戸物屋に戻ると隣の平家みちよが付言の部屋に上がり込んでいた。平家みちよは素足で付言の部屋の畳にべったりと座って付言の本棚から何冊かの漫画本を取りだして読んでいる。母親がよけいなことをしたらしく、飲み物類も盆に入れられ置かれていた。
「ここは漫画喫茶じゃないんだけど」
不動付言は自分の部屋に上がるとまっさきにそう言った。しかし平家みちよはそんなことは少しも気にしていないようだった。
「付言くん、まだこんな漫画をとって置いたの」
平家みちよは今から十年ぐらい前に発売された漫画を本箱から取り出して読んでいた。平家みちよの膝小僧が畳みの上で生々しく見える。不動付言は思ったより彼女の膝小僧はつるつるしているなと思った。しかし平家みちよが自分で化粧クリームを塗って手入れをしているということまで考えが回らなかった。
「随分前の漫画じゃないの」
不動付言はその漫画が好きだったわけではないがなぜ自分でもとって置いたのかよくわからなかった。
「事件だったんだって」
「そうだ。殺人事件だ。みちよと同じくらいの女が殺された。それも閑古鳥が鳴いている遊園地でだ。それも普通の殺されかたではない。心臓に鉄のもりを突き刺されて殺されたんだ」
「被害者の顔を見たの」
「見たよ」
「どんなだった」
「血の気がなくなって青白くなっていた」
「でも、そんなひどい殺されかたをしたのになんでニュースに出ないの。夕方のニュースを見たけどでなかったわよ」
「明日のニュースには出るだろう。でもわからないんだよな。その鉄のもりというのが二メートルもあるんだぜ。それが致命傷になっているんだけど、どうやってうまく心臓に突き刺したのかわからないんだよ」
「心臓にもりを突き刺したなんて吸血鬼の話しみたいね」
不動付言ははっとした。そう言えば吸血鬼の話しのようだ。吸血鬼は心臓に杭を打ち付けられる。それは吸血鬼の復活を阻止するためだが。そしてもう一つ不思議な話がある。地図芋のした話しだ。宵闇に乱舞するこうもりの話しだ。
「殺人があったその前の日に無数のこうもりが乱舞していたんだ。信じられるかい」
「不思議な話ね」
平家みちよは不動付言の瞳を見ながら言った。

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