ぶんぶく狸

ぶんぶく狸
  

ぶんぶく狸 第一回

 飯田光太郎は自分の家の裏にある池で釣り糸をたれながら、池の表面できらきらと輝く太陽の光を見ていた。そのきらきらとした反射は光太郎の釣り竿のさきから池の中にたれている釣り糸にも発生していた。池と云っても底の深くない、沼のような水をたたえている。ときどき気泡が水の中から上昇して、水面に飛び出すと破裂して大気の中に同化していく。その気泡は魚が呼吸のために自分の肺から出しているのか、池の底の土中の微生物が化学作用によって発生させているのか、その成分がなんだかわからないと同様に光太郎にはわからなかった。彼の視界の中では間欠してその気泡が水面から出ていくのであった。しかしとにかく適当にある程度の水温がなければこんな気泡は水中から生じないだろう。
 光太郎の使っている釣り竿はそこら辺にはえている竹のさきを切って作った二メートルほどの簡単なもので、そのさきに糸と十五センチほどの浮き、さらにそのさきには小魚をつかまえるための小さめな針がついていた。こんな簡単な道具だてでも魚はつかまった。それも食べることのできる魚がである。その魚をつかまえるために光太郎は柳の木の根本でじっと浮きの動くのを待っていたのである。春の光の中と云っても直射日光を浴びていれば頭が暑くなってしまうが光太郎の頭上には柳の葉の茂っているのが広がっている。つまり、光太郎は柳の木の根本で直接地面に腰掛けながら釣り糸をたれているのだった。下に茣蓙を敷いているので服が汚れる気遣いはない。光太郎は浮きを眺めながら足を前の方に延ばした。
 光太郎の目のはるか先の方には蝦蟇の油売りの口上で有名な筑波山が見える。ここは千葉のある片田舎で昔は宿場町として知られていた。だからこの町を歩いていると田舎特有の匂いがしてきたりするのだ。枯れ草にまじって発生するあるにおいがである。それに牛を飼っている農家も近所にあった。くすんだ古材で建てられた掘っ建て小屋のようなものがあり、その壁の隙間から牛がじろりとこちらを睨んだりする。光太郎の裏庭にある池にもそれなりに履歴がある。ここに弘法大師が立ち寄ったとき田圃の水が干上がっているのをなげいて近隣の農民を動員してここにため池を作った。それからこのため池の北西の森の中に大きな岩が三つ、四つ、寄り添うように重なっている場所があって弘法大師がその場所に行き、密教の呪文を唱えると大きな岩が砕けてそこからわき水がちょろちょろとわき出したと伝えられている。その水には水路が作られていてため池に注ぐ仕組みになっている。雨水が絶えたとしてもこのわき水のおかげでため池の水は絶えることがないのだ。水が染み出したと云う森の中にはほこらが建てられて、そこには水神である竜の像がまつられていた。
 最初はそこは田圃に水を引くためのため池だったが、近くに旧街道が走っている宿場町でもあったから、そのため池のはたに川魚を食べさせるための大きな料理屋が出来た。川魚の中にはすっぽんも含まれている。そしてその魚を養殖するためにたくさんの魚がそのため池に放されたのだ。だからその池は農業のためのため池からすっかりと魚が住むための池に変わってしまい、池のはたには蓮だとか浅い池で育つような水草が繁殖している。そのうちにその大きな料理屋は店をやめてしまって、ここら辺の土地をすべて所有している地主が住むようになった。この池を挟んで料理屋の対岸に地主は何軒かの家を建ててそのうちの一軒に飯田光太郎は住むことになった。だから家の裏には池があってごく簡単なつり道具で魚も釣れることが出来るのだ。夏は少し生臭いが池の表面を吹く風が家の中に吹き込んで来るので過ごしやすかった。冬は黒潮の流れる千葉の海岸のそばにあるのでそれほどの寒さも感じなかった。
 光太郎が浮きを見つめていると浮きは大きく水中に沈んで浮き上がって来ない。少し淀んだ水の中で浮きが小刻みに揺れている。少し特徴のある浮きの動きだ。光太郎には思いあたるものがあった。浮きを引いているのはふつうの魚ではないと思った。案の定、竿を引いてみると引き方が持続した一定の力を有しているように思われる。釣り竿を引き上げて見ると糸のさきにはずんぐりむっくりとした小ぶりの天然のうなぎがかかっていた。空中に引き上げてもうなぎはつり上げられた事実を肯定していないのか身をよじらせて針からのがれようとしている。光太郎は自分のうしろの自分の家の方を見てほほえんだ。光太郎はうなぎを針からはずすと池の中に浸してあった生け簀の中にうなぎを滑り込ませ、そのまま生け簀を引き上げた。
 光太郎の家の裏は池に面していて、家の裏には光太郎の家の台所がある。柳の木の下から台所の横の勝手口から台所に直接行くことが出来るようになっている。収穫した魚を下げて勝手口の中に入ると妻の飯田かおりが台所に立って夕飯の支度をしていた。
「飯田かおり、大漁だよ。それにうなぎもとれたのだ」
光太郎が獲物の入った生け簀を右手で持って掲げると妻の飯田かおりは米をとぐ手を止めて、こちら見て微笑んだ。光太郎が報告する必要もなく、台所の窓から妻の飯田かおりは光太郎が釣りをしている姿を見ていたのだ。
「じゃあ、今晩は天ぷらにする」
「そうだな」
光太郎は同意した。すると飯田かおりは魚をさばくための小さめの包丁を取り出した。
「じゃあ、たのむよ」
光太郎は魚の入っている生け簀を流しの中に置いて妻の後ろの板の間に腰をおろした。妻の飯田かおりのうしろ姿を見ながら光太郎は自分にはこれしか残っていないのだと思うと、飯田かおりの肩のあたりの丸みを帯びた線が特別なものに思えた。この特別な自分の家の立地条件から飯田かおりはいつの間にか、魚を自分の手でさばくことが出来るようになっていた。そのことがもちろん光太郎の家の家計を少しは助けていることは明らかだった。妻の飯田かおりは流しに置かれた生け簀から魚を取り出すと流しの水道から水を流してまな板を濡らした。魚の背骨のあたりに横に包丁を入れて胴から頭を切り離した。赤い血が切り口から染み出して来てまな板を汚したので飯田かおりはまた水道の水でその汚れを流した。台所の板の間に腰をおろして飯田かおりのうしろ姿を見ていた光太郎だったが、かつお節の削り器の横に置いてあるガラス製の筒をとり上げた。その中には水がいっぱいにつまっている。
「飯田かおり、これを見て御覧」
「なによ」
飯田かおりは台所に立ちながら、身体をひねってうしろを振り向いた。そこにはガラス製の筒を持った自分の夫の姿があった。
「これはおもしろいんだよ」
光太郎はそう言ってガラスの筒の上の方を押した。その筒の上の方は厚いゴムのふたがついていて押すとそのふたはへこむようになっている。水の入ったガラスの筒の向こうに妻の飯田かおりの姿が見える。そのガラスの筒の中には水だけではなく、宇宙人の乗った円盤が入っている。ゴムのふたを押す前はその円盤はガラスの筒の上方にとどまっていたのだが、ゴムのふたを押すと下の方に下がって行った。そしてふたを押す力をゆるめるとまた上方に上昇していくのだった。飯田かおりは手の甲あたりで口を押さえて笑った。しかしそれはなんの屈託もない笑いと云うわけではなかった。走っている列車が駅で小休止をしていると云う趣であった。なんの悩みもない若い頃を一時、思い出しながら、そのくせ現在からはすっかり解放されていないと云う感じだった。
「なによ。子どもみたいに」
「子どもがこれを見たら驚くよ。離れている円盤をふれずに浮かしたり、沈めたりしているんだよ」
「あなたが上についているゴムのふたを押したり、離したりしているからじゃないの」
「でも不思議だと思わないかい」
「そんなこと疑問にも思わないわ」
飯田かおりはまた台所の方に向いた。そのことが光太郎には多少不満のようだった。
「むかし、これと同じようなおもちゃを見たことがあったけど、とても不思議だったなあ。でも大人になってからこのおもちゃの仕掛けがわかったよ」
飯田かおりはまたまな板の上で魚を開いている手を休めて光太郎の方を見て微笑んだ。
「仕掛けってどんな仕掛けで動くの」
光太郎は飯田かおりが再び自分の相手をしてくれたことに喜んだ。
「ほら、この筒の中には水だけで全然空気が入っていないことは不思議じゃないかい。かと言ってこの筒の中は水だけと云うわけはないのさ。円盤が入っているだろう。この円盤は中が空洞になって見えない位置に小さな穴が開いているんだ。そしてちょうど沈むか沈まない状態で筒の中の水の浮力と釣り合っているんだ。それがこのゴムの蓋を押すと」
光太郎はそう言って目の前のガラスの筒を見ながらゴムの蓋を押すと筒の中の円盤は沈んでいった。
「ほら、円盤が沈んでいくだろう。円盤の浮力が円盤の自重に負けるからなんだ。つまり自重が増えたと云うことなんだよ。ゴムの蓋を押すだろう。すると中は水だけだから、空洞の円盤の中の空気に圧力が加わる、すると小さな穴から水が円盤の中に入って円盤の自重が増えるんだ。そして下の方に沈んでいくんだ」
光太郎は一度上方に上がって来た円盤をまたゴムのふたを押して下の方に沈めた。そんな子供のおもちゃのようなものをくだらないと言って無視することも飯田かおりには出来なかった。光太郎にとってはあまり金のかからないなぐさみであることがわかっていたからだ。今の光太郎にはそんなことぐらいしか楽しみはなかったのだ。あとは飯田かおりしか残っていなかった。
「どこでそれを買って来たの」
魚をさばく手を休めて飯田かおりが振り返った。「煙草屋のとなりの川端童心舎と云う会社があるだろう。あそこの店先で売っていたんだよ」
「いろいろな幼稚園に卸して余っている商品を売っているんだ」
「煙草屋って、あなたの話しによく出てくる煙草屋」
「そうだよ」
その煙草屋のことは飯田かおりも知っていた。その隣りに会社と呼ぶにはほど遠い、雑貨屋を少し大きくしたような建物があったことを覚えている。
「あっ。そうだ」
「どうしたの」
「毎月、二十六日に余った商品を売ると言っていたから、今日も軒先にそれを並べて売っているかも知れない」
「行ってくれば。ちょうど戻って来た頃に御飯の支度も出来ているから」
「そうかい」
光太郎は今いじっていた玩具を鰹節けずりの横に置くと立ち上がった。
「一時間ぐらいで帰って来てね」
「うん、ちょうど好い散歩コースだ」
光太郎は台所から居間兼寝室の横の廊下を抜けて玄関に出た。そこで履き古して底のすっかりと薄くなった革靴を履いて外に出た。玄関の引き戸を開けて外に出るとまだ舗装されていない道路に出る。光太郎の家の前は田圃の中の空き地になっていて手押し式のポンプの消防車の格納されている木造の小屋になっている。光太郎はその消防車が引き出されて勇ましく消防活動をしているのを見たことはまだなかった。その道を光太郎は左に曲がった。右の方には二十メートル間隔ぐらいで昔料理屋だった屋敷に住む地主の建てた家が二軒立っている。光太郎はその二軒の住人と面識はなかった。彼は田圃の中の車が一台通ればもうきゅうきゅうとなるような細道を歩いて行った。この道を百メートルほど歩くと旧街道に出るのだった。少し歩くと右手の方に荒れ果てた田圃に背の高い水草が生え放題にその葉をいろいろな方向に向けて生えている場所があり、その向こうのはるかかなたには折れ曲がった河が流れていた。その河へ行く途中に大きな煙突が立っていて、光太郎はそこがゴミの焼却場か何かだと思っていたのだがあとで誰かにそこは葬儀場だと云う話しを聞かされた。光太郎はそこまで行ったことはなかった。しかしそこに行く道は草原の中にあった。その道はもちろん舗装されていず土の上に石ころがごろごろしていた。その田圃の道には三十メートル間隔で木製の電柱が立っている。光太郎がその電柱の横腹を見ると誰か個人が印刷した紙が貼られている。光太郎は立ち止まってそこに書かれていることを読んでみた。最初の行には近所の住民に注意を喚起すると書かれていた。最近自分の自動車のタイヤをパンクさせられたと云うことが書かれていた。そこにはその自動車の車種、犯行のおこなわれた時刻、そのための損害額などが書かれていた。そして警察の予想する犯人の目星として素人の二十才前後の若者の犯行だと書かれている。そして近所の住民に注意するように書かれていた。光太郎にはある車種の映像が浮かんだがそれが当を得ているかどうかはわからなかった。その電柱のびらを読んでその電柱のさきを通り過ぎると左手には光太郎の裏庭に続いている大きな池が見える。最初は田圃の水を引くために弘法大師が開いたと云う池だ。その池の向こうには塀もなく大きな屋敷が見える。屋敷の手前には折れ曲がった松が数本植わっている庭を有している。光太郎の家もそこに住む地主が建てて売ったのだった。その屋敷は料理屋特有の変な屋根の曲がり方をしていた。外に面した廊下のすべてには引き戸がついているのだがその引き戸は上から下まですべて板ガラスがはめこまれている。その地主は夫妻と小さな女の子の四人家族で住んでいると云うことを聞いたことがあった。いくらなんでもあの大きな家に四人家族では寂しいし不用心だろうと光太郎は思った。そこが料理屋だったと云うことも不自然に思えるし、その地主がなんでわざわざその料理屋を自分の住まいにしたのかもわからなかった。そこが料理屋としてのピークを迎えたのは江戸時代の終わり頃だと聞いている。川魚のほかにすっぽん料理も名物として出していたそうだ。あの大きな家に住んでいて何の生活の不足も感じていないだろうその家主の生活は光太郎には想像も出来なかった。底が薄くなって今にも穴が開きそうになっている靴をだましだまし履いている自分にはである。
 田圃の中の道を歩いて行くとやがて旧街道に出た。ここは昔、宿場町として参勤交代の大名が江戸に入る前に投宿した場所だったのでその時代の旅籠屋がまだその当時を伝えながらその姿をとどめている。光太郎が玩具を買った川端童心舎と云う会社はその旅籠屋にはさまれる形であった。光太郎がその会社の前に行くと五、六個のダンボールの箱が素のままに置かれていて、ビニールの袋に入った玩具がちらほらと入っている。この会社は幼稚園に毎月玩具を卸すことを仕事にしていた。しかし、注文の数と生産数が合わないので余った玩具をそこを通る人間に直接に売ることによって過剰生産の赤字を減らそうとしている。光太郎がダンボールの箱の中を見ると今月の余った玩具が底の方にちらほらと収まっている。それはすべて一種類のものだったが、光太郎が思ったよりも大きな玩具だった。それは弥次郎兵衛の真ん中に車輪がついていてその車輪にひもを通すようになっている。弥次郎兵衛が左右に振れることによってそれを動力に変えて車輪が回転してひもに沿って坂を上れるようになっている。その建物の奥の方では作業台が二つ置かれて、梱包用の道具が作業台の上に置かれている。その奥の方には事務机が置かれていてその席に全くの店番にならないようなこの会社の専務兼作業員が座って帳簿をつけていた。光太郎はその玩具を買うことをためらった。一つは自分の家でやってみるには大きさが大きすぎること、同じ原理で同じような動きをする玩具をすでに持っていること、そしてこれが最大の理由なのだがダンボールの箱の後ろの方にダンボールを切って売値が太いマジックで書かれていたがその値段が思ったよりも高かったからだった。光太郎はそのダンボールの箱から離れた。奥の方にいる事務員はまったく光太郎の存在を忖度していないようだった。光太郎はその会社を離れて隣りにある旅籠屋の方に足をすすめた。そもそもこの場所に興味を持ったのはその隣りの旅籠屋に興味を持ったのが最初だったからだ。その旅籠屋は江戸時代の頃は旅籠屋をやっていたが現在は一切の宿泊業には手を出していなかった。その代わり街道に面した外回りの一角を区切ってホーロー引きの看板をつるして煙草屋を営業していた。その煙草屋の店構えは外に面した平面から少し出っ張っていて風呂屋にあるようなエメラルド色のタイルが出っ張った出窓の下の方の全面に張られている。その上にガラス張りの棚があってそこによく売れる煙草の銘柄が置かれている。その上にガラスに上板があってその上にガラスの引き戸があって寒かったり風が強いとその戸が閉められるのだ。そしてさらにガラスの引き戸の上天井の方に白いガラスで中に蛍光灯が仕込まれているものが置かれていて、そこにアルファベットの赤いペンキで煙草と書かれている。田舎の煙草屋には珍しくハバナ産の葉巻なども出店の後ろの棚に備えられていたりする。そこに七十くらいの老婆がちょこんと座って店番をしているのだ。
 しかし光太郎がその旅籠屋に興味を持ったのは異国情緒を醸し出すハバナの葉巻のパッケージからではない。江戸時代から続く旅籠やの店構えからでもない。煙草屋のショーウインドーの上にけやきを彫って作った布袋の像があったからだ。煙草を買いに来る客の店番のようにちょこんとその布袋の像がのっていた。その後ろに老婆が座っていた。さらに老婆の後ろの方には同じような布袋の像が何体も棚の中にしまわれて街道の方をみている。その布袋の像が江戸時代の奇僧として知られる宗源禅師が彫った布袋だと云うことを光太郎は知っていた。宗源禅師は日蓮宗の鋸南にある妙本寺に数年に渡って投宿したことが記録として残っている。そのとき仏像を彫らずに七福神のうちでも布袋を数十体彫ったと伝えられている。光太郎はその布袋を一目見たときそれが宗源禅師のそれだと云うことを一目見て直感した。そしてつくづくとその布袋を煙草も買わずに見ていると中からこの家の主人が出て来たのである。
「わかりますか」
主人は外に出てくると開口一番そう言った。「宗源禅師の布袋ですね」
「そうです」
頭のすっかりとはげ上がった六十がらみの主人は内心喜びを隠せない表情で言った。自分の作った盆栽を褒められて喜ぶ人間の感情と同じかも知れない。それから主人は布袋の飾られている棚のところに光太郎を上げてお茶まで出してくれた。薄暗い棚の中でいくつも並んでいる布袋の像が瞳のない目をこちらに向けて微笑んでいた。主人はそれを手に入れた履歴を話した。光太郎の見たその布袋は見れば見るほど見事であった。主人がその講釈をしているあいだ光太郎はただ黙って聞いているだけであった。その間ふつうの人間ならそんな布袋の彫り物に興味を持つはずもないのに光太郎がなぜその布袋が特別なものかわかったかと云う点については主人はまったくの興味も持っていないようだった。そのことが却って気楽でもあったし、光太郎にとっては救われる思いもした。この家に上がるとき光太郎は一瞬躊躇したがそれは自分の過去の一端でも他人とかかわるときにつまびらかにしなければならないかも知れないと云うおそれがよぎったからだった。光太郎の過去と云うものはあからさまに人に語れるような春の日の中で微笑んでいるようなものではなかった。この家の主人は光太郎の過去を一切詮索しなかった。光太郎は自分の住まいが弘法池の端にあると云うことだけを教えたのだ。その家がここらへんで一番大きな地主が建てたものだと云うことは知っているらしかった。したがって光太郎の家族構成のことなどこの主人が知るわけもなかったのだが、それから数週間後にこの主人は光太郎の妻のことを知るのである。だいたい半分は老婆が煙草屋の店番につき、この主人が残りの半分を店番についていたのだが、たまたま、飯田かおりと並んで歩いているときこの店の主人のめざとい目にとまった。煙草屋の店の中から「三輪田さん」と声をかけられた。そこで光太郎は妻とともに煙草屋の方を振り向いたのだ。
幼児用の玩具を買うことをあきらめてその煙草屋の前に行くと光太郎はふたたび声をかけられた。例の主人だった。はげた頭が斜めに煙草屋のショーウィンドーの外に飛び出した。
「三輪田さん、お茶を飲んでいきませんか」「ええ」
光太郎は多少迷惑な表情をしたが主人はそんなことにおかまいなかった。
「上がらなくてもいいんです。靴を脱がなくても」
主人は手招きまでしている。
光太郎は無理矢理その旅籠屋の中に引き込まれた。昔の旅籠屋だったので上がり框は立派だった。昔の旅人はそこで草鞋のひもをほどいたのだろう。長年のすすとそれを雑巾掛けしたあとで黒光りしている。
「靴を脱ぐのは面倒でしょう。いい漬け物が出来たんですよ。今持って来ますから」
主人は上がり框に座布団を敷くとそこに光太郎を座らせた。光太郎は仕方ないのでその座布団に座ったが、主人から布袋に類した話しを聞きたい気もあった。やがて主人はお茶と自慢の漬け物を持って光太郎のところにやって来て光太郎のすわっている座布団の横に置いた。
「これがけっこういけるんですよ」
旅籠屋をやっている時代からこの家では漬け物を作っているらしかった。昔もこの漬け物をここに泊まった客に出したのかも知れない。主人は割り箸をさいて光太郎に渡した。「一つ、賞味してみてください」
光太郎は漬け物を一つ取って口の中に入れた。光太郎がその漬け物の一切れを口の中に放り込むことが主人が話し出す合図のようだった。
「この前、三輪田さんの奥さんを始めて知りましよ。一緒によくお出かけになられるんですか。きれいな人ですね」
「いや、そんなことはないですよ」
主人の口調にはいやらしい響きはなかった。「この前、駅で奥さんを見かけましたよ」
ここから一番近い、ここの住民が使う駅は文字通り田舎の駅だった。駅には二つの線路が走っている。駅舎の前には手動で線路のポイントを切り替える切り替え器のレバーが並んでいる。駅員はふたりしかいない。ここに停まる列車のドアは自動では開かなかった。停車した列車の外側にスイッチが附いていて乗客がいれば開く仕組みになっている。しかし朝の通勤の時間には駅のホームは人でいっぱいになる。電車は一時間に二本しかやって来ない。
「わたしもたまたま列車に乗ろうと思ってホームにいたんですよ。そうしたら三輪田さんの奥さんもホームの真ん中あたりにいたんです。奥さんの方は私には気付かないようでしたが、もちろん一度しか会っていないので気付かないのが当然なんですが、奥さんはどこかに行くみたいだったんですね。わたしは奥さんに挨拶をしようかどうしようかと思っていたんですけど、奥さんの後ろ姿をじっと見ている人間がいて話しかけるのをやめてしまったんです。その奥さんをじっと見ていたのが学生で遠くから見ていてもその姿は少し異常でしたよ。まるで何かに取り憑かれているみたいでした」
主人の話には飯田かおりが美人だから気をつけろと云うニュアンスがあった。光太郎はその学生がどんな人間なのかわからなかったが薄気味悪いものを感じた。
 もと来た道を戻って光太郎が自分の家に戻ると飯田かおりは食事の支度をして待っていた。光太郎が弘法池でつり上げたウナギもぶつ切りにして焼かれていた。うなぎの蒲焼きなどはかなり洗練された料理法でそもそもうなぎを開くなどと云う高度な技術は素人ではおよびもつかないもので、地方ではぶつ切りにしてあぶり焼きにしていたに違いない。居間にひろげた卓の上に食事の支度はなされていた。
「川端童心舎で玩具を買って来たの」
「いいや、あまり気に入ったものがないから買って来なかった」
「そう」
飯田かおりの口調には期待も無関心もどちらの調子もなかった。光太郎は駅のホームで飯田かおりのことを異常とも云える調子で見つめていた学生がいたことを言おうかどうか迷った。主人は飯田かおりが美人だと言ったときその言葉を否定したが美人ではないが男を引きつける何かを持っていることは否定しようがなかった。そのために光太郎自身も飯田かおりと結婚したからだった。
「あまり遅くなったら外を出歩かない方がいいよ」
「どうして」
「田舎だからさ」
「田舎の方が安全なんじゃないの」
「ときと場合によるよ」
光太郎はこんな田舎では飯田かおりほどきれいな女はいないと言おうと思ったがなぜそんなことを言うのか聞かれたらなんと説明していいのかわからないので黙っていた。それになぜこんなに不安な感情に襲われるのか光太郎自身にもその理由がわからなかった。飯田かおりは自分の妻であるがそれでいていつか自分から離れていくのではないかと云う漠然とした不安がときとして心の片隅に浮かんでくることがあった。飯田かおりが自分からいなくなればもうすでに自分にはなにも残されていないと云う思いもあった。かすかな希望と幸福の領域に結びつく細い糸のような気がするのだった。
「昔は裏の池ですっぽんも捕れたらしいよ」
光太郎は話題を変えた。
「すっぽんが捕れたらどうする」
「いやだわ。すっぽんなんて気持ちが悪い」
「すっぽんが捕れたら料理屋に売るさ」
「あなたのあんな簡単なつり竿ですっぽんなんてつれるの」
「さあ」
「すっぽんって人に噛みついたら指ぐらいくいちぎっちゃうと云うじゃない。こわいわね」
「こわいさ」
「わたしむかしから亀ってなんかきらいなのよね。ふつうの亀だったら黒い色をしているからまだいいんだけど、すっぽんってなんで白っぽい色をしているんでしょう」
「さあ、なぜかな」
ふたりの会話はいっこうに進展しなかった。ふたりはお膳を向かい合わせに会話している。膳の上には裏の池で光太郎がつり上げて来たうなぎがのっている。光太郎は自分が左手で持った茶碗の中の御飯を右手に持ったはしでしきりに口の中に運んだ。その様子は表面的にはほとんど平穏と安寧におおわれているようにみえる。世の中のすべての争いも困難もないようにみえる。
「さっき、すっぽんも捕れたらしいってあなたは言ったわよね。あの池にはすっぽんが住んでいるわよ」
飯田かおりはうなぎをはしの先で一切れつまみながら光太郎の目を見つめた。光太郎が話しにのって来るかためしているようだった。
「裏庭で洗濯物を干していたらね。池の方で誰かがじっとこちらを見ているような気がするのよ。こわくてそっちの方を見たら水の上から頭だけだしてわたしのことをじっと見ているのよ。あのきせるの吸い口みたいなものが水の上に出ているのよ。そのきせるの根本の方にはふたつの目玉がついてじっとこちらの方を見ているんですからね」
「じゃあ、すっぽんもあの池の中には住んでいるんだ」
「そうよ。でも庭の方に上がってくるかしら。洗濯をしていたら上がって来て足もとにいたりしたなんてことになったらいやだわ」
「地面の上には上がって来ないだろう。飯田かおりはこわがりだな」
光太郎がただ黙々と飯を口に運んでいるのをやめて表情をくずしたことに飯田かおりは満足しているようだった。
「すっぽんが今もあの池で捕れると云うことは昔はあの料理屋さんでもすっぽん料理を出していたのかしら」
「あの料理屋さんって」
「この家を造って売ってくれた地主さんが住んでいるあの家のことよ」
「昔はずいぶんと流行った料理屋だったらしいよ。参勤交代で江戸に上がって来る大名があの料理屋で食事をしたらしいよ。それも江戸時代の末期のことらしいけど、伊達政宗の何代かあとのお殿様もあそこで食事をしたんだって。旅の疲れを癒すためにすっぽんを食べたかも知れない」
「なんか、おかしいわ。お殿様がすっぽんを食べている図なんて」
飯田かおりは茶碗を持ったまま笑った。飯田かおりの視野の中には光太郎しか見えていなかった。そして光太郎の視野の中にも飯田かおりしか見えていなかった。その視野の範囲が空中の中で立体的に円錐として目に見えるならお互いから出ているその円錐はお互いの姿をぎりぎりの中で含んでいるのではないだろうか。しかしこうして表面的には幸福に包まれている夫婦のようだったが光太郎の心の中にはある抑圧された不安が隠されていた。道を歩いているときでも通りゆく人の後ろ姿からなにものかを連想したり、列車に乗っていて商店の上の看板から何かの啓示を読みとったりするのだった。そのたびに光太郎は自分の思い過ごしをいましめようとするのだがその日一日そのことが心の奥底の方に深く沈んで過ぎ去ったできごとが思い出されようとする。そして突然にあるところに来るとそれが突然の扉をしめられたように止まってしまう。巨大な鉄の扉の前でそれをあける方法も知らずにうろうろするばかりだった。
 ふたりの夫婦は食事を終わらせて、飯田かおりは台所の流しで茶碗をかちゃかちゃいわせて洗い物をしている。その音を横で聞きながら光太郎は新聞を居間の畳の上に大きく広げてその上におおいかぶさるようにして文字をおっていた。新聞の下の方の死亡欄のところに外国のある喜劇俳優の名前が載っていた。その記事の横にはその俳優の顔写真が載っていた。その顔写真と云うのも世間の人が多く知っている若い頃のものではなく死ぬすぐ前の頃に撮られたような写真だった。
「飯田かおり、****が死んだよ」
「****って」
「イギリスの喜劇俳優だよ」
「そのことが特別な意味があるの」
「むかし****に会ったことがあるんだよ」
飯田光太郎はほんの小学生の頃にそのイギリスの喜劇俳優に会ったことがあった。その頃はもちろん父親も生きていて光太郎の家は経済的に隆盛を極めていたからその俳優が訪日したとき父親につれられてのりでごわごわになったような洋装をさせられて、あやつり人形のように父親に手を引かれて銀座のホテルでおこなわれた歓迎会に行ったことがあったのである。そのとき相手は光太郎の手を握りながらなにかわからない言葉で話しかけて来てにやにやと笑った。そのときの俳優の顔は赤ら顔と云ってもいいようなもので顔にも張りがあり、つやつやしていた。だからその俳優の名前から連想されるものはそのつやつやした肌だったが新聞に載っている顔は白髪頭だった。
「むかし会ったときはもっと油ぎった感じだったんだけどなあ」
「何年前に会ったの」
「うんじゅう年前だよ」
「だったら、白髪頭にでもなるでしょう」
台所に立っている飯田かおりは洗い物も終わっていた。張りのある腰のあたりがゆらゆらとゆれている。自分の手についた滴を払っているらしかった。光太郎が居間にかかっている植物のつるをデザインした針のついている柱時計を見ると六時を少し過ぎていた。
「あっ、もう六時を少し過ぎている。飯田かおり、用意をしないと、今晩は****市民会館にお笑いショーを見に行く予定だったじゃないか」
「あっ、そうだ。忘れていたわ」
飯田かおりはエプロンで濡れていた手を拭うと光太郎が置物の蝦蟇蛙のように座っていた居間を抜けて右手にあるふたりの寝室の方に入って行った。その寝室の中には鏡台があったからだ。飯田かおりはその鏡台の前に座って化粧を始めた。寝室に抜ける障子は完全に閉められていないので光太郎の座っている位置から飯田かおりが化粧をしているのが見える。さかんにはけのようなものを動かしていた。はけを動かしている手を休めずに飯田かおりは光太郎の方に話しかけた。
「その恰好で行くんじゃないでしょう」
蛙の置物の光太郎は立ち上がると壁にかけられていた少しだけおしゃれな洋服を手にとるとずぼんを脱いで履き替え始めた。ふたりが家の外に出ると外は昼と夜のちょうど中間ぐらいの明るさだった。ここが田舎だと云っても離ればなれについている電柱の上には街路灯がついている。この街のメインストリートからほんの少し離れた場所にあるからそれらがついているのだろう。光太郎の家のあたりがそのぎりぎりの限界かも知れない。光太郎と飯田かおりのふたりは田圃の前にあるまだ舗装されていない道を歩いた。昼間に光太郎が散歩をしたときに見た電柱にはまだ住民に喚起を促すと書かれたびらが張られていた。木造で大きなトタンの板の扉のついている手押し式の消防ポンプのしまわれている倉庫の前を通ると光太郎はそのトタン板の方をちらりと見た。
「この消防ポンプを見たことがあるかい。前に扉が開いていて、それを見たんだけど、ものすごくちゃちなんだよ」
今はそのトタン板の取っ手のところには鎖が通されて開かないようになっている。その鎖も少し錆びていていざ火事が起こったときどうなるのかと光太郎は少し心配になった。
「手押し式の消防ポンプのあんなもので火事が消せるのかなあ」
「それで火事が消せると云うものではないらしいわよ。火事が起きたときに消火活動している人たちに水を浴びせるそうよ。直接、燃えている場所に水をかけると云うのではないんですって」
光太郎は飯田かおりが意外なことを知っているので少し驚いた。しかしその知識をどこで手に入れたのか、飯田かおりに尋ねることはしなかった。
 公民館の建物は小学校と大きな駐車場にはさまれて建っていた。駐車場と云ってもただの空き地を柵で囲んだだけの施設だったが。公民館の施設は敷地にぎりぎりいっぱいに建てられた施設だと云うわけではない。その敷地はまわりの道路より一段高くなっていて周りを大谷石の低い石垣で囲まれていた。敷地の中はところどころ雑草や苔が生えていて石垣になっている積み重なっている大谷石の隙間から生えている雑草が頭を下げている。公民館の建物自身の敷地は全体の四分の一もしめていないだろう。公民館の入り口はゆるいスロープになっていて入り口のところで卓が置かれていて役所の人間がそこに座ってチケットの確認のような仕事をしている。天井の高いところからつるされた蛍光灯が受け付けの人間にしらじらとした光を浴びせていた。光太郎も飯田かおりもともにその役所の人間に面識はなかった。そこで光太郎と飯田かおりのふたりはチケットを係員に渡すと靴を脱いでそこに備え付けのスリッパに履き替えた。一段高くなっているその玄関にはダンボールの箱が置かれていて小豆色のスリッパがたくさん投げ込まれている。公民館の中の木製の床は黒光りしていた。その奥の方に進んでいくと右手の方に大きなドアがついていてドアはあけはなれたままになっている。ふたりはその中に入って行った。座席の皮もあずき色をしていた。座席の骨組みは鋳物で作られていて舞台は九十センチぐらいの高さがあり、舞台の両側には緞帳が束ねられていない状態でだらりと下がっている。ふたりが席についてから十五分ぐらいしてテレビに出ている若手のお笑い芸人、落語家が出て来てそれぞれの持ちねたを披露した。光太郎は椅子の下に折り畳んだ足の膝小僧のさきが前後の椅子にふれたので座席が少し小さいような気がした。そのことを横に座っている飯田かおりに話そうと思ったが飯田かおりのみならずまわりに座っている観客が黙って舞台の方に注がれていてみんな黙っているので話しかけるのをやめた。つぎつぎに若手のお笑い芸人が出て来て身振りをまじえながらおもしろい話しをした。だいたい一時間半ぐらいで演目は終わった。ふたりは公民館を出た。最後の若手の落語家のした話しが抽象的で光太郎のいだいている江戸時代にできた落語と云うイメージにあわなかったので光太郎は最後の話しは比較的最近に出来た話しなんじゃないかと飯田かおりに言うと飯田かおりの方はもっとむかしからその話しを知っているらしく
「なにを言っているの。あれは有名な話しじゃないの。江戸時代に作られた話よ」
と公民館の建物を背景にして言った。消防ポンプのときと同様だった。飯田かおりのほうがなんでもないことを知っているのかも知れないと光太郎は思った。
 この田舎の駅のそばに鉄道の会社が経営しているかまぼこのような形をしたまるで自衛隊の宿舎を大きくしたような食堂とも喫茶店とも云えない施設があった。どういう意図で作られたのかわからないが店の左半分が厨房になっていてその厨房は客席の大きさからすれば異常に大きい。厨房と客席の境には大きなステンレスで出来た配膳台のような台があって、できた料理はそのステンレスの台の上に置かれて、厨房の中のコックが何かを言う、すると白い割烹着と三角巾を頭にかぶったおばさんが二、三人アルミの盆の中にその料理を入れて客のいるテーブルに運ぶ。そのアルミの盆がその台の上と客のいるテーブルのあいだを往き来している。もしかしたらそこは光太郎がこの田舎に引っ越して来る前はこの田舎町に一軒だけあった映画館だったのかも知れない。そう考えればこの建物の不要に大きいことが証明されるのだ。しかしそれは光太郎の自分自身の思いつきに過ぎないし、この町に映画館が一軒もないかどうかと云うことは光太郎は知らなかった。客席の方はと云うとデコラ板の机が客席の方に並べられていて椅子もテーブルも黒い鉄パイプで作られている安物なのだがその数が多いので客が数百人は入ることが出来るだろう。なんでも昔は宿場町で田舎であってもおおいに栄えた町だと云うことだがこんな小さい田舎町にこんな大きな飲食施設がなぜあるのか光太郎にはやはりわからなかった。最初は他の施設だったのを流用したのかも知れない。そこで考えついたその一例と云うのが光太郎が自分で考え出した廃業した映画館だったと云うアイデアなのだがかまぼこ型の外観がその事実を物語っているような気がするのだ。出すものと云えばうどんやそば、カレーライスのようなものだったがプラスッチック製のうぐいす色の高坏のような容器に入れて小豆アイスを出したりしていた。光太郎はときどきそこで小豆アイスを食べることがあった。
「飯田かおり、小豆アイスを食べて行かないか」
経済的には裕福だとは云えないふたりの夫婦だったがそのくらいの余裕はあった。裏町でこっそりと息をひそめてくらしている生活にほんの少しあかりと暖かい風を吹かせるくらいの余裕はである。店の中に入ると厨房の奥の方でコックがさかんに鍋の底を洗っている。ふたりが卓につくと白い割烹着を着たおばさんが注文を取りに来た。
「小豆アイスふたつ」
コップに入った水を置くとおばさんは手に持っていた注文票にその品物を書いて厨房の方に行った。ふたりの座った位置からは厨房が見える。後ろの方は道に面していて道をはさんで向こうの方には大きな食料品店があったがすでに夜になっていたので店は閉まっている。やがてままごとのおもちゃの高坏のような入れ物に入って小豆アイスがふたつ運ばれて来た。いれものの中にはアイスの半球が二個入っている。アイスを食べるとき特有の四角なスコップのような形をしたスプーンが添えられていた。アイスの横にはウエハーがついている。ふたりがアイスにスプーンを突き立てると小豆アイスの中の薄紫色の中にきらりと光るものがあった。小さな氷のつぶが中に入っているらしかった。きっとアイスクリームを作る段階で水の小さなつぶが入って凍ってしまったのかも知れない。
 「失礼でがすが、弘法池のほとりの建て売りに住んでいる方でござんすよね」
四つずつ相対して並んでいる椅子の一つに勝手に味のなくなったたくあんのような老人が椅子を引いて座るとテーブルの上に肘をのせて身体を変なふうにひねってふたりの方を見た。光太郎と飯田かおりは卓の一番はじのところに相対して座っていたので飯田かおりのとなりのとなり、つまりふたつの椅子を離して座ったということである。老人はしなびたうりのような頭をしていて頭には毛が一本もなかった。
「失礼でがすが、わたしは決して怪しいものではないでござんす。弘法池のほとりに住んでいる方ですよね。いくらで家をお買いになすった」
老人はまた同じ質問を繰り返した。
あまりの突然の質問に光太郎も飯田かおりもなにも答えられなかった。光太郎は内心で自分は怪しい物ではないと言う人間こそが怪しいのだとつぶやいた。
「あなたは」
少し迷惑そうな顔をして光太郎はその老人に尋ねた。急に声をかけられて自分の住んでいる家をいくらで買ったかと訊かれればそう答えるしか選択の余地はないだろう。
「あなたたちがあの家を出入りしているのをよく見ていたでござんすよ」
老人はふたりがこの老人をどう見ているのか全く頓着していないようだった。
「あの池のあの地主の前の持ち主でござんすよ」
「前の持ち主と云うと」
飯田かおりは全く黙ってふたりの話しを聞いていたが目には驚いた表情が宿っている。
「あそこに料理屋があるのを知っているでござんすね。今は料理屋ではなく人の住まいになってしまっているでござんすけどね。あの料理屋の主人なんでござんす」
「料理屋と云うと今の地主さんが住んでいるあの建物ですか」
光太郎はあの家の庭にある池の向こう側に見える変なかたちをした松の姿が目に浮かんだ。
「ずいぶんと流行った店でござんしたよ。なにしろ江戸時代から続いていた店でござんしたからね」
「じゃあ、あの店のご主人だったんですか」そこへ白い割烹着を着たまかないのおばさんがアルミ製のお盆を下げたまま、そばにやって来た。
「いやだね。また安さん、ここに来てむかしの話しをしているの。お客さんに迷惑だからやめなさいよ。この人あの千亀亭の主人でね。よく昔話しをするんですよ。もう過ぎた昔だと云うのにね。わたしが子供の頃は本当に千亀亭はよく流行っていたわ。でも安さん、そんな話はやめなさいよ。安さん、自分が悲しくなるだけじゃないかい」
むかしからここに住んでいるらしいおばさんはなかば自分の若い頃の懐かしい映像が思いだされているのかも知れなかった。
「いや、別に迷惑じゃありませんよ」
光太郎はほおっておくとくどくどとしゃべりそうなこの老人があの料理屋の昔の主人だと聞いて興味を引かれて彼の話を少し聞く気持ちになっていた。
「あの料理屋さんは千亀亭と言ったのですか」
光太郎はそんなことも知らなかった。
「あの池でいろんな魚が捕れたのでござんすよ。それで江戸時代から続いているこのへんでは有名な料理屋でござんしたよ。そのいろいろな魚が捕れると云うのもみんなわしのご先祖さんがあの池にいろいろな魚を放したからでござんすよ」
「弘法池と云う名前は弘法大師が開いた池だと云うことを聞きましたが」
「そうですよ。最初は大昔に田圃の水が干上がっちまわないようにと弘法大師がため池を作ったのが最初でござんした」
「大昔と云うとどのくらいむかしのことなんですか」
店の外の方からつむじ風が吹いて来て店の中に貼ってあったポスターのすみをぶるりと揺らした。
「弘法大師さまがここに来たのは平安時代のことでござんしたな」
「弘法大師がこんなところまで来たんですか。ここは関東でしょう。弘法大師はおもに四国あたりでため池を掘ったと聞いていますが」「弘法大師さまはここにも来たんでござんす。あの池の水が涸れないのも弘法大師さまが霊力を持ってあの池の北西にある森の中からわき水をわかせたからでござんすよ」
その話しを聞いていた飯田かおりはその森に興味を持ったのか
「その森の名前はなんと云うんですか」
とふだんは知らない人間とはあまりしゃべらない彼女がしなびたへちまのような老人に話しかけた。
「なんと云う名前か忘れてしまったでござんす。そんなことよりあの地主からいくらで家を買ったでござんすか」
このぶんでいくとあの池のほとりに住んでいる住人のすべてに同じ質問をしているのかも知れない。そんな質問をさえぎることは光太郎には出来たのだが、その老人があの料理屋のむかしの主人であること、その老人がすっかりと落ちぶれてしまって見るのも痛々しいくらい弱っている様子、その一方で自分のむかしの家に対するなみなみならない執念のようなものを感じて老人との対話を断ち切る気にはならなかった。
「わたしがいくらであの家を買ったと聞きたいと云うことは、つまりあなたが不当な売値で自分の料亭を売ったと云うことを意味しているのでしょうか」
「あんた達はあいつに会ったかな」
光太郎も飯田かおりも自分たちの家を売った地主には会ったことがなかった。家の売買の交渉はすべてある人物を介して、と云うよりその人物が取り仕切っておこなわれたのである。その物件を見付けたのも買値を決めたのもである。飯田かおりが横から口を出した。
「会ったことはありませんわ」
「あいつは詐欺師じゃ」
老人は憎々しげにつぶやいた。
「あいつは詐欺師じゃ」
二度目にそうつぶやいた老人のはきすてられた言葉には最初のときのような力はなかった。アルミのお盆を持ったまかないのおばさんはいつものことが始まったと云う調子でもうその場から離れていた。
「詐欺師と云うことはあなたは地主に騙されてあの料亭を取り上げられたと云うことですか。それなら警察にでも裁判所にでも訴えて家を取り戻せばいいじゃないんですか」
「それが出来れば苦労はないわい」

ぶんぶく狸 第二回
それで老人は家の売買においてその地主が不当な利益をあげていることを知ってあらためてその地主が悪者だと云うことを確認して自分の心の落ち着くさきを見付けようとしているのだろうか。
「あいつにわしは騙されたのですじゃ」
「騙されたとはどういうふうにして」
光太郎は目の前に置かれていた小豆アイスを食べ終わっていた。
「あいつに変な女を紹介されたのだ」
そんな言葉の二、三の断片を言われても光太郎にも飯田かおりにも理解出来なかった。
「あいつはいたち柱が欲しいのじゃ」
「いたち柱」
老人の話はますます飛躍した。そして光太郎にはますます理解できなかった。
「わしの家の何代も前の言い伝えじゃ。そもそもあの料理屋が生まれるきっかけは徳川家光公が東北を歴訪するさい、江戸から出て最初の宿としてこの地を選んだことに始まるのじゃ。家光公つまり徳川幕府の怒りを買わないため、地元の殿様は素晴らしい料理屋を建てなければならなかった。そこでこの地の当主はここにいる名人と呼ばれる大工を集めてあの料理屋を建てたのじゃ。しかし最初の設計のときと違ってあの料理屋の柱は一本だけ多かったのじゃ。しかしどの柱が余計な柱なのか大工たちはいくら頭をひねっても分からなかった。そのうちわしの祖先がそこに住み込み料理屋を始めた。しかし毎晩用意した料理の一人分がなくなった。奉公人を調べてもその料理を食べたと云う人間はいなかった。しかし毎晩必ず一人分の料理がなくなるのじゃ。しかしある日こんなことが起こったのじゃ。あの料理屋の中の若夫婦の部屋に生まれたばかりの赤ん坊をひとりで寝かせていたとき、その部屋に火事が起きたのじゃ。赤ん坊が火事で焼き殺されると誰もが思った。みんな絶望した気持でその火事の炎を見ていたのじゃ。すると火事の炎の中からなにかが急に飛び出した。それは赤ん坊をくわえたいたちだった。いたちは赤ん坊を外に置くとまた料理屋の中に飛び込んで行った。外に置かれた赤ん坊は泣き叫んでいたが母親がその赤ん坊を抱き上げた。そこにいたみんなはいたちが火事の炎の中で死んでしまったと思ったのじゃ。しかし夜の空の雲行きはおかしくなった。そして急に滝のような雨が降り始めて料理屋の火事は消えてしまったのだ。それから誰言うこともなく、千亀亭の柱の一本はいたちが姿を変えていると言われるようになった。しかしその何代かあとその言い伝えを知らない嫁が千亀亭に嫁いで来たのじゃ。ある日裏庭でいたちが店の料理をあさるように食っているのを見かけたのじゃ。嫁は怒って犬をつれて来て何日も待ち伏せしていた。そしていたちが店の中の料理を持って来て食っている。嫁は犬を放した。いたちは首のあたりから血を流しながら千亀亭の中に逃げ込んでいった。すると千亀亭の柱のすべてに赤い血のようなしみが出来たのじゃ。それから千亀亭で飯を食った客が食中毒になったり、いろいろな祟りが続いた。それで真言密教をよくする坊主をつれて来て祈祷して柱のしみがなくなると同時に千亀亭にもわざわいがなくなった。それから代々、千亀亭の主人は犬年生まれの女とは交わってはいけないと云う家訓が出来たのじゃ。しかしあいつがわしに犬年生まれの女を紹介したのじゃ」
老人はその話しを何度もしているらしく話によどみはなかった。
 光太郎はふたつ並べた寝床の中でうつぶせになりながら枕元にあるスタンドの明かりで本を読んでいた。隣りの寝床で上を向きながら目をつぶっていた飯田かおりが枕の上に乗っている頭を光太郎の方に向けた。
「まだ、寝ないんですか」
「うん」
「何を調べているの」
「本当に弘法大師が千葉のこんな田舎にやって来たかとうかと云うことを調べているんだ」
「昼間のおじいさんの話を気にしているんですか」
「気にするって、どこを」
「この家を売った地主が因業だと云うこと」
「そんなことではないよ」
「じゃあ」
そう言ったまま、飯田かおりは形の良い鼻を向こうに向けてしまった。
若い頃から光太郎は迷信や伝説と云うものを信じなかった。わからないことがあると何かに落ち着いて取り組むと云うことが出来なかった。すべてのことは割り切っていなければ我慢が出来なかったのである。もちろんそんな若い頃でも自分の思考の限界と云うものはもちろん認めていた。しかし思考の限界内で起こる割り切れないものは認めたことがなかった。そしてその一見不思議なことが起こる現象を筋道をたてて説明しなければいられなかった。しかし最近はそんなせっかちな光太郎の性情はすっかりと影を潜めていたのである。それがなにを意味しているのか光太郎にはさっぱりとわからなかった。調べなければならないことが、わからないことが多すぎるのか、そういった意欲が摩耗してしまったのか、ずっと昔に存在した弘法大師が現在の光太郎の生活にどういうように作用していると云うのだろうか。光太郎はスタンドに照らされている一般向けの歴史解説書を開いてみた。弘法大師のページを見ると次のページにわたっているようなので次のページをめくってみると、もうそこには別の人物のことが書かれている。そこで光太郎はまたページをもとに戻した。
 弘法大師、空海、平安時代の人。讃岐多度郡生まれ。延暦二十三年、最澄とともに入唐、恵果につき密教の奥義を究める。帰国後、真言宗を開き、高野山に金剛峰寺を創立する。のち京都の東寺を密教の根本道場とし、東大寺別当を兼ね、書においては三筆の一人である。
と、とおりいっぺんのことが書かれている。そして解説文の下の方にはたこ入道のような空海の一筆書きのような肖像画が載っている。光太郎はその絵を見て何故だかある相撲取りを思い出した。書かれていることはきわめて簡単だった。たんに一般的なよく知られているすべての歴史上の人物を網羅して書かれている本であるから当然のことと云えば云えた。手元の電気スタンドに照らされたそのページから目を離して妻の飯田かおりの方を見るとふとんを被って向こうを向いている。光太郎には自分が空海のことを調べていることが妻の飯田かおりを傷つけていると云うことがわかった。昼間の小豆アイスをふたりで食べているとき千亀亭のもとの主人が自分たちのテーブルに寄って来ていたち柱などと云うわけのわからない話しをしたとき、その話しの内容のあるくだりに光太郎が興味を持ったと云うことが妻の飯田かおりを傷つける原因になっていると云うことはわかっていた。しかし光太郎は空海が本当に弘法池に来たかどうと云うことを知りたかった。もっとも空海のことを専門に調べている歴史書でもないかぎりそのことは肯定も否定も立証することは出来ないだろう。
 妻の飯田かおりは美人ではなかったが、どことなく男を引きつけて放さない何かを持っていた。そのために飯田光太郎は飯田かおりと結婚したのである。それは神秘的な言葉を使わなければ性的魅力と云ってもいいだろう。いろいろな理由から相手を求める理由があるだろうが、まず性的なものに重点を置くものもいるだろう。そして生活のための同伴者としての資質を重視するものもいる。それにはお互いに信頼しあえるか、価値観が同じと云うことが第一に来る。そこからさらに発展して自分の妻を宗教的に崇拝するものもいる。その宗教的な崇拝のうちにも二種類ある。全くの現世的な利益を求めず、自分の妻をただ崇拝して奉仕する対象だと思い続け、そのように行動するもの。つまり信心の対象だと考えるのである。そしてもう一つが宗教的な崇拝の対象であるが、その妻が自分にどういう現世的な利益を与えてくれるかと云うことをいつも考えているものもいる。つまり世に言う、あげまん、さげまんと妻の分類を行うものである。
 精神年齢による成熟度と云う観点からは性的な魅力によって相手を選んでいると云うのはもっとも若者らしく、本能に近いとも云える。光太郎はある時期ある場所でこれに束縛されて飯田かおりを獲得したのだった。しかし、宗教的理由と現世的利益を自分の中で折り合いをつけている輩からすれば、妻の飯田かおりはさげまんと云えた。飯田かおりと結婚してからの光太郎の生活はあきらかに下降線を辿っていたのである。そのことは妻の飯田かおりも知っていた。だから昼間のいたち柱の伝説の妻をめとらばと云うところに光太郎はひっかかっていると云うことを妻の飯田かおりもわかっていたので向こうを向いてふとんを被ってしまつたのだ。飯田かおりの目は涙でうるんでいたのかも知れない。しかし飯田かおりも知らない体験を光太郎はしていたのだ。そのために世捨て人のように飯田かおりを自分のすべての世界として弘法池のほとりに住んでいなければならなかったのだ。
 自分のとなりに寝ている妻の飯田かおりの丸い姿を見ると、その性的な魅力と自分の運を食いつぶしているのではないかと云う複雑な感情が光太郎の心のある部分をしめた。
「あなた、わたしのことを疫病神だと思っているでしょう」
ふとんに丸まって向こうを向いたまま妻の飯田かおりはつぶやいた。
「そんなことは思っていない」
「だったら、なんで弘法大師のことなんか調べていらっしゃるの」
「昼間、変なじいさんがいたち柱なんて云う変な柱があると云ったからだよ」
「なんで、いたち柱に興味を持ったんですの。千亀亭の変な家訓に興味を持ったからでしょう。千亀亭の人間は特定の年回りの女と結婚すると不幸になると云う」
「そんなことはないよ」
「うそよ」
光太郎はなんと言ったらいいかわからなかった。光太郎は自分の右手に川端童心舎で買ったおもちゃがあることを思い出した。そして右手の方に手を伸ばした。そこには万年たますだれにラッパと管のついたようなおもちゃが置かれていた。ラッパはたますだれの両端についている。光太郎はたますだれの片方の端を持ってすだれの二つの棒を縮めるとたますだれは伸びて云って、飯田かおりのふとんの中にすべり込んだ。これは幼稚園児の使う糸電話の一種でふたつの糸電話の距離をどういうふうにも変えられるおもちゃだった。ラッパの片方は飯田かおりの頭のそばに辿り着いた。
「もしもし、飯田かおりさんですか」
「・・・・・・・」
「今晩は素晴らしいことがありますよ」
「・・・・・・・・・」
「ラジオを聞いていたら、知ったことなんですが、ロシアが飛ばした人工衛星があと十五分でこの家の頭上を通過します」
「それ、本当」
飯田かおりは枕の上に載せた頭をこちらに向けた。飯田かおりの睫毛のあたりはやはり濡れているようだった。
「本当だよ」
光太郎の家のはるか上空をロシアが飛ばした気象衛星が一周り半、地球の上を回転してだいたい光太郎の家の真上を十五分後に通過すると云うことは事実だった。
「なんでそんなものがわたしの家の上空を飛ぶんですか」
「気象衛星だよ。気象観測をするんだよ」
「でもなぜ」
「大きな国は農業なんかでつねに自分の国の気象条件を正確に把握しておかなければならないんだ。それでその情報をもとに計画的に農作物なんかを作らなければならないんだ。ちょうど昨日の夜明け方にロシアがロケットを飛ばして衛星を打ち上げたんだ」
「あと十五分ぐらいでわたしたちの家の頭上に来るんですか」
この平屋建ての家のはるか上空、宇宙空間の中に人工衛星が飛んでいると云うことは飯田かおりにとっても不思議な気分がしたのかも知れない。飯田かおりの頭の中には自分の家の屋根と人工衛星の奇妙な形が同時に存在しているらしかった。
「だから」
「だから、なんですか」
「飯田かおりが変なことにこだわって変な顔をしていたら人工衛星から見たら、人工衛星が変な気持ちになるよ」
「へえ、人工衛星がわたしの家の上を通るんだ。こう話している間にも時間が経っていくから、あと十分くらいで真上に来るかな」
「来るさ。明日は休みだから気持ち好い気分で寝ようね。飯田かおり」
「うん」
 次の日は光太郎の休みの日だった。廊下を突き当たったところにある洗面所に立って隅のところの水銀が少しはげている鏡に自分の顔を映してみるとすっきりした顔をしている。昨晩はぐっすりと寝られたようだった。白い陶器の洗面台の左隅にふせられているガラスのコップをとって水を注ぐとコップの中には透明な水と空気の粟粒が入っていった。そこに少し毛先のなまったはぶらしをつけてそのさきに歯磨き粉をつけた。それを口の中に入れる。歯ブラシを歯につけて動かすと歯のぬめりがとれた。縁側の向こうにいつも見える大きく滑らかな稜線を見せている山、筑波山が見える。遠くから朝刊を配達する五十シーシーのオートバイの音が聞こえる。家の前の舗装されていない道を走ってくるようだった。玄関の引き戸をがらがらと開ける音がして新聞が玄関に投げ込まれた音が聞こえた。
 歯を磨いて冷たい水に顔をさらしてタオルで顔をふくと飯田かおりが卓を出している六畳の部屋から呼ぶ声が聞こえた。その部屋は台所につながっていて台所で作った料理を卓の上に運ぶようになっていた。卓の上には御飯とみそ汁が載っていてた。醤油の瓶と海苔、小皿も用意されていた。光太郎が卓の前に座ると飯田かおりは玄関に投げ込まれた朝刊を取りに行っていた。
「見て、見て」
飯田かおりが女子学生のような声をあげながら新聞を持って廊下を小走りに走って来る。
「飯田かおり、どうしたの」
「光太郎さん、見てよ」
そう言って飯田かおりは光太郎にこの千葉県の特定の地域にしか出されていない新聞を箸を持っている光太郎に渡して自分は光太郎の横に平行に座ってその新聞の内容をのぞき見ている。
「見て、見て」
そう言って飯田かおりは新聞を開いてその地方版のその地方のことだけを取り扱っている部分を指さした。その記事の見出しは驚くべきものだった。
 れんげ平にユーフォー飛着か。
昨晩の十一時半にロシアの飛ばした気象衛星がこの町の頭上を通過したが、と同時に思いがけない訪問者がこの町にやって来た模様である。それがロシアの飛ばした人工衛星となんらかの関係があるのかどうかはわからない。しかし複数の目撃者の証言によると同時刻にこの町の南西に位置しているれんげ平に同時刻、光る飛行物体が飛来して来て着陸、およそ十分後にまた空中に上昇して北東の方向に飛び去った複数の付近の住民が証言している。これが未確認飛行物体か。
「ほら、すごいじゃない。私たちが糸電話で話しているとき、ユーフォーがこの町に飛んで来ているのよ」
「本当かな」
「でも新聞にはそう書いてあるじゃない」
光太郎はその新聞の日付を確認した。しかし四月一日にはなっていなかった。そして妻の飯田かおりがこんな記事でなぜ喜んでいるのかも理解出来なかった。時代を飛び越えるような画期的な新たな推進装置や空中浮遊機構が開発されたとしても光太郎の生活には直接にはなんの影響ももたらさない気がしたからだ。それよりもそんなことで喜んでいる妻の顔を見ているほうがおもしろかった。
その記事を読んでいる光太郎の横で飯田かおりは言った。
「ねえ、光太郎さん、今日はれんげ平に行ったらよろしいんじゃないでしょうか」
妻の口調は学校を卒業していない女子学生のようだった。光太郎はしばらく考えながらそうするかと言った。少しその記事に興味もあったからである。光太郎はここに引っ越して来てから休みになるとこの町のいろいろな場所を歩くことを趣味にしている。別にとりたてて奇岩絶景があると云う景色ではなかったが、まだここに越して来てからそれほどの年月も経っていなかったので休みのごとに訪れる景色は新鮮に映った。特別とりたててどういうこともない景色なのだが、さいふの底の薄い身にはちょうど好い道楽だったのかも知れない。もし光太郎にもっと経済的余裕があったのなら、この片田舎から銀座にでも乗り出して一貫何千円もする寿司を食ったり、大きなクルーザーを買って千葉の海を釣りをするために乗り出したかも知れない。しかしそう考えたときにある悲しみとも不安とも知れない感情がわき起こってくるのだった。それは現実問題としてさいふの中に金がないと云う不安や悲しみとも違っているような気もするのだった。そういった感情が子供のときから光太郎にあったとは考えられない。子供のときはいつも新しい太陽が朝になれば上がってくるし、どこへ行ってもふかふかの御飯が盛られたお膳はついてまわってくると思っていた。そして今となって太陽は上がって来ることを確認したし、お膳を探し出すやりくりはなんとかたっている。しかし、しかしである。その太陽はあの鮮やかな色を失っていたし、ふかふかの御飯に味や香りを意識せずに口から胃の中に飲み込むがむしゃらな食欲もなくなっていたのだ。もしかしたら歴史を変えるような大きな事件に係わっていたり、人間の生活を少しでも変えるような発見をすればこの気持ちは変わっているかも知れない。しかしそんなことの出来るのも遠い昔のことのような気がするのだ。さいふの底が薄いと云うこと、それは一方にはすべての空虚さにもつながっている。有ってもいい場所に何もないと云う感覚だった。そしてもう一つが自分の周囲をある障壁が囲んでいてそこから飛び出すことが出来ないと云う圧迫感だった。それから逃れるためにこうやって限られた金の中で近所を散歩したり、妻の飯田かおりの笑顔の中になぐさみを求めたりしているのかも知れない。しかしこの自虐的な心情の中にねぐらを見付けている光太郎の内面を飯田かおりはどこまで理解しているのだろうか。しかも飯田かおりの知らない自分の過去もある。
玄関を出て散歩に行こうとしている光太郎を飯田かおりは追って来た。飯田かおりはこの遠足で光太郎の昼飯に塩と胡麻だけの簡単なむすび飯を握って横にたくわんを三切れほど添えたものを竹のこおりの弁当入れに入れて光太郎に持たせた。
「行ってらっしゃい」
「行って来るよ」
光太郎が玄関の引き戸を開けると向こうの方からきゃはきゃはと笑う笑い声が聞こえる。揃いの帽子を被った六才と十歳の姉妹らしい女の子が向こうから歩いて来てぺこりと頭を下げた。ふたりとも可愛らしい女の子だったが森の中に住む下品な妖精のような感じがした。自分の座っている前に果物や木の実をたくさん置いてあぐらを組みながらむさぼり食っているイメージである。光太郎も思わず頭をぺこりと下げた。そのふたりが通り過ぎてから光太郎は飯田かおりの方を振り返って聞いた。
「飯田かおり、あの僕らにぺこりと挨拶をしたのは誰なんだい」
「あら、光太郎さん、知らなかったの。あれがわたしたちにこの家を売ってくれた地主の下平さんのふたりの娘さんじゃないの」
下平と云うのは光太郎の住んでいる家を建て、千亀亭と弘法池を買いとり、千亀亭をだまし取ったともとの千亀亭の主人が酔っぱらいながら話したその人物である。光太郎が道に出て振り返るとそのふたりの娘はすたすたと向こうの方に行ってしまっていた。
 れんげ平はこの町の南西にあった。その名前のとおり春になるとそこにはれんげの花が咲き誇った。しかしただのれんげ畑ではなかった。どういう自然現象かわからなかったがれんげの花のあいだあいだに地中から飛び出した一メートルほどの高さの蟻塚のようなものが数え切れないほど立っており、それは石灰質で出来ていてその蟻塚それぞれに野球のボールほどの穴がたくさん開いていてそれが地下に続いているのだった。
 光太郎の家からそのれんげ平までは歩いて一時間ほどかかった。春の光と田舎のにおいにつつまれて光太郎は歩いた。その道の途中には壊れて動かなくなった大八車がうち捨てられていた。
 光太郎がそのれんげ平に着くと十時になっていた。青空にはひばりが弧を描いている。その弧がもっと大きくて後ろから飛行機雲が流れていたら光太郎はそれをジェット機だと思ったかも知れない。れんげの花のあいだから子供たちの歓声が聞こえ、色とりどりの運動会で使うような帽子がれんげの花のあいだに見え隠れした。ゴムボウルを投げている子供、鬼ごっこをしている子供といろいろだった。光太郎はその蟻塚のひとつの根本のところに腰をおろして一時間歩いて来た休息をとっていた。すると笛をピーと吹く音が聞こえて
「みなさん集まって下さい」
と子供たちの中で一人だけ背の高い大人が声を発した。来ているのは小学校の低学年の子供たちだったからその大人は子供たちを引率してきた先生だったに違いない。その声に散らばっていた子供たちはひとつの場所に集まって来た。たくさんの子供たちみんなに聞こえるようにつづみのようなかたちをしたメガホンでその教師は話していたから聞く気もなかった光太郎の耳にもその声は聞こえた。
「みなさん、今日の遠足はなぜここに来たかわかりますか」
すると元気のよい生徒が手を挙げて答えた。「はい、先生。ここに昨日、ユーフォーが降り立ったとお父ちゃんが言っていました。そのユーフォーを捜すためです」
「ユーフォーがここに降り立ったと云う記事は先生も知っています。雨田くんはそれをお父さんから聞きましたか。でもそのために来たのではありません」
「先生、ではなんでここに遠足に来たんですか」
雨田と呼ばれる生徒の横に座っていた生徒が問いかけた。
「みなさんがこの町の歴史を勉強するためです」
「先生、じゃあ、ここがこの町の歴史に重要な場所だと言うんですか」
このクラスの学級委員が尋ねた。
「うちの父ちゃんは役場の許可を貰っているからあと一週間もするとここに牛を連れて入って来るんだよ。れんげ草は花が落ちると牛のよい餌になるんだ」
ここのそばで牛を飼っているうちの子供が答えた。
「ここに来るのはユーフォーを捜すためでも牛の餌を集めるためでもありませんよ。この町の歴史を勉強するためです」
と言って教師はれんげの花のあいだに立っている無数の蟻塚を眺めた。
「この蟻塚がどんなものだかわかりますか」
すると子供達は一斉に声を揃えて答えた。
「わかりません」
「これは蟻塚に見えますが蟻が建てたものではありません」
その話しを聞いていた光太郎はでは誰が建てたんだと心の中でつぶやいた。
「実はこの蟻塚のように見えるものはもぐらが建てたんです。この地中にはもぐら神と云うものがいてもぐら神がもぐらに命令して建てさせたのです。この町がまだ宿場町だった頃に悪い代官がやって来ました。代官と云うものがなんだかみなさんにはわからないかも知れません。徳川幕府の下で許可されて大名と云うさむらいがそれぞれの地方を政治的、経済的に治めていました。大名からさらに命令されて大名の部下の代官と云うものが税金を取り立てたり、いろいろなその地方の政治行政司法の実務を取り扱っていました。だから公正な人間がその役をやればいいのですが悪代官がこの町にやって来ました。まだその頃はこの町のほとんど多くの住民は田圃や畑を耕したり、牛や馬を飼って生活していたのです。みんなは年貢と呼ばれる税金を払っていました。しかし、悪代官は私服を肥やすために不当に多くの税金を取りました。そこでお百姓さんたちはもぐら神に頼みました。するともぐら神はこのれんげ平にもぐらたちに命令してこの蟻塚のようなものを建てさせました。そして住民たちを集めてゴムボールより小さくしてしまったのです。そしてこの蟻塚のそれぞれは地下のもぐら王国につながっていたのです。そこでこの町の住民は一斉に地下の中に潜ってしまったのです。悪代官は税金が取れなくなって大名に切腹を命じられて死んでしまったのです。だからこの蟻塚のいくつもある穴のどれかは地下のもぐら王国に繋がっているんです」
その話しを聞きながら光太郎は苦笑いをした。それでも幼い小学生たちは教師の話を本当だと思って聞いている。光太郎が苦笑いをしたわけと云うのが彼が同じ年頃の頃、親戚の大人からある木の枝を折って机の引きだしの中に入れて置き、一週間そのままにしておくとチョコレートに変わると言われたのを本気にしていてそのとおりにしていたことがあったからだ。もちろんそれが作り話だと云うことはあきらかでその木の枝はチョコレートには変わらなかった。それでもやはり小学生たちは教師の話を信じているようにじっと教師の顔を瞳を大きくして見つめている。
「これからお昼の時間です。みんなお弁当を持って来ましたね。十二時半までお弁当の時間です。お弁当を食べ終わったら自由時間です。三時まで自由時間ですからみんな自由にここで遊んでください」
そう言われて小学生たちは自分のリュクが置かれている場所までちりぢりに離れて行った。光太郎も飯田かおりから持たされた竹の行李のにぎりめしがあることを思い出してそれを取り出してぱくついていた。そのうち光太郎は春の日差しがぽかぽかと暖かく居眠りを始めた。この小学生の集団は光太郎がそこにいることもまったく問題にしていないように光太郎の前や後ろを走り抜けながら遊んでいる。
 光太郎が春の日差しの中で居眠りをしていたあいだに数時間が経ったらしかった。目が覚めると小学生たちがやたら騒いでいる。
「孝典ちゃん」
「孝典くん」
つれの教師も大きな声を立てて受け持ちの生徒の名前を呼んでいる。どうやら引率してきた生徒の一人が行方不明になってしまったようだった。れんげの花のあいだを生徒や教師が動き回っている。光太郎もこの事態に少し心配になった。このれんげ平のそばには小さな山があって切り立った崖のようなものがあったのである。光太郎はその教師のそばに行った。
「どうかしたのですか」
「受け持ちの生徒のひとりが見つからないのです」
「わたしも捜しましょう」
「お願いします。孝典くんと言う名前なんです」
光太郎が「孝典くん」と叫んで走りだそうとした矢先だった。
「先生、先生、孝典くんが見つかりました」生徒たちが三、四人、教師のところに走り寄って来て口々に叫んだ。
「こっちだよ。こっちだよ」
生徒たちが教師の手を引く。教師は生徒たちに先導されて走り出した。光太郎もそのあとをついて行くことにした。不吉なことだったが光太郎の頭の中には子供の死体の映像が浮かんだ。光太郎の想像ではこの近所にある崖から転落して子供は死んでいるはずだった。しかし事実は違った。小学生たちが囲んでいる場所はやはりれんげ平の中だった。無数にある蟻塚のひとつのまわりを小学生たちが取り囲んでいる。教師や光太郎たちがその場所に行くと蟻塚の根もとでひとりの小学生が眠り込んでいる。教師はその小学生のそばにかがみ込むと声をかけた。ここでも光太郎はこの小学生が不慮の事故で死んでいるのではないかと思った。
「孝典くん」
少し間をおいて教師は小学生に話しかけた。「孝典くん」
すると小学生は目を開けた。
「先生、ここに座っていたら、穴の中から暖かい風が吹いて来て、白いひげだらけのこびとのおじいさんが出て来て手招きをするんです。それから眠たくなって寝てしまったんです」
するとそこにいた小学生たちはもちろん教師もその小学生を囲んで一斉に手を叩いた。
「おめでとう、孝典くん、君が会ったのはもぐら神です。ここはもぐら王国の入り口です」
光太郎はばかばかしくなった。たとえそこが本当にもぐら王国の入り口だとしても小学生にはその穴の中に入って調べる方法はないからだ。しかしその小学生が死んでいるとどうして思ったのだろうか。もしかしたらそういう否定的な結論を自分は望んでいたのかも知れないと思った。小学生が仰向けに死んでいる映像がまざまざと浮かんだのだ。小学生が死ぬことを望んでいたのだろうか。さもなければ死と云うものをそれ自身を考えることを自分自身抑圧していたので、その反動として無意識として死と云うものが現実味を帯びた映像として浮かんだのかも知れないと思った。光太郎には微かな罪の意識が浮かんだ。幸福そうな小学生たちのすがたを見て嫉妬したのだろうか。それとも死と云う言葉に何かの魔力があるのだろうか。光太郎の過去には封印して置かなければならない死と云うものが置き去りにされていた。その死の原因も光太郎には少しもわからなかった。れんげ畑の中の蟻塚と云うものも見ようによっては墓石に見えないこともない。そこでいつも気になっていながら実行していない責務が光太郎の頭の中で束縛をされずに浮かんで来た。この町に引っ越して来てから一度も行っていなかった。
***************************弐**************************
 

ぶんぶく狸 第三回
都内の郊外に向かう私鉄のある駅で光太郎は電車を降りた。電車を降りるとまず真っ先に目に飛び込んで来たのはホームの外と内に面している境界線に立っている温泉の看板だった。この電車をどこまでも郊外の方に向かって乗って行くと山間にあるその温泉に行くのだろうか。その看板を横目に見ながら光太郎は改札口へと向かった。駅から外に出るとほこりにまみれた道を光太郎は歩いた。駅から出たところには喫茶店と洋食屋がそれぞれ一軒しかなかった。駅からは南と北のふたつの出口があって南の方はもっと流行っていたが光太郎の出た北口はその二軒しか店はなかった。その洋食屋と喫茶店のあいだの道を歩いて行くと道はさらに狭まり、両脇はコンクリートで出来た塀になっている。そのコンクリートで出来た細道は途中で壁にぶつかり曲がるようになっている。そこいらまで来るともう地面はもう砂利と泥だけの道になっている。曲がったところから両脇は生け垣になっていて生け垣の根もとのところはほこりを被っている。その生け垣の途切れたところに白い看板が立てかけられていて植木見本市と書かれていてその横に小さく植木職人組合と書かれていた。光太郎がその生け垣の中に入ると植木がいろいろなかたちに刈り込まれていた。象のかたちをしたものや、うさぎのかたちをしたもの、子供向けのテレビ番組の主人公を題材にしたものもある。その植木の根もとの地面には小さな看板がさされていてそれが何を表しているか書かれていた。植木職人たちが自分たちのわざを世間に示すためにやっている催しらしかった。しかし平日だと云うこともあり、誰もそれを見に来ているものはいなかった。その植木の少しうしろの方には植木に隠れるようにして名前もわからないような石仏が苔むして少し斜めになりながら立っている。その石仏は母親の足の隙間から向こう側を見ているような幼い子どものようだった。その彫刻のように刈り込まれた植木のあいだを光太郎は足早に通り過ぎた。そこを通り過ぎると錆び付いて開いたままになっている鉄の門のついている入り口があり、その入り口の左側には上野動物園の入り口にあるような大理石で出来たような小さな守衛の寄宿所のようなものがあった。今はなくなってしまったのだが上野の博物館の前の方に上野動物公園駅と云う駅の出入り口があったがその四角い箱のような基底部分にピラミッドをのせたようなかたちをしていた。その守衛の寄宿所のまわりすべてに、手をかざす火鉢が地中に埋められていてその中には水が張られていて金魚藻が入れられ、その中を色鮮やかな金魚が泳ぎまわっている。オリーブグリーンの金魚藻のあいだを赤い金魚が通り抜けしている。火鉢の碧の色とよい対照をなしていた。
 「だからさ、一口のらないかい。前の銀行をやめたときだいぶ貰ったそうじゃないかい。のって間違いはないよ。決して損はしないからさ。時代がこんな時代じゃないかい。自分で資産を増やすことを考えないとね。なにね、川崎に住んでいる甥っ子なんだけど、親戚の中でもこいつが一番出来がよくてね。仙台の方に単身赴任して研究所に勤めていたんだけど、むかしの回転式の洗濯機と云うのがあったじゃないかい。あれと似たようなものなんだけど特殊な金属を使ってね。もちろん原理があの洗濯機に似ていると云うだけだよ。大きさもずっと小さいし、見た目もぜんぜん違うんだよ。何よりもその特殊な金属を見付けたのが重要なことだと言っていたよ。それを仙台にいたときに発見したと言っていたよ。それを使うとマイナスイオンとプラスイオンの結合する速度と確率が五倍になると云っているんだよ。日本国中でそんな反応タンクを持っている工場がどのくらいあると思う。そのことを考えたら大変な利益になるよ。今度その甥っ子が独立することになってね。その経営が軌道にのったら大変な利益になるよ。あんただってたとえ一割の配当を貰うとしてもどのくらいなものになるか」
一人の老人はアルマイトのやかんからついだお茶を飲みながら、電気こんろのそばでするめいかをあぶっている老人に話しかけた。
「あんただってだいぶ前の勤めをやめるとき貰ったんだろ」
いかをあぶっている老人は後ろを振り返りながら言った。彼にはその反応タンクよりも電気ストーブの熱で縮れていくするめの方が重大な問題だった。椅子の端に腰をのせて身をかがめながら電気ストーブの方を見ていた。
「わしの場合は違うわな。会社をたたんだんだからさ」
瀬戸物の湯飲みの中に半分ほど残ったお茶を老人はぐびりと飲んだ。この上野動物園の守衛の宿直所のような場所は外観も中身も骨董的な感じがあった。流しは昔の豆腐屋のようにタイルが貼られていた。水道の蛇口は銀色のメッキがされていず真鍮特有のくすんだ金色をしている。
「たたんだと云ってもだいぶ貰ったんだろう。大番頭のようなことをやっていたと言っていたじゃないか」
いつも昔の自慢話を聞かされて辟易しているもう一方の老人が嫌味を少しとり混ぜて言った。
「たいして貰っていないさ。なにしろつぶれたんだからさ」
片方の老人が少し怒りながら答えた。
片方の老人から少しも金を引き出せないとこの老人は思ったのかも知れない。または本当はそんなことを少しも信じていなかったのだが話しのたねとして言っていたのか、もしくは自分の甥っ子の自慢話しをしたかつたのかも知れない。そのとき出入り口の鉄のドアをノックする音が聞こえた。
「久しぶり」
「若殿」
資金の提供を片方の老人にねだられていた老人は驚いて入り口の方を見た。その口調には喜びが含まれていたが本当に内心から喜んでいるかどうかは片方の老人にはわからなかった。片方の老人も入って来た中途半端に若い男の顔を見た。
「若殿はやめてくれよ。ばか殿じゃないんだからさ」
「結婚してから来ないんでどうしたのかと思っていたんですよ。もう一年にもなりますよ」もうひとりの老人の方も光太郎に軽く会釈をした。
「柳田、ここでしゃべっている暇はないんだ。お墓の掃除に来たんだから、水桶なんかを貸してくれ」
柳田と呼ばれる老人は光太郎といっしょにそこを出ると裏に置いてある水桶とひしゃくを渡した。
「いつもきれいに掃除してあるのできれいになっていると思いますよ」
「いいんだ。自分で掃除しなければ気がすまないから」
光太郎は柳田と呼ばれる老人から手桶とひしゃくを借りると外の小径をてくてくと歩き出した。
 「今のが三輪田の家の一人息子の飯田光太郎かい」
「そうだよ。わしは今でも若殿と呼んでいるんだけどね」
「三輪田グループがつぶれてからどうしているんだい」
「千葉の方に住んでいるんだ」
「時代が時代ならここの経営者と云うわけか」
 ここは都下の墓域でとなりが梅園に接していることで知られていた。むかしはここは飯田光太郎の父親の経営している三輪田グループの所有だった。しかしある経営の蹉跌から三輪田グループはこの地所を手放した。そしてここの墓所の経営はある大手の不動産会社の預かることになった。柳田は三輪田グループの大番頭のようなことをやっていて子供の頃からの飯田光太郎を知っていた。大番頭と云う呼び名からわかるように三輪田グループは近代的な会社グループと云うわけではなく、土地もちの金持ちの資産家が税金の対策上会社組織にしたと云うところだった。三輪田グループが多くの資産を手放してからそれを苦にして光太郎の父親は病死した。大番頭だった柳田克美はもとのグループのこの墓所に管理人として再就職したのだった。
「ここになんで来たんだい。若殿は。まさか昔の自分の持ち物だから栄華華やかし頃の想い出に浸りたくてここに来ると云うわけではないんだろう」
「当たり前だろ」
柳田はその栄華華やかし頃と云う表現の対象が自分のことを言われたような気がして憮然とした表情をした、もしかしたらもうひとりの老人は柳田のいつもの自慢話しの鼻を折ってやる気持ちになって、飯田光太郎を使ってあてこすりをしたのかも知れなかった。しかしもうひとりの老人は意外な怒った柳田の調子、怒ったことと云うよりもその怒った調子が思ったよりも大きかったので、少し話題を変えた。
「誰かの墓を見舞いに来たようじゃないか。誰の墓を見舞いに来たんだ。父親の墓の方は父親の生まれ故郷の方にあるんだろう」
「若殿の学生時代の友人で背振無田夫と云う男の墓なんだよ。なんでそんな人間の墓をわざわざ建てたのか、わしにはさっぱりわからないよ」
 光太郎はその墓の前に来ると深々と頭を下げた。その墓はまだ三輪田グループが存続していて光太郎が自由にお金が使えるとき建てられた。その墓所の一番奥まったところにさるすべりの木なんかを従者に従え、名前のわからない濃い緑色をした背の低い木の生け垣を背景に立っていた。その墓が建てられてからそれほど年月が経っていなかったからまだ御影石を磨き上げたままの状態でぴかぴかしていた。墓の前の線香を立てるところや花を生けるところは誰も最近ここに来ていないことを示すようにきれいになっていた。その墓に刻まれた背振無田夫と云う文字を見つめると光太郎の瞳には安らぎとも不安とも悔悟ともわからないような光が広がった。光太郎はその墓の前にひとりで立ちながらなにかを心の中で語りかけながら立ちつくしていた。
 「光太郎さん」
突然として華やいだ声がして光太郎は振り返った。
「なんで、なんで」
光太郎はうろたえて、二度目に繰り返した声の末尾はふるえていた。
「なんでここにいるんだ」
「光太郎さんが行く先も言わずに出掛けたからついて来たのよ」
そこにはにこにこして飯田かおりが立っていたのである。
「尾行していたなんてひどいぞ。夫婦のあいだでもプラバシーと云うものがあるんだ」
「なんで光太郎さんの行くところはなんでも知っていたっていいじゃないの」
「君が来る場所ではない」
飯田かおりはおこられて一瞬はしゅんとなったが光太郎の肩越しにその墓の名前を読みとった。
「背振無田夫」
その名前を飯田かおりも知っていた。事故で死んだ光太郎の友達の名前だ。しかしその友達にどうしてこうまでも光太郎がこだわるのかわからなかった。
 「ずいぶん立派な墓じゃないか。うちの墓所でも一番立派なところにあるし、墓石も立派だし、墓銘もふつうの墓よりも五ミリも深く刻まれているし、ただの友達の墓なのになんでそんなに金をかけるんだ。きっと若殿さんには後ろ暗い過去があるんだよ」
「どんな」
相棒の言葉には柳田も少なからず興味を持っているようだった。
「たとえば親友とひとりの女を争って、それも若殿はひきような真似をしてひとりの女を獲得したが、親友の方は失恋の痛手から自殺に追いやられたとか」
「まさか」
柳田はもちろん光太郎の妻のことを知っている。その妻と云うのは飯田かおりのことだったが、そうなるとひとりの女と云うのは飯田かおりと云うことになる。
「そもそも若殿の友達の背振無田夫とは何者なんだい」
柳田もそれほど詳しいことは知らなかった。柳田はアルマイトのやかんからお茶を自分の湯飲みについだ。
「そこに松月堂のカステラ巻きがあっただろう。いっしょに食おうや」
ここらへんの住人が少し気がきいていておいしい和菓子と云うと二駅さきの松月堂の和菓子と云うことになる。宿直小屋に据え付けられている戸棚の中に昨日買って来たそれが入っているはずだ。柳田は戸棚を指さした。もうひとりの老人が戸棚をあけるとテレビのコマーシャルでも流れているそのお菓子が入っていた。切り分けられたそれがふたりの座っているテーブルに置かれた。ほとんど仕事場と云っても隠居の茶飲み話しの場所と同じだった。
「若殿は学生と云っても同時に商売をしていたんだ。資金は三輪田グループのあととりだからいくらでもある。別に利益を出さなければならないと云うわけではない。要するに道楽なんじゃがな」
柳田はそう言うとカステラ巻きを切っておいしそうにその一切れを口の中に入れた。
「いつ食べても松月堂のカステラ巻きはおいしい」
「それでその商売、いや道楽と云うものはどんなものなんだ」
聞くほうの老人の調子も気を急く感じはなかった。
「骨董品の買い付けなんだよ。若殿は地方風俗研究会と云うクラブに入っていたんじゃ。どんなクラブかと云うといろいろな地方に行って伝承や古い風俗を掘り起こすのがクラブの目的だと言っていたな。若殿は金があったからずいぶんいろいろなところに行ったみたいだな。北は北海道から南は九州まで行ったらしい。そのクラブの仲間が背振無田夫なんだよ。そこから発展して若殿は地方の郷士の古い土蔵なんかに置いたままほこりを被ったりして金銭的価値がありながら眠っている骨董品なんかを見付けて来てそれを売りさばいていたんだ。クラブの中でもそれに係わっていたのは若殿と背振無田夫のふたりだけだったのさ」
 「今日はもういいんだ。帰ろう」
背振無田夫の墓の前でたたずんでいた光太郎は飯田かおりを前にしてそう言った。しかし飯田かおりの中では何も解決していなかった。なぜ背振無田夫の墓に光太郎がひとりで来たのか少しもその理由がわからなかったからである。飯田かおりは背振無田夫のことは昔から知っていた。いや、その表現は正しくないかも知れない。飯田かおりは昔のある時期の背振無田夫を知っていたと云う方が正しいだろう。いつでも何も包み隠さず話してくれる光太郎が背振無田夫のことになると何も話してくれないのが寂しかった。それ以外のことはなんでも光太郎のことを知っていると思っていた。飯田かおりがこの世の中でただひとり心を通わすことの出来るのは光太郎ひとりだと思っていた。もちろん会う人には誰でも笑顔を向けて親和的な感情を抱こうとつとめている。しかし、特別な身構えもなく心を開けるのは光太郎だけだと思っていたからだ。飯田かおりのこころには永久と云う言葉が思い浮かんだ。その永久と云うのは未来に向かっているのではなく、現在の一点から過去に向かっていた。遠いむかしからお互いに知り合っていたという感覚だ。どんなものかと言えばその感覚と云うのは見知らぬ人間が横町の角からひょっこりと現れて挨拶を交わしたがそのひとことの挨拶が悠久の昔から予定調和のように約束されていてあるべき場所と時間にそれがあり、安定したこころの状態がやどっている。この人は永久のむかしからの知り合いだと云うようなものまである。そういった信念と云うか盲信とか云ったものを飯田かおりは少し傷つけられた。
 「帰ろうか」
光太郎はふたたび言った。
「秋になったらここもきっとずいぶんきれいに紅葉するわね」
光太郎の横を歩きながら飯田かおりはここに生えている落葉樹が秋に色づく景色を想像していた。その言葉の中には秋になったらふたりでまたここに来ようと云う言外の意味が含まれている。
「秋になったらまたここに来ましょうよ」
飯田かおりは微笑みながら光太郎の横顔を見た。光太郎は霊と云うものの存在を信じなかったが死んだ背振無田夫の霊が墓の中から出て来て光太郎の横を歩いているような気持ちがした。なにごとも説明がついて物理的な現象としてとらえることが出来なければ光太郎は認めることが出来なかった。それがなぜ霊などと云う言葉を使って横にいる飯田かおりと云う存在をとらえようとしているのだろうかと考えてみた。そんなことを考えていることを隣りの飯田かおりはわかっているのだろうか。光太郎は物理のことはあまりよく知らなかったがそれが物質と運動と云うふたつの柱を根底にしていることを知っている。しかしすべてが物質から成り立っていると聞かれればうまく答えることは出来ない。ことばなどと云うものが物質から出来ているとは思えないからだ。ことばを表すためには音声にしろ文字による表記にしろ物質を必要とはする。しかし物質そのものではないはずだ。それはこころにも云える。こころが存在するために物質は必要かも知れない。しかしこころは物質そのものではない。飯田かおりと云う肉体の存在がこころにおいて死んだ背振無田夫と同じ作用を光太郎に及ぼしているのが不思議な気がした。そして光太郎は自分なりにもうひとつの哲学めいた考えが浮かんだ。人にはそれぞれただ一つの伴走者が存在するのではないか、たまたま肉体と云うかたちをとるかも知れないがそれはひとつのなにかかも知れない、それは男かも知れないし、女かも知れない、ある時期に共に歩いていた伴走者がいなくなっても、そのあるものがかたちを変えて違う伴走者になるのではないかと云うことだ。この意味で生活していく上での連続性があるのではないだろうか。と同時にこの広大な墓所のすべてがかつて自分が所有していたと云うことがその時点の自分と今の自分にどんな連続性があるのかと考えるとこころの中に空虚感と寂しさが生じた。もし飯田かおりがいなければ自分はその空虚感に堪えられず自殺していたかも知れない。そのとき飯田かおりが急に口笛を吹き始めた。その曲は光太郎の知らないものだ。
「なんだい、飯田かおり、急に口笛なんか吹き始めて、どうしたの」
「あんまり天気がいいから」
こういうのを自然に感応したと云うのだろうか。光太郎はそのときそう思った。
 帰りの電車の中で光太郎はあることを思いついた。このまま家に帰ることはもったいない。飯田かおりに何も背振無田夫のことについて話していない負い目もあった。帰路に大きな遊園地がある。今は貧乏しているふたりではあったがそのくらいの余裕はあった。
「飯田かおり、遊園地に寄っていかない」
「本当ですか」
電車がホームに停まるとかなりの人数の乗客が降りた。休日だからなおさらのことだった。まるで巨大な海竜の背中のような橋を渡って遊園地の入り口に着いた。夜だったら橋の欄干に附いている照明がすべて点灯してきれいなことだろう。まるで現実にいたよりも巨大な剣竜の背鰭がきらきらと輝いているように見えることだろうと思った。アラビアンナイトの不思議話しに出てくるような変なかたちをした入り口をくぐって中に入ると人間がたくさんいた。いろいろな時代の意匠を凝らしたいろいろなアトラクションがあって人が並んでいる。その行列を見ながら光太郎は飯田かおりといっしょに奥へ奥へと進んで行った。生け垣が迷路になっているところを横に入って行くと三角の迷路のような場所があった。ここは人が並んでいなかった。ふたりが奥に入っていくと太ったアラビア人のような男が入り口に座っていて小さな椅子に腰掛けながら客待ちをしていた。ふたりの姿を見ると声をかけた。光太郎と飯田かおりはフリーパスを持っていたからどこにでも入ることが出来たのだがなによりもそこは並ばなくてよいので助かった。しかし中にどんなアトラクションがあるのかわからなかった。
「お客さん、入っていきなよ。定員はふたりだよ」
「どんな趣向なんですか」
「つりだよ」
アラビア人はぶっきらぼうだった。
光太郎は自分の趣味に合っていると思った。「ふたつ仕掛けがあるだろう。それぞれのところに入って行って釣り竿を使って獲物をとるのさ。近くから遠くまでいろいろな獲物があるからね。それの合計でここにある商品をあげるんだよ」
そのアラビア人の後ろにはいろいろなキャラクターグッズが置かれている。ふたりはそれをやることにした。中にはふたり分の遊具が置かれていて、要するに円弧があってその上に獲物が置かれている。真ん中に入ることが出来るようになっていてそこから釣り竿を使って獲物を捕るようになっている。もちろん時間制限はある。光太郎と飯田かおりはそれぞれの円弧の中心に入って獲物を狙った。光太郎は円弧の中にある獲物を見回した。手近なところには枕とか電気トースターとか、身近なものがおかれている。遠い場所になると世界一周とか、大企業の社長の地位とかが書かれている。光太郎は当然遠くにあるものの方が得点としては高いものだと思いせっせと遠くのものを釣り竿でとった。飯田かおりの方を見ると、電気こたつとか、洗濯機とか犬小屋とかちんけなものばかり集めていた。光太郎はその様子を見て笑った。飯田かおりはあまり釣り竿を使ったことがないらしく難儀をしていた。やがて時間が来てゲーム時間が終わったのでアラビア人のところに行って取った獲物の得点を数字化した。するとアラビア人が言った。
「だんなさんの得点は二十一、奥さんの方は五十六だよ」
「おかしいじゃないか。遠くにある方が得点が高いだろ」
「それが逆なんだな」
飯田かおりが喜んでそのままふたりは弘法池のほとりの自宅に向かった。
 弘法池の朝靄に包まれてオートバイのエンジンをふかす音が聞こえて牛乳配達の牛乳の瓶がかちゃかちゃと鳴る音とともに光太郎は目をさました。飯田かおりはすでにふとんから抜け出していた。光太郎がまだ大金持ちだった頃は朝になると自動的に暖房のスイッチが入ってぬくい中を起き出してくることができたから彼の生活状態は零落している方に多いに変化していたと云えるだろう。隣りの敷かれているふとんを見ると飯田かおりが寝ていたふとんは彼女の身体の抜け殻がそのままにかけぶとんがトンネルのようなかたちをしている。枕もとにある蛍光塗料で光る文字盤を持った目覚まし時計を手を伸ばして取ってみるとまだ出勤まで時間はだいぶある。光太郎の中では寝ていることが彼の出来る数少ないぜいたくのうちのひとつだったからまたふとんの中に潜り込んだ。
 飯田かおりはサンダルを引っかけて弘法池に面した裏庭に出た。家の中よりも外のほうが明るかった。ばけつの中につけおきしておいた洗濯物を家の中に取り込もうと思ったのだ。松の木の根もとに石畳をひいてそこが雨でも濡れないようにしてある。その石畳の上にきのうのうちに洗剤の入った水になかなか汚れの落ちない洗濯物を入れておいたのだ。弘法池の上にはもやがかかっていてその切れ間に池にさしてある小舟をつなぐための竹の杭だけが見えた。裏庭も少しもやっている。石畳が濡れている。そしてばけつがひっくり返っていた。 「光太郎さん、ばけつがひっくり返っていたのよ」
ちゃぶ台の前に座って新聞に目を通している光太郎に少し目をふせながら飯田かおりは誰に抗議するともなしに言った。
「犬かなにかがひっくり返したんじゃないかい」
「でも洗濯物が少し汚れてしまったわ。また洗濯をしなおしたのよ。前にもこんなことがあったのよ」片手に飯田かおりは御飯のしゃもじを持っていたがその手は空中で止まっている。
「犬が興奮する何かがその洗濯物にあったのかな」
光太郎はあくまでもその洗濯物の入ったばけつをひっくり返したのは犬だと結論づけていた。また犬と闘牛の牛の違いもわからないようだった。
「洗濯物の入ったばけつだけではなかったのよ。この前はまんりょうの盆栽の鉢がひっくり返されていたんだから」
そんな盆栽が裏の庭にあるなんてことは光太郎は知らなかった。
「そんな盆栽があるなんて知らなかったな。きみが買ったのかい」
「違うわ。この家を買ったとき最初からついていたのよ」
「じゃあ、地主が最初からサービスで置いていったのかも知れない」
「そんなことより庭に柵をこしらえるのはどうかしら」
飯田かおりは裏庭に柵をつける姿を想像していた。
「でもお金がかかるよ」
「そう」
裏庭には柵がなかった。自分の家の敷地と他の部分の境がどうなっているのか、はっきりしなかった。もっとも土地は光太郎のものではない。借地だった。飯田かおりはなにかを考えているようだった。飯田かおりにはある考えが浮かんでいた。光太郎の家と隣の家の間に大量の木材が放置されていてどこかの大工がこの近所に建物を建てて余った木材を回収するのが面倒でそのまま棄てていったものだ。家の建築部材にするには寸足らずだったが柵を作るぐらいのことは出来る。
「隣りの家のあいだに木の廃材が棄てられているじゃない。あれで柵を作ると云うのはどうかしら」
光太郎は驚いた。
「きみが作るのかい」
「柵ぐらいはわたしでも作れるわ」
「いいよ。休みの日に僕が作るから」
飯田かおりは少し不満そうだった。もしかしたら経済的な理由からと云うよりも自分でそれを作りたかったのかも知れない。光太郎は飯田かおりの中に自分の知らないなにかを発見した。光太郎の頭の中には玄関の下駄箱に入っている大工の道具箱の映像がうかんだ。のこぎりひとつに金槌しか入っていない、そののこぎりも少し錆び付いている。
そののこぎりを不器用に扱って木の板を切っている飯田かおりの姿が頭に浮かんだ。もちろんその発想は光太郎にかかる負担を軽減しようと思っているからだろう。
 食べ終わった御飯の茶碗にお茶を注いで飲んでいると、ラジオのニュースで岩淵鉄源と云う名前が五球スーパのラジオのスピーカーから流れて来た。たまたま新聞を読んでいたらその名前が大きく載っていた。岩淵鉄源は保守党の大物政治家でいろいろなところに大きな力を持っていると云われている。裏ではいろいろとあくどいこともやっていたと云われている。それはもちろん週刊誌を通した光太郎の知識であり、まったく無力な庶民である光太郎とは縁もゆかりもなかった。しかしある外国で不当に政治犯として抑留されていた漁民をその国の大統領に直談判して釈放、帰国させた行為は最近のことであり、そのことを全くの非力な光太郎は英雄的行為として見ていたのだ。一種のあこがれめいたものもあった。ラジオのニュースでも新聞でもその岩淵鉄源がある問屋組合に不当な働きかけをしてその利益の一部が岩淵鉄源のふところに入るように役所にある部署を作ろうとしていたと云うことをすっぱ抜いていた。光太郎はあの英雄的活動と自分のふところをぬくませようとする行為の懸隔にとまどった。詳しい内容を知れば知るほどそのやり方と云うのがみみっちいものであり、一時は英雄として彼をあがめた自分が恥ずかしくなった。つまりその人を見る目のなさがである。
「まんまと騙されたよ」
光太郎は香のものをかじりながら、ある種の恥ずかしさと照れくささに堪えられず、飯田かおりにそういう表現を使った。ちょっとした話しのおりに光太郎が岩淵を賛美していたことをもちろん飯田かおりは覚えていた。
飯田かおりは光太郎が岩淵鉄源を英雄として上気した表情で語っていたことがあったのを覚えていたがそのことは言わなかった。
「いいじゃないですか。別にあなたが悪いことをしたと云うわけではないんですから」
この言葉にそのあと五、六行、岩淵鉄源を批判する言葉を用意していたのだが腹の中でなえてしぼんで消えてしまった。風船のせんを抜くほどの効果があった。
「そうだな、別に自分が変なことをしたと云うわけではないのだから」
光太郎はいつものとおり飯田かおりの用意した弁当を持って家の玄関を出た。自分の家の前の道に出ると田圃と池にはさまれた道を向こうから揃いの服を着た女の子が歩いて来る。もちろん以前見たことがあるから光太郎はその幼いふたりが誰だか知っていた。
「あれは地主の家のふたりの娘じゃないか。家が弘法池の向こうにあるのになぜこっちの道を通るのだい」
飯田かおりも家の前の道に出てそのふたりの歩いているのを見たふたりはまだ光太郎たちの会話が聞こえない場所を歩いている。
「向こう側の道を通って学校に行くと川で道が途切れるそうですよ。それで弘法池の外周を大きくまわってこの道を通って学校に行くそうですよ」
やがてふたりの女の子は光太郎の家のそばに近寄って来た。女の子の顔がはっきりと見えた。前に見た顔と同じだった。小さな顔のわりには口が大きく、まるで不思議な国のアリスに出て来るチャウチャウ猫のようだった。ふたりは口の両もとに力を入れてにやりと笑った。そしてぺこりと頭を下げた。過ぎ去ったふたりの姿を目で追いながら飯田かおりは急に思いついたように光太郎にたのみごとをした。
「光太郎さん、帰りにレモン堂のシュークリームを買って来てくださらない」
レモン堂は有名な洋菓子屋で東京にしか店がない。それで東京に勤めに出る光太郎にそれを買って来て貰うように頼んだのである。
 光太郎は駅のホームに立って線路の向こう側に見える崖を見ていた。ホームの片側は旅籠屋や陣屋、弘法池がある方になっていたが線路を隔てたもう一方の側は岡のようになっていて岡の一部を削って駅が建てられていたので急な角度のある崖のようになっていた。その崖の側面から中くらいの大きさの木が横から伸びて急に角度を変えて上方に伸びていっている。木の根もとあたりには苔がむしていた。千葉の田舎の町であるのに南洋の湿地帯にいるような気が光太郎にはした。
 光太郎は東京に向かう列車を待っていた。やがて小豆色をした列車が駅にすべり込んで来た。一番うしろの一両は郵便車になっていて列車が止まると駅員がカーキ色の郵便の入った袋を一番うしろの車両に投げ込んだ。その様子を光太郎は見ていられたから客車のドアが開いている時間には余裕があった。
 やがて列車は走り出し、見晴らしのよい場所に出た。この駅から乗り込んだ乗客はまだあまりいないので確実に座ることが出来る。光太郎は窓の側に席をとって緑色のモールの座席に腰をおろした。窓の外からは少し離れたところに海が見える。ところどころ漁師の番小屋が点在している。浜には小舟がつながれている。光太郎はそれらの景色を見ながら途中下車したことがないそれらの場所に思いをはせた。いつも列車の中から通り過ぎる景色を見るだけなのだが列車の中から見ているのとは違って降りてその場所を歩けばまた違う匂いがあるのかも知れない。ときどき勤めの帰りにその場所を尋ねてみたいと云う考えもあるのだが帰りにはいつも夕方近くになっている。そして途中下車をする理由がみつからない。理由が見つからなければ行動する意欲がわかなかった。光太郎の生活は自分自身と云うよりも外部のものに既定されていた。それをなにも勤めと云うつもりはない。勤めよりももっと大きなものかも知れない。しかし大きなものとはなんだろう。そこでまた光太郎の考えは自分の内部に向かった。やはり自分の内部にあるのではないか、自分の内部の大きなもの、勤めが大きい、東京が大きい、日本が大きいと言ったところで実はもっと大きいものが内部にあるのではないか、それらは物理的な大きさであり、光太郎には無関係な大きさであるとも云えた。光太郎はその大きなものに支配されて途中下車をする面倒をおこさないのであった。そして近所の散歩で我慢して、妻の飯田かおりの笑顔に心の満足を求めている。十年前の光太郎はそうではなかった。背振無田夫と供に日本国中を古農の土蔵の中に忘れられた骨董を求めて旅をしていたのだ。本当にすっかりと変わってしまったものである。
 やがて茶色の列車は東京に着いた。ここで光太郎は市電に乗り換えて勤めに向かった。勤めにはロボットのように人がその中に吸い込まれて行った。もちろん光太郎もそのロボットの一人である。光太郎は壁際にある九十九折りになっている階段を急ぎもせず、遅れもせず、のぼって行った。水色に近い灰色でその壁は塗られていて踊り場に一段上がるごとに壁には小さな四角い窓が切られていてガラスも入っていなかった。階段を上がりながらその窓を見上げると空が見える。いつだったか、そこに女子社員が花瓶に花をいけて飾ったことがあったが窓ガラスも入っていないので窓から外に花瓶が落ちて行ったら危ないと上司がとりかたずけさせた。しかしそのときの印象が残っているのか、光太郎はその窓を見上げるとその花瓶と花が見えるような気がするのである。
 光太郎が自分の机に座ると上の階から運ばれた仕事が机の上に置かれ、光太郎が来るのを待っていた。そして光太郎はロボットのようにそれらの束を持つとエレベーターに乗り込み、アコーディオンのシャッターをしめるとエレベーターは二階下のフロアーに着いた。エレベーターを降りた光太郎は左に曲がり、鉄板で表面に小さなばつ印が大量に滑り止めのために浮き彫りにされている床の上を歩いて少し下り坂になっている通路を降りて行って二階南作業室と書かれた看板のある部屋の中に入った。そこにはやはり机が置いてあって光太郎は自分の仕事をその机の上におろした。
 一枚仕上げるといくら貰えると決まっている仕事で光太郎は自分で午前中にやる分量を決めていた。しかし仕事の量は決まっているのであまり早くやりすぎても次の仕事はないのである。そのうえ早く帰ることは出来ないと云うきまりになっていた。夕方まで勤め場所にいなければならなかった。
 光太郎は自分で決めた分量の仕事を終えたのでここに勤めている人間がみんな使っている大きな食堂に行った。光太郎と同じように午前中の仕事を終えた人間がそこに集まっていた。そこはこの建物の地下にあり、もともとここはむかし大きなビール工場だったので、その地下はビールをつめた樽の倉庫になっていたからまるで中世の画家のプルューゲルの絵画に出て来る職人の工房を大きくしたような雰囲気があった。天井に大きく伸びたむき出しのはりなんかもその象の皮膚のような表面がそんな演出を手助けしていた。しかしここで働いている人間の慰労をねがって食堂をわざわざそんなふうにしたと云うのではなかった。前に述べたようにたまたまそういうところを仕事場にしたと云うだけのはなしだった。
 光太郎はまかないのところに行くと自分で選んだ食事の盆を取って広間の中央あたりにあるテーブルに座った。まわりには知り合いがひとりも居なかった。そのテーブルには光太郎の働いている階の上の上の階にある人間が座っていてグループで来ているらしく世間話しをしていた。その中のひとりも光太郎は知らなかった。光太郎はひとりで食事をしながらそれらの会話を聞くともなく聞いていた。
「岩淵鉄源が捕まったじゃないか。僕はあの男に一票を入れたんだぜ」
「岩淵鉄源ってなに区だったっけ」
「麹町区だよ」

ぶんぶく狸 第四回
「あいつの演説を聞いたことがあるよ」
「あのとき漁師を解放したのがあいつの絶頂期だったな」
「まったくあいつには騙されたよ」
自分と同じようなことを考えていると光太郎は思った。
「あいつが嘘を言っていたとは知らなかったよ」
「しかし、金儲けの方法があんなにせこいやり方でやっているとは思わなかったよ」
光太郎はだいたいのことは知っていたがそれの細かいところになるとよくわからなかった。その場にいた何人かはほとんど詐欺と同様のその岩淵のやり方を理解していたらしく他の人間に説明していた。そのうち彼らの話は個人的なことに移っていった。
「三手川の奥さんってきれいな人だって知っていたか」
三手川と云うのは彼らの同僚のひとりらしかった。
「きれいな人だってだけじゃないだぜ、性格も可愛いんだ」
「知ってる、知ってる。三手川が持って来る弁当はいつも奥さんが作っているんだろう」「きみも三手川の奥さんを見たことがあるのか」
「ああ、鈴なり亭の前で三手川といつしょにいたのを見たことがあるよ」
「じゃあ、三手川は果報者だな」
「なぜ」
「そんなきれいで性格も可愛い人を奥さんにしたんだから果報者じゃないか」
「それが、きみのあさはかな考えだと云うんだよ」
「歴史上、ソクラテスの妻、これは悪妻と呼ばれている。それにピカソの最初の妻も悪妻だと」
「ソクラテスの妻のことは聞いたことがあるけどピカソの妻に関してはそういうことは聞いたことがないな」
「それはたとえばの話しだ。歴史上、名をなした偉人の妻はみんな悪妻だと云われている。それらの偉人がみんな悪妻の悪行に鍛えられたか、もしくはそれらから逃れたい一心で仕事に専念したからだな」
「じゃあ、三手川の奥さんはさげまんと云うことか」
「そうだな、美人で可愛い妻を持った男はだいたいが成功出来ない。したがってそういうのはさげまんと云うことになる」
「それを運命に結びつけるのは単純すぎるよ。そういった人を奥さんにして本人が安心してしまうと云うことではないんじゃないですか」
「そうか、きみはまだ結婚していなかったな、その法則をなかなか認めたくないだろう」
「僕はまた違った考えを持っているのだよ。それは人間の一生の運は誰でも同じくらい持っていると云う考えだ。そこでそう云ういい条件の相手をみつける、そこで運を少し使ってしまうと云うことだ」
「きみはじゃあ、だいぶ運をため込んでいると云うわけだな」
そこでみんなは一斉に笑った。
 仕事が終わった光太郎は帰り道、昼間食堂で聞いた会話を反芻していた。飯田かおりはさげまんなのだろうか、と云うことだった。飯田かおりを妻としたことで光太郎は精神的救いを得ていた。しかし飯田かおりと結婚してから、経済的に奈落の底に落ちたことは事実だった。しかし、その転落が飯田かおりとの結婚によってもたらされたとは科学的に証明する方法はない。もしそこに運命論を持ち込んだとするなら、好意的に解釈すれば現在の転落に備えて神は光太郎に飯田かおりと云う救いを用意していたと云えるかもしれない。もちろん悪意やうらみを持ってこの事象を判断するなら、そもそもの原因は妻の飯田かおりにあると云うことで彼女がさげまん女でかつ疫病神だと云うことも云えるだろう。しかし、そう思う光太郎の心の中には妻の飯田かおりが自分に経済的幸運をもたらして欲しいと云う願望が隠されていることは否定出来なかった。性欲や精神的な充足感をもたらしてくれる飯田かおりに対してそれも求めていたのである。そこに光太郎の弱さ、いや、ふつうの人間すべてに隠されている弱さが潜んでいるのかも知れない。
 そんなことを考えながら帰途についたからだろうか、光太郎は飯田かおりに銀座のレモン堂でシュークリームを買ってくることをすっかり忘れていた。玄関に入ると妻の飯田かおりは台所で揚げ物をしていた。光太郎が自分の注文からシュークリームを買って来ることを期待しているからだろうか、横顔も微笑んでいるように見える。
「飯田かおり、ごめん。レモン堂に行くのを忘れていたよ」
飯田かおりは予想に反してその表情に変化はなかった。
「忘れたの。でもちょうどいいくらいだわ」
そう言って飯田かおりは食器棚の真ん中の出っ張りに置かれたレモン堂の包み紙に包まれた菓子箱を目で合図した。
「これは」
「地主の下平さんの使用人と云う人がお詫びのしるしだと言って持って来たんです。お金も置いて来ましたよ。でも失礼よね。下平さんが直接来ないで使用人なんて人を使わすなんて」
飯田かおりは少しくちびるをとがらした。
飯田かおりの話によるとこうである。最近、光太郎の家の裏庭の盆栽やばけつが倒されているのはおかしい、そこで裏庭のずっと見渡せる台所で編み物をしながら見張っていたら、おもちゃのモータボートのような音がしたので外を見たそうである。そうしたらそれはモーターボートのエンジンの音ではなくておもちゃの自動車の音だった。おもちゃと云っても子どもが乗れるようなものでエンジンもついていてイタリアの車のように赤いペンキが塗られてぴかぴかとしている外国の競争用自動車のミニチュアだった。とてもそれは庶民の買えるようなものではなく、日本の国内では売っていず、輸入業者の手をわずらわせなければ手に入らないようなものだった。そこに銀色のヘルメットをした子どもがふたり乗っていてすごいスピードでやって来ると光太郎の家の庭、弘法池のたもとで光太郎の家の花鉢をひとつ倒してとまった。ふたりの子どもは自動車から降りてくると銀色のヘルメットをとり、池の方に向かってなにかさけんだようだった。そのヘルメットを脱いだふたりは地主の下平のふたりの娘だった。急いで飯田かおりは庭に出てふたりの子どもになにをやっているのかと聞くと弘法池一周トライアルレースをやっているのだと答えた。ばけつや盆栽を倒したのはふたりかと聞くと悪びれずに肯定したそうである。飯田かおりがさらに何か言おうと思ったらふたりはふたたびヘルメットを被ってトライアルレースはまだ終わっていないわと叫んでイタリアの自動車の運転席に飛び込むと自動車を急発進させたそうである。ものすごいスピードで飯田かおりはただ見ているしかなかったそうだ。
 光太郎は怒ると云うよりも一種の爽快感を感じた。高級なイタリアのおもちゃの自動車に乗って走っている姿になににつけてもわからないものにおさえつけられている自分に出来ないことをしていると云うことや、幼い子どもの気楽な生活にあこがれていたのかも知れない。しかしあれだけのおもちゃをふたりの娘に与えている地主の下平の経済力と云うものはどのくらいのものだろうか。しかしかつては自分もそうだったのだ。
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ぶんぶく狸 第五回
古代と云う時間を押し固めたビルのかどを横に曲がった道を入って行くとその店はあった。その銀座のビルがなにかの博物館でその中に古代の海竜や巨大な貝の展示物があると云うわけではない。そのビルのかどにあたっている部分がコンクリートや大理石ではなく、何万年もむかしの海底にうごめいていた大きな海虫や海の中を漂っている動物性の小動物が化石となって石の中に埋め込まれている薄い緑色の花崗せんりょく岩がその建物のかどにデザイン上の理由から使われていたからである。
 その道には柳並木が植えられていて春のぬくもりに揺り動かされて新しい芽がふいていた。
 その道を数メートル行くと大きなガラス張りの四角い出窓の中に金色のぴかぴかした機械が置かれていて自動でそれは動いている。小さな陸上競技のようなトラックのようなところに沿って自転車のチェーンのようなものが貼られていてそのチェーンには等間隔に金色の柄杓がついている。それが百足の足のように動いて、ある場所では上からつるされている絞り口からクリームが絞り出される。それが歩いて行くと上下を灼熱地獄のトンネルの中を通って、あぶられて、一周の旅が終わると滑り台に乗せられて箱の中を滑り降りて行く。そこで旅は終わりと云うわけだ。
 光太郎はその様子をじっと見ている。その横には飯田かおりがハンドバックを手にぶら下げて彼女のほうは光太郎を見ていた。
「ずいぶんうまい仕組みね」
「見ているだけでもおもしろいよ」
その機械はまるで生き物のようだった。その機械の奥のほうに熱帯魚の水槽の中のような客席が見える。飯田かおりは両手で前にハンドバッグを持ってその店ののれんを見た。
「ずいぶんとはやっているようですね」
「そうみたいだね」
のれんには背振屋と紺の地の木綿に白い文字で染め抜かれている。店の中では白い割烹着を着た従業員が男がひとり、女が三人ほど働いている。その中の女のひとりが男の妻らしいことがわかる。男も女もまだ二十代の前半のようだった。遠くから見ていてもその組み合わせがうまくいっているようなのがわかったので飯田かおりは「わたしたちもこんなお商売をやってもいいわね」と言うと光太郎は「あんなに如才よく立ち回れないよ」と言った。光太郎と飯田かおりが手でのれんをはねあげて中に入ると店の中の若い男は白い歯をみせてにっこりとした。
「三輪田さん」
そばにいた彼の妻らしい女の方を振り向いた。
「ちょっと出掛けてくるから」
午後の二時を過ぎていたので客の数は減り始めていた。
「いつものところにいるから」
その若い男はふたりつれてなじみのレストランにつれて行った。女はぺこりと光太郎と飯田かおりに向かって頭を下げた。
 「いつもの奴を三人前」
「栗ちゃん、おはよう」
顔なじみらしい喫茶店のウェートレスが若い男に声をかけた。
「今度、くろがね温泉とうちの町会が提携するんでしょう。かずちゃんが言っていたけど来月には視察旅行に行くんですって、わたしも行きたいわ。栗ちゃんからも頼んでよ」
「俺にそんな力があるわけないだろう」
そう言って若い男はまた白い歯を見せて笑った。
「じゃあね」
ウェートレスは右手を動物の影絵をやるように変なかたちを作ってその口のところをぱくぱくと動かしてそこを離れた。女の顔の愛嬌だけがそこに残った。
「なかなか、商売も繁盛しているようじゃないですか」
「そうでもないですよ」
「でもいい奥さんを貰ったね。愛想がよくて、白い割烹着がすっかりと板についているよ」
「まあ、どっちかと言うと向いていると思います。彼女の実家も食べ物屋をやっていますからね。和菓子屋なんですけど。そちらが飯田かおりさんですか。どうぞよろしく」
若い男はテーブルをはさんで頭を下げた。そこで若い男はまた白い歯を見せて笑った。誰に対しても白い歯を見せてこの若い男は笑うようだった。それが作ったものではなく生まれついた性質だということは飯田かおりにもわかった。
「そのせつはお世話になりました」
光太郎はあらためて若い男に頭を下げた。
「いや、兄貴の意志を実現させただけですよ。でも、住み心地はどうですか」
「とってもいい場所ですわ」
飯田かおりが顔を上げながら微笑んだ。
「でも君が僕たちの住む場所を周旋してくれるとは思わなかったよ」
「兄が何年も前からあの場所を探していたんですね。今思うと。もしかしたら十年ぐらい前からあの場所を探していたのかも知れない。それぐらいの価値はありましたか」
「あったよ。なにしろあそこにはれんげ平と云う場所があってね。もぐら神と云う神様が住んでいると云う話なんだ」
「もぐら神ですか」
「それからいたち柱という柱があるんだ」
ここで若い男は笑いだした。光太郎の知っている人付き合いのあまりない、人をさけるところのあった背振無田夫にこんなさわやかな弟があると云うことは不思議だった。遺伝の不思議だと云うべきだろうか。背振無田夫と栗太のふたりの兄弟は血のつながった兄弟だった。弟の背振栗太は銀座にあるこの実家で小判焼きを名物にしている和風喫茶でこのあたりの若檀那として自分の役割を守っている。背振無田夫はその役割を放棄していた。そして最近商売上手なふたつ下の女房を貰って商売も繁盛していた。
 光太郎はいつだったか、千亀亭のもとの主人と云う男の話をきっかけにして妻の飯田かおりを泣かした。それが決して妻の飯田かおりを傷つけるためにふとんの中で調べものをしていたのではないと云うことを言いたいがために飯田かおりをつれて背振無田夫の弟に会いに来たのかも知れなかった。弘法池のほとりの彼らの家の購入にあたっては金を出したのはもちろん光太郎だったがその差配をしたのはすべてこの弟である。そしてこの弟がふともらした話しのきれはしによると十年も前からあの場所を光太郎たちの住処だと背振無田夫は決めていたらしい。もちろん最初から光太郎がそこに住むこと希望していたのではないだろうが。
「十年も前からあそこをわたしたちの住む場所だとお兄さんは決めていたんですか」
飯田かおりは驚いた顔を背振栗太に向けた。
「兄貴に会ったことは」
背振栗太が飯田かおりのほうに声をかけると、
「一度だけ」と飯田かおりは恥ずかしそうに答えた。
「光太郎さんたちがそこに住むことになるだろうと仮定して弘法池を見付けたのではないでしょう。いつか住むならそこに住もうと兄貴は思っていたんだと思います。死んだ兄貴の遺品を整理していたら、そんな遺言が出て来たんです」
その遺言のことは光太郎は知っていたが、飯田かおりはそのことを知らなかった。栗太が実際家を購入するときそういう遺言があることを光太郎に教えたのだ。その内容をかいつまんで話すとこういうことになる。
「住むによい場所を俺は見付けた。千葉に弘法池と云う池がある。その池のたもとには千亀亭と云う料理屋がある。俺はいつかそこに住まいを構えて住みたいと思っている。しかし、俺がどんなことがおこって死んでしまうと云う可能性もないではない。もし、そうしたら弟よ、俺には無二の親友の飯田光太郎と云う男がいることを知っているだろう。飯田光太郎をそこに住まわしてくれ、と書かれた手紙が絹地の封筒の中に入っているのを見付けたのですよ」
光太郎は少し得意そうな顔をした。飯田かおりは少し複雑な顔をした。飯田かおりは一度だけ背振無田夫に会ったことがある。その野球の三角ベースのような顔にかけられたロイド眼鏡の奥の目は飯田かおりに敵愾心のようなものを持っているような気がしたのである。
「こんなに心の通じ合っている友達を持てたなんて兄貴に嫉妬しますよ。僕なんか友達はたくさんいるんですが底の浅い連中ばかりで。あの人付き合いの悪い兄貴がよく光太郎さんのような友達を見付けられたなとびっくりしているんですよ」
「本当になぜだろう。きみの兄さんはいつもなにかを考えているようだった。小さいころからその考えにとりつかれているようだった。それが兄さんの心の中の中心になっていてそれ以外のことは何も存在していないも同様だった。兄さんの人生の目的もそこにあったのかも知れない。しかし、それがどんなものなのか僕にも言わなかったのだよ。でも本当に子どものころからそれを見付けていたのかも知れない。だから、一直線にそれだけを追求していったのかも知れない、そのことがいつも頭の中にあったから、あんな気むずかしい顔をしてひとりで道を歩いていたのかも知れない」
光太郎はその背振無田夫の捜しているなにものかが自分にとっての飯田かおりに当たっているのだろうかと思った。そしてそのときなぜだかわからないが光太郎の頭の中には緑色の林に囲まれた中に花の咲き誇るお花畑の映像が浮かび上がった。それからどこかの海が出てきてその海の中から一匹の魚が飛び跳ねて空中に上がるとその魚が急に大きくなってその丸い黒い水晶玉が自分のこころの中の映像の中で巨大になって三分の二ぐらいの大きさをしめるぐらいになった。
 「そのことに関連したことだけどね。少し気になることがあったんだ。駅前に大きな食堂があるんだけどそこで飯田かおりといっしょに小豆アイスを食べていたときに変なおじいさんが近寄って来て言ったんだ。千亀亭のもとの主人だと名乗ってあの男に千亀亭も弘法池も騙し取られたと言うんだ。不当に安い値段で不動産をだまし取られたと主張していた。それもいたち柱なんて云うもっともらしい言い伝えを持ち出してきてね」
「いたち柱ってなんですか」
栗太が首を伸ばしてそのことを聞くと飯田かおりは複雑な表情をした。
「戌年の女とかかわると千亀亭の人間は不幸になると云う伝説らしいよ。どこまで本当かわからないけど、きみは下平と云う地主があそこらへんをいくらで買いとったのかわかるかい」
「そこまではわかりません」
背振栗太の答えは明快だった。光太郎はその地主に会わなかったことが悔やまれた。
「下平と云う地主はどんな人」
「小太りで恰幅のいい人ですよ。万葉風の和歌を詠むと云うことを聞いたことがあります。たしか奥さんと可愛いふたりの女の子がいたんじゃないですか」
光太郎も飯田かおりもそのふたりの娘を見たことがあるが可愛いと云う表現には微妙なずれがあるような気がする。
光太郎と飯田かおりはそこで栗太と別れようと思ったが栗太はぜひ光太郎に持って行って欲しいものがあるので実家に立ち寄ってくれと言う。そこでふたりは無田夫の実家に戻った。そこでは栗太の妻が忙しく働いていた。店の裏口から入ってそこで待っていると栗太は風呂敷包みを持って来た。
「これを上田先生のところに持って行って欲しいんです。兄貴の遺品を整理していたら出て来たんです。光太郎さんの言った兄貴が子どものときから見付けたものの記録らしいんです。僕が持って行くより、面識のある光太郎さんが持って行くほうがいいでしょう」
光太郎ははなはだ不満はあったが仕方なく引き受けた。すっかりと落ちぶれてしまった自分の姿をかつての知り合いの目にふれさせるのは苦痛だった。むかしの自分の盛りのころの想い出を話題にされるのはなによりもいやだった。今の自分の生活状態を聞かれることをおそれた。ときたま道を歩いていてかつての知り合いにばったりと出逢ったこともあるが落ちぶれた彼の姿を見たかつての知り合いは満足気な表情をその瞳の奥に浮かべた。知り合いはその心の平安を得ているらしかった。少なくとも光太郎にはそう感じられたのだ。他人に心の平安を与えて自分も満足するほど光太郎の心に余裕はなかった。光太郎の心の中には人間一般に対する侮蔑で満たされた。個人に騙された記憶が人間一般に対する侮蔑に敷衍されたのだった。それほどむかしの知り合いに会うことが厭な光太郎だったが、その目的が背振無田夫の残したものを運ぶだけだと云うことと知り合いと云っても自分にはあまり関係のなかった背振無田夫の指導教官だったと云うことがそれを引き受ける理由になった。それだけでもなかったかも知れない。彼のなにものかに対する失望が自虐的な喜びを引き起こして人間の活動の流れの中から離れた位置に置かれることによって傍観者的な平安と過去に対するなつかしさを喚起したのかも知れなかった。好い想い出でもなかったがある時代に関した古びた校舎、安物の椅子や机、そんなものをふたたび見たいと思うこともあった。飯田かおりとふたりでかつての母校を訪れると敷地の隅にある北向きの日当たりの悪い場所にだいぶ壊れかかった校舎が幽霊のように立っていた。まるでこの学校の余計者のようだった。ヒマラヤ杉の横にある入り口から多少傾いている階段、年月のために真ん中が摩耗してへこんでいるからそう感じたのかも知れない。
「ここに通っていたんですか」
「ここはおもに背振無田夫が通っていたんだよ。僕はこんなしけた教室には入って来なかったよ。もっぱら学生生活をエンジョイしていたからね。向こうの新しい校舎が何棟か立っているだろう。あっちのほうに通っていたんだよ」
「楽しい想い出とか、いっぱいあるんでしょうね」
飯田かおりは灰色の空を背景にして立っているそれらの校舎を見ながら云った。
「楽しい想い出がいっぱいあるんでしょうね」
「ない」
光太郎は不自然に強調して言葉を発した。
寂しい想い出ばかりだと云うのは詩人のようだ。苦しいと云うのは英雄じみている。もちろん楽しいと云うのは存外だった。そこで光太郎はひとつの言葉がうかんだ。「恥ずかしいことばかりだったよ」
「恥ずかしい、いったい何が恥ずかしかったんですか」
もちろん恥ずかしいことばかりと云うのは光太郎の誇張だった。しかし、もっともぴったりする言葉は恥ずかしいと云う言葉だった。今の零落した生活を当時の知り合いはどうして予想しただろう。あり余る金を持っていた学生時代、その将来は約束されていると光太郎は思っていた。それがいまは飯田かおりとの生活にすべての慰みを求めている。学生時代には将来は父親の事業で悠々と生活を営み、一年の半分は海外旅行に費やすなどとまわりの人間の敵意や憎悪もかえりみず堂々と公言してはばからなかったような気がする。その予想を裏切られて現在の状態になっていることが恥ずかしいのだろうか、それともそれらの世間一般の敵意や憎悪の存在にも無頓着な自分の無知が恥ずかしかったのか、さらにもっと高尚なものにその原因を求めればいいのだろうか。考えれば考えるほど自分が何に対して恥ずかしいのかその原因がつかめない。背振無田夫と一緒に学食で食べたミートローフの煮込み、別に恋人同士でもないのにひとつの机をはさんで向かい合って食べたこと、そして日本各地を飛び回って古い農家の土蔵を漁って骨董品を見付けたこと。別に恥ずかしいという要素はないはずなのに。
 若い頃を懐かしむ人々がいる。若い頃に流行った歌や映画を見たり、その当時の風俗に浸って、その時代を美化する。感覚の表面のほうでその心地よさを時間による糖化作用によって甘い菓子に変質された過去を味わったりする。しかし人間の記憶が正確無比でその美化された過去を正確に呼び戻すことが出来るならそういった行為をおこなうだろうか。ふたたび人生の試練を受けようか、はなはだ疑問であると光太郎は思った。
 ゆがんだ階段を三階まで上がると灰色の木製のドアが光太郎の目に飛び込んできた。ドアの上のほうの名札のところには上田と書かれている。これが亡くなった背振無田夫が師事していた指導教官の部屋だった。上田はここでは傍流として処遇されていることはあきらかだった。そのドアを左に曲がると突き当たりになっていて使わなくなった椅子や机が置かれてほこりとともに蜘蛛の巣が張っている。
「ずいぶんと陰気な場所なんですね」
「上田と云うのは学問的にも傍流で派閥からもはずれているし、人間そのものも変人で通っているんだよ」
学生時代に光太郎は上田の授業を受けたこともなかったし、その存在もほとんど眼中にはなかった。光太郎の明るい光に満ちた学生生活には上田と云うのはなんの関わりもなかったのだ。しかしもちろん彼の友達の背振無田夫は彼に師事していた。老舗の和菓子屋の長男として生まれた背振無田夫がどうして世の暗黒面を標榜している上田を支持したのか、光太郎にはわからなかった。それ以上にあんな好青年を弟に持っていること、そして光太郎の親友だったことだ。
「そう」
なにも知らない飯田かおりはお化け屋敷に入るようなわくわくした気持ちがおこってくるのを禁じ得なかった。風呂敷包みを持っている光太郎はその飯田かおりの横顔も見ていなかった。光太郎は使い古された廃船のようなそのドアをノックした。
「上田先生は在籍ですか」
「誰です」
少ししわがれた声がドアの向こうから聞こえた。
「ここの卒業生です。飯田光太郎と云います。背振無田夫くんの友達です」
「背振無田夫は死んだよ」
「知っています。背振無田夫くんの弟の栗太くんから先生に渡してくれと云われて預かっているものがあるんです」
「入りなさい。鍵はかかっていないから」
光太郎はドアのノブをまわしてドアをあけた。入り口から入ったところは鉄製の棚が置かれ、その背面が見えている。その背面に「あなたの運命は前世から決まっている」と大きく書かれたポスターが貼られていて光太郎はどきりとした。その大きな人目をひく文字しが目に入ったのだがほかにももっと小さな文字で何か書かれているようだった。開いた毛筆を逆さにしているような上田の姿を見て、亡くなった背振無田夫のあぶらっけを抜いてその精力を薄めたらこんな人物が生まれるのではないかと光太郎は思った。机の上で上田は竹をつないで作った鍋敷きのようなものをいじっている。
「これかい、これは古代アステカで使われていた人の運命を占う算木なんだよ。そこに座って」
入り口から棚の横から中に入ると入り口の狭さから想像するよりも中は広くなっている。光太郎と飯田かおりは椅子をまわしてふたりのほうを見ている上田の目を見ながらソファーに腰をおろした。
「こっちにいるのはわたしの妻です」
上田の目は飯田かおりのほうに向けられていた。「背振くんの弟さんからこれが預かっていたものなんです」
光太郎はその風呂敷包みを上田に渡した。それを受け取ると上田は机の上でその包みをといて中に何冊ものノートが重なっているのを発見した。その中の一冊を手にとると上田はそのノートをぱらぱらとめくった。
「おしい学生をなくした」
上田はぽつりと言ったがここではなくほかの校舎にいる教師だったらこんなことは言わないだろうと光太郎は思った。外部にいた光太郎でも上田と背振無田夫が同じ傾向の問題を追求していたと云うことはわかった。
「背振無田夫くんが子どものころから追求していた問題の集成だと弟さんは言っていました。背振くんの遺品を整理していたら出て来たそうです。彼が死んでからだいぶ経っていますが当時はそれに手をつける気にもならなかったそうです。最近になってやっとふんぎりがついて整理したそうですが、そのときにこれが出て来たそうです」
「背振無田夫くんはなによりも資料に対する天才的直感があった。もっと経験を積めば彼はもっと新しいことを発見したに違いないよ」
上田は顔をしかめてふたりの方を向いたが変人と云う世間の世評よりも学者としての篤実さが感じられた。
「その風呂敷包みの中に彼が発見した新しいことがあると云うことはないんですか」
「それはこれから調べることだ」
光太郎は背振無田夫と一緒にいろいろな地方に行って古農の土蔵から意外な値のつく骨董品を見つけだした旅をしたことを思い出した。その骨董品の材質や技法、その当時の風俗から推し量ってその骨董の真贋を決定する。光太郎には背振無田夫の心眼によってそれが判断されていたと云う気がするのだが実は子どもの頃から積み重ねてきた知識の蓄積でそれが真贋を決定していたのかも知れない。背振無田夫が決定を下した骨董は市場に持ち出すと高値で取引をされた。光太郎はただ同然のものが意外な市場価値を持つことに驚き、こころを動かされてその仕事を学生の傍らにしていたのだが背振無田夫には別の目的や喜びがあったのかも知れない。ただその骨董を見る目には地道な判断の積み重ねによるものか直感によるものかはわからなかったがたしかに天才的なものがあった。思想的には上田も背振無田夫も傍流に位置している。具体的に云えば上田のやっていることと云うのはむかし、その地方や村によく云えば予言者、世間一般では霊媒師と呼ばれる人間がいればその子孫がどうなっているのかと系統を調べることである。きっとそういう人間は結婚もしなければ家庭も持たないからその研究はむずかしいと思うだろう。あにはからずやそう云ったひとたちが生涯独身を保っていて子孫を残さないかと云えばそういうことではなく、意外と結婚したり、そのほうに目覚めてから結婚していたりする。その流れを辿っていくことにあった。また逆に現代においてもそういうひとたちはいるから前の時代にさかのぼっていってその親やその親とどんどんと調べていくのだ。上田の仕事は学会ではまったく無視されていたがその上田に師事していたと云うことは背振無田夫はなにを考えていたのか。多くの旅の時間をともに過ごした光太郎と背振無田夫だったがその話しをしたことはなかった。その集成がその風呂敷包みにつまっているのかも知れない。しかし背振無田夫が残した遺言にその秘密を解く鍵があるのかも知れない。弘法池のほとりの家にどうしてももし自分が住むことが出来なくなったら光太郎を住まわせたいと願ったその遺言にである。
「今、しあわせかな」
唐突に上田はふたりの方を見て言った。光太郎も飯田かおりも突然のことに自分たちのことを言われたのだとは思えなかったがそこにいるのはふたり以外しかいなかったから、もちろん上田をのぞいて考えるとである。その質問が自分にされたのだと理解した。上田はそう言ったあとで肝油ドロップの缶のふたをあけると中からあめ玉をひとつ取りだして口の中に入れた。今までは上田に学者としての篤実さを感じていた光太郎だったが初対面の人間に向かって冗談らしくもなく、そういう質問をする上田はやはり変人だと云う世評である偏見が頭をもたげて来た。
「しあわせです」
そのとき飯田かおりは少し怒りながらきっぱりと言った。飯田かおりの口の端に緊張が見えるので飯田かおりが少し怒っていると云うことが光太郎にもわかった。そしてそのこころにはある覚悟が含まれていると感じた。その感情のとんがりを上田も気付いたと見えて、
「奥さん、僕は運命論者なんです。人が幸福になるのも不幸になるのも前世から決まっているのです。これもその人の運命を計る古代人の発明した道具なんです」
と言って机の上に置かれている竹で出来た鍋敷きのようなものをいじくった。
「背振くんも同じ考えを持っていたんですな。もしかしたらこの風呂敷包みと云うのも運命を完全に把握することが出来る方程式を見付けた証拠かも知れませんよ」
 弘法池のほとりの自分たちの家に戻って来てからもその不愉快な感じはふたりのこころの中に残った。
 「光太郎さん、すり鉢を持ってくださる」
台所で胡麻を煎っていた飯田かおりが光太郎に声をかけた。すり鉢の中にもう胡麻が入れられているようだった。片手にはすりこぎ棒が握られている。
「胡麻なんてすって、どうするんですか。そんなことをしても出世しないよ」
光太郎は台所に接している居間のほうでだらりとした姿勢をとりながらくだらない冗談を言った。
「光太郎さん、くだらない冗談を言っていないでこっちに来てよ。胡麻のおはぎを作るんだから」
「胡麻のおはぎ」
光太郎にはまだがてんがいかなかった。
「明日、背振無田夫さんのお墓まいりに行くんでしょう」
光太郎は飯田かおりに背振無田夫のお墓参りにまた行くことをうっかりと漏らしていた。飯田かおりはその言葉を覚えていたのだ。光太郎はこのまえ背振無田夫の墓に行ってそのあまり人が来ていないことを知り、すまない感じがして再び墓参りに行くことを決めておいた。そのときはおはぎのひとつでも供えようと思ったが行く途中で出来合いのものを買って行くつもりだった。しかし飯田かおりはそのおはぎを自分で作る気になっている。光太郎が目を離しているすきに胡麻までいっていてすり鉢の中に入れていたのだ。
「はやく、はやく、光太郎さん、来てちょうだい」
光太郎は重い腰を上げると台所の方に行った。と言っても三歩で台所に行くことが出来る。光太郎は台所と居間のあいだの敷居をまたいだ。
「この鉢を押さえていてちょうだい」
飯田かおりが顔をあげて光太郎の顔を見上げる。この仕事を光太郎はそれほど嫌いではない。もしここに幸福の芽を見つめるつもりなら、
この女がもしさげまんだとしてもすべてが許せる気がする。この小さな憩いの中にすべての幸福を見付けようと光太郎は無意識に思う。この胡麻のおはぎが墓の前に供えられるだけではなくて自分の口に入ると云うことも知っている。
「光太郎さん、ここ、ここ、ここを押さえて」
飯田かおりは指で指示した。光太郎のこころの中には春の日差しをうららかに受けた縁側でひなたぼっこをしているすべてに満ち足りた老夫婦の映像が浮かんでいた。その老夫婦と云うのはもちろん年取った自分と飯田かおりの将来の姿である。なにごとも受け入れ平穏無事な満ち足りた人生、このすり鉢を押さえていると光太郎のこころの中にはそんな約束された将来が約束されている気がする。飯田かおりは細い腕で力いっぱい、すりこぎをまわした。光太郎はほのかな夢の中に身を浸していたので力いっぱいすりこぎをまわす飯田かおりの力に負けてすり鉢がぐらぐらした。
「そんなに力いっぱいすりこぎをまわさなくてもいいよ」
光太郎は飯田かおりに抗議した。
「そう」
飯田かおりはその棒を握る力を緩めた。実は上田に「しあわせ」かと聞かれた飯田かおりのこころは光太郎以上に傷ついていたのだ。その反動でその棒を力いっぱいまわしたかも知れない。飯田かおりは上田の言葉を忘れたかったのだ。さげまん女、そう云う評価は光太郎と結婚して下された評価だというばかりではない。たしかに飯田かおりと結婚してからの光太郎の幸福曲線は下降線を辿っている。光太郎の家は代々の大金持ちとして父親の事業をついで悠々自適の生活を続けるはずだった。しかし飯田かおりと結婚してから家の事業は失敗して父親は自殺した。そのことと自分が関係があるのではないかと飯田かおりは思った。そしてそれ以上に自分がさけまん女ではないかと思う事件が過去にはあったのだ。飯田かおりのこころには悲しみが広がった。その悲しみを振り払うために飯田かおりはすりこぎを力いっぱいまわしたのだ。それはまた自分はけっしてさげまん女ではないと云うなにものかに対する抗議の行動だったかも知れない。そのことを光太郎はわからなかった。夫婦で台所ですりごまをすると云うのどかな情景に身をゆだねて、飯田かおりがすりこぎを握る力もゆるんだので光太郎はある考えが浮かんだ。将来の映像として子どももいたほうがいいのではないかと云うことだった。
「子どももいたほうがいいな」
額のあたりに汗を浮かべていた飯田かおりは光太郎の顔を見た。
「地主の家のふたりの娘を見ただろう。あんな可愛い娘が欲しいと思わないかい。そうしたら庭にボート乗り場も作って弘法池に乗り出して行って釣りをするのもいいし、弘法池の真ん中にボートを浮かべて昼寝をするのもいいよ」
「地主さんがそんなことを許してくれるかしら」
「そのぐらい許可してくれるだろう。なにしろ自分たちの娘にあんな高価なおもちゃの自動車を与えて人の家の庭の花鉢を壊してしまうぐらいなんだから。あのおもちゃの自動車がいくらぐらいするか、きみは知っているかい。僕の給料の二ヶ月ぶんだよ。それに日本国中のどこを捜してもあんなおもちゃは売っていないよ。きっと特別のルートで取り寄せたに違いないさ」
「へえ、そんなにするの」
「きみの考えていることを当ててみようか。あのふたりの娘が可愛いと云うことには同意しかねると云うことなんだろう」
飯田かおりはなにも答えなかった。
「もちろん僕らの子どもはあんなふたりの娘よりずっと可愛いさ、僕は人並みだし、飯田かおりはとびっきりな美人なんだからな」
そう云われて飯田かおりはうれしそうにほほえんだ。そんなたわいもない話しをしているうちに飯田かおりは自分がさげまん女かどうかと云う命題はどこかにいってしまった。
 ごまはすっかりとすれたので飯田かおりは食器棚のところから醤油壺を、棚の上から砂糖壺を出してすり鉢の中の中のすり胡麻の中に入れ、手早くしゃもじで混ぜ合わせた。こんろの方にはせいろが置かれ、怒った親父のはげ頭のように湯気をたてていた。そこには水でふやかした餅米が入っていてその湯気によって餅米はふける。胡麻をする前からその作業を始めていたのでちょうどよい具合に餅米は炊きあがった。それから飯田かおりは食器棚の中から輪島塗りの重箱を取りだした。まず餅米を丸めてそれを味をつけたすり胡麻にまぶして胡麻のおはぎにして重箱の中に並べる。その重箱はふたつ作るつもりだ。ひとつは背振無田夫の霊前に供え、ひとつは自分の家で食べようと思う。
 光太郎の家の台所は弘法池に面している。台所の流しの窓から弘法池が見えると同様に流しの横の勝手口のドアを開けておくと弘法池が見える。このとき飯田かおりは勝手口の戸を開けたままでこの作業を続けていた。餅米を丸めて重箱に詰めていくと云う作業を続けているあいだ大きな岩と地面のあいだに潜んでいるがま蛙のの大きな黒い瞳に見つめられているような気が光太郎と飯田かおりはした。その瞳からはなんでも透視してしまうエックス線が出ているようだった。赤い車を停めてその前に地主のふたりの娘が立っていた。そのエックス線は重箱の中に注がれている。
「ふたりともどうしたの」
飯田かおりは餅米を握る手をとめてふたりの娘に声をかけたが前もって地主の家の家政が金包みと手みやげを持ってあやまりに来ていなかったらこんな態度もとれないだろう。
ふたりの幼い娘は指をくわえながら物欲しそうな表情をしてやはり重箱の中の未完成のおはぎを見つめてる。
「食べたいの」
飯田かおりはたずねた。ふたりはこっくりと頭を傾けた。大金持ちの家のふたりの娘とは思えない態度だった。もしかしたら健康上の理由から地主はふたりの娘に腹いっぱい食事を与えると云うことはしていないのかも知れない。
「おはぎを作るのを手伝ってくれたら出来たおはぎを食べさせてあげる」
するとふたりの娘は未開人のようにすべて肯定と云うポーズをして両手を手の前で合わせ、首を前後に忙しく振った。この娘の手伝いによって完成したおはぎは大きさもかたちもまちまちだったがかたちや大きさの揃っているものを墓に供えるものとした。その他のものを家で食べることにしたが娘たちは大人なみの食欲を示した。光太郎は満足した。これが家庭の幸福と云うものだろうか。将来に持つだろうことになる自分たちの子どものことも現実味を持って想像出来た。
「あの車はお父さんが買ってくれたの」
「そうだべ」
大金持ちの子どものくせに言葉は下品だった。
「あの車は日本に一台しかないだべ。父ちゃんがイタリア大使館を通じて輸入してくれたんだべ。エンジンは三十八シーシーだべ」
「ずいぶんと中途半端な排気量だね」
「イタリア製のスクーターのエンジンをそのまま使っているだべ」
「それはイタリアでは公道を走っているの。そんな自動車を日本で走らせていいの」
「いいだべ」
ふたりの子どもの答えは明快だった。
「父ちゃんはイタリア大使とも友達だべ」
光太郎は背振栗太が地主の下平が万葉風の和歌を詠むと言っていたことを思い出した。
「きみたちのお父さんは歌を詠むと云う話しを聞いたことがあるけど」
「歌とはなんだべ。父ちゃんは都々逸が上手だべ」
すると小さな方の娘が手振りをまじえて変な調子で語りだした。
「うめがえの手水鉢、叩いてお金が出るならーばー、もしもお金が出たときはー、そのときゃあ」
ほっとおくとこのふたりの子どもはどんどん変な方向に進んでいくようなので光太郎は話題をもとに戻した。
「そうだ。飯田かおり、干し柿があったんじゃない。ふたりとも干し柿は好きかい」
「好きだべ」
「干し柿をあげるからきみたちの車に乗せてくれないかい」
「ええだべ」
光太郎はこのおもちゃの車を見たときから、この車に乗って見たかった。おもちゃと云っても三十八シーシーのエンジンはついているし、少しせまいが子どものふたり乗りで大人だったらひとりは乗れた。おはぎを食べて腹のくちくなったふたりの子どもはなにごとにも鷹揚だった。飯田かおりはその光太郎の様子をあきれるでもなく、見ていた。赤い車は遠い筑波山を背景にすくっと立っている。子供のおもちゃだとはとても思えない。光太郎がそのせまい座席に乗り込むとステンレス製で星の模様の刻印されたパネルにはエンジンの回転計やスピードメーター、始動用のチョークボタンやスターターモーターのスイッチがついている。ハンドルはレーシング仕様になっていて車の下のほうにはアクセルやブレーキ、横には変速レバーがついている。ふたりの子供はまるでレーシングチームの監督のようにその座席に頭を突っ込んだ。
「これがスターターだべ。クラッチを踏みながらスターターを入れるだべ」
ふたりの子供の言うとおりにするとエンジンはぶるぶると快適な音をあげた。光太郎はさすがに弘法池一周をすることはなかったが池のほとりを行ったり来たりして運転をした。光太郎は満足した。久しぶりに自分を解放したような気持ちになった。しかしじっと見ているふたりの子供の目のエックス光線に気付いた。その目は温かくもなかったが冷たくもなかった。しかし、自分が大人だと云うことを自覚させるには充分だった。ふたりの子供に干し柿を与えると無言でそれを受け取り、車に乗り込むとふたりは千亀亭のほうへ走って行った。
「まるで子供みたいだったわ」
台所の勝手口で腰掛けて庭のほうを見ていた飯田かおりがなかばあきれた口調で言った。
 その晩の食事は夕方に食べた胡麻のおはぎですませて六畳敷きの居間でふたりはくつろいだ。飯田かおりは英語基本文型五百例と云う単行本をひらいて黒い活字の中に赤い文字の混じった本を読んでいた。飯田かおりは外国人と話したことはなかったが外国に行ってみたいと云う憧れを持っていて外国の小説なんかも読んだりする。英語の小説も辞書を使って読んだこともある。最初にそんな小説で読んだことのあるのはサイラス・マーナーだったが外国に住んだことのない飯田かおりにはその内容はよくわからなかった。飯田かおりはそんなむかしの時代遅れと云っても良い参考書を見ると昔のことが思い出された。
 光太郎はSTARと正面に金色のプレートの貼ってある五球スーパーのラジオのスイッチを入れるとチューニングのパネルのうしろにある電球がついて受信している電波を示す文字盤がだいだい色に照らされた。文字盤の横の方には丸窓がついていてその中に電波望遠鏡を小さくしたような真空管が横向きについている。光太郎がその同調つまみをいじくると電波を受信するたびにその真空管の頭の上のほうに入っている電波望遠鏡のようなものに映し出されている蛍光塗料を電気的に発光させている円グラフのようなものが開いたり閉じたりする。五球スーパーの五球と云うのは真空管が五本ついていると云うことでこのラジオの場合はその同調指示器がついているので真空管が六本ついているのだった。真空管は熱が出るのでラジオの前にも後ろにも空気を抜くための隙間が出来ている。その隙間から真空管がついているのでそのついているオレンジ色の光が見える。
 光太郎の子供の頃は真空管は三本か二本しかついていなかった。多くとも四本だけだった。真空管のまったくついていないラジオもあった。そんなラジオは電灯線もいらなかった。そのかわりスピーカーに工夫がされていて電気的ではなく機械的に音を大きくする工夫がなされていた。
 あいかわらず飯田かおりは英語の本を見てなにかの例文を覚えようとしている。その横顔は女子学生のようでもある。外見がそう見えると云うことは彼女の内面の意識がそうなっていると云うことだろうか。相手にされない光太郎はラジオの同調つまみをいじるとラジオのスピーカーから音が出てきた。光太郎はすっかりとくつろいでいた。深山に住む野生の熊が人に知られていない温泉に入っているよりもくつろいでいただろう。今日は上田のところに行って多少不愉快な思いをしたがそのあとに良いことがふたつもあった。ひとつは胡麻のおはぎを食べたことでもうひとつはあの妖怪じみた地主の娘たちのゴーカートのようなエンジン付きの車に乗って運転を楽しんだことだ。もしかしたら背振無田夫の墓に墓参りに行ったので死んだ背振無田夫が彼にプレゼントをくれたのかも知れないといいように解釈した。
 そしてラジオから光太郎の気に入った番組が始まっていた。それはトリオの漫才師のやっている番組で、そのトリオの漫才師はアメリカのさんばかトリオと云う番組にヒントを得て結成されていた。誰がそういう判断を下したのか知らないが外見が似通っていた。そのメンバーの構成がひとりがおかっぱ頭、ひとりはお茶の水博士をやせさせたもの、もうひとりはでぶで構成されている。その内容は伊勢物語を喜劇仕立てでやるムと云うものだった。主人公のおとこはおかっぱ頭がやっていた。ある文学者の話によると西洋の恋愛話に出て来る主人公は英雄であったり、男性的で運命と闘って買ったり負けたりして話しが展開していくが、日本の古典では社会的に力のないものが運命にひきずられてもののあわれをさそう展開になると云うものが多いそうだ。そういった点ではおとこは天皇の隠し子でいろいろなところで恋愛のごだごたをおこしてもののあわれをさそうのにはぴったりしている。この精神構造がどういうところから出ているのか、平安時代からはじまっていることなのか、光太郎にはわからない。舟の中で途方に暮れる主人公の姿が目に浮かぶ。もとの伊勢物語がちゃんとした話しなのでそれを滑稽にした漫才師たちの話しはおもしろかった。光太郎はすっかりと機嫌がよくなって台所からウイスキーの瓶を持って来てちびりちびりとした。
「光太郎さん、あなたがウイスキーを飲むなんて珍しいですわね」
飯田かおりが本から目を離して光太郎を見た。
「うん、気分がいいんだ」
光太郎は自分の姿を他人が見たら宮沢賢治のカイロ団長に出てくるあまがえるに見えるかも知れないと思った。光太郎がウイスキーをちびりちびりしていると光太郎の気に入っている番組は終わってしまい、今度は素人のインタビュー番組のようなものが始まった。このまえ聞いていたときは東京湾をぽんぽん蒸気で掃除していると云う人間が出て来て東京湾の底のほうにたまっているゴミがどんなものかと云う話しになっていて途中で光太郎は寝てしまったのだが、今日は日本国中の温泉を入りまくったと云う人間が出て来た。それを仕事にしているわけではないから休みの日にそのライフワークをおこなうそうである。比較的休みの多い仕事についていると云う話しだったがそれでも数をこなすために地図とくびっぴきになって近隣にある温泉をチェックして一日に三個も四個も入るそうである。それで温泉に入る醍醐味もくつろぎもないのではないかとインタビューアが聞くと、そうではなく温泉の醍醐味はやはり味わえると言うのである。ここでインタビューアと云うのは茶話会の司会者と云うくらいの意味である。この話しを聞きながら光太郎は感心した。電気も来ていない山里でランプの明かりの中でこの人物が温泉に入っている姿が目に浮かんだからである。そしてあまり意味のないようなこの仕事か趣味かはっきりしないような行動がその温泉名人にどう作用しているのだろうかと思った。それほど温泉が好きなのだろう。ここで光太郎は経験と云うことばが浮かんだ。経験が人を形作ると云うことだ。そう思うと自分は毎日なにをしているのだろうかと思う。
 そしてその番組は二部構成になっていてその温泉研究家の次の出演者が登場した。つぎの出演者はある映画会社の社長の息子で日本から出て世界的な映画プロデューサーとして世界を飛び回っていると云う人物が出て来た。その世界中に映画を配信する裏話とかスターの知られざる横顔を紹介するのが題目になっている。なぜかその出演者は夫婦で出てくるらしい。ラジオから流れてくる声が聞こえた。司会者がそのふたりを紹介すると夫婦はその返事をした。光太郎はその声を聞くと出口のない路地裏の行き止まりに追いつめられてなにものかに恫喝されているような圧迫感を感じた。自分の心臓が脈打っているのかわかった。名字が変わっていたので最初光太郎はわからなかったが、その名前のほうは知っている。声も聞き覚えがあった。光太郎がまだ大金持ちで光り輝く世界にいたとき知っていた女だった。知っていただけではない。深く関わった女だった。女の声はピンク色に響いていた。
 その女は大金持ちの光太郎とつき合っていたのだが、大金持ちと云っても所詮地方の名士に過ぎない光太郎を捨てて、東京に住むある大会社の御曹司に鞍替えした。そしてその女は金だけでは物足りなく思ったのか、今度は名声も追求し始めた。彼女がどんな手腕を持っていたのかは今もって光太郎にはよくわからなかった。彼女に金の面でも時間の面でもすっかりとあやつられていた自分の過去の姿が情けなくも恥ずかしくもあった。その女がたとえ大金持ちの世界的な映画プロデューサーの婦人として収まっていたとしても光太郎の状態が今のようでなければこんな感情は起こらないだろうと彼は思った。今までの上機嫌はすっかりと消えてしまってみるみる光太郎の表情は森の暗がりに住むみみずでもこうはならないだろうと思えるぐらいに暗くなった。光太郎のこころを絶望が占めた。酒の酔いが変なふうに作用して本来は心地良いもののはずの酩酊状態がみぞおちのあたりが黒くどす黒いものがたまっているような不快感で満たされた
「寝る」
光太郎はぽつりと言った。いっしょの部屋で英語の参考書を読んでいた飯田かおりはなにが起こったのかわからずぱたんとその本を閉じた。
「ふとんはひいてありませんよ」
「自分でひくよ」
光太郎は暗闇に生息する夜行動物のようだった。夜行動物の目は獲物を追い求めてらんらんと輝いているものだが、光太郎の目は死んでいる。となりの部屋が寝室になっているので光太郎はよろよろと立ち上がるとふすまを開けて隣りの部屋に入った。ふとんはおりたたたまれて置いてあった。光太郎は敷き布団だけをひろげるとその蒲団の中に倒れ込んだ。飯田かおりはなにが起こったのかわからなかったがいっしょにラジオを聞くともなく聞いていたのでその原因がわかった。いぜんに何度かその女の名前を聞いていたし、その女が光太郎といぜんつき合ったことがあると想い出話しで光太郎が話したのを聞いたことがある。なにかのおりにその女がその映画プロデューサーと結婚したということも別の機会から知っていた。電気もつけないその部屋に入ると光太郎は掛け布団もかけず向こうを向いて寝ている。
「かぜをひきますよ」
光太郎のつむじが見えた。光太郎はなにも言わずにかけぶとんもかけないまま穴の中に住むレッサーパンダのように丸くなっている。
「俺の人生は失敗だったよ」
向こうを向いたまま光太郎がぽつりと言った。
飯田かおりは無言で薄がけをかけると酔っぱらった光太郎はいつの間にかすやすやと寝息をたてている。
「この人は弱い人なんだ」
飯田かおりは思った。

ぶんぶく狸 第六回
「光太郎さん、はやく起きて。すっかりお日様は昇っていますよ」
飯田かおりは木で出来た雨戸をがたぴしといわせながら開けると日の光が障子に差し込んで電灯よりも明るい白い色で輝いている。朝起きる頃には外もすっかりと暖かくなっている。目の前にはいつものように弘法池が見える。はるか向こうには筑波山の姿が見える。飯田かおりはその山の姿を見ると自分の父親のような気がした。そしてすがすがしい気持ちがした。飯田かおりには父親がいないからなおさらのことだ。なにもその山は言わないが飯田かおりや飯田かおりの家のことをじっと見ている。庭に植えている南天の赤い実が太陽にきらきらと輝いている。飯田かおりはその南天の実を見て赤い色をぎゅっと凝縮したようだと思った。ただ色を凝縮しただけなら色は明るさを失って黒くなってしまうが赤い色の要素だけを凝縮したと言う意味で物理的な意味ではない。美学的な意味だ。いつも思うことだが毎日毎日、日が沈んでまた太陽が上がってくると云うことは大変なことだと思う。人は眠りについて疲れを癒し、昨日と云う過去を振り払う。飯田かおりは雨戸を開け放した廊下で空気を吸い込むとやはり田舎の匂いがした。
 のっそりとよっぱらいが起きて来た。もうすっかりと酔いはさめているらしい。でも髪はもじゃもじゃで髭も少しのびている。太陽の光は公平に彼にもその光を浴びせた。
「もう、朝か」
「お風呂にでも入ったほうがいいんじゃないの」
「風呂は沸いているの」
「沸いていない。光太郎さん、入るならこれから沸かしますよ」
「近所に温泉でも沸いていればいいんだけどな」
「このへんに温泉はあるのかしら」
「温泉ぐらいあるだろう。田舎なんだから。この弘法池の水源から水がわき出しているらしいよ」
「光太郎さんは温泉の定義を知っているの。温泉名人の話を聞いていたんじゃないの」
「忘れちゃったよ」
光太郎は頭をかいた。
「じゃあ、わたしが教えてあげる。地下からわき出してくる地下水で温度が二十五度以上あって、カリウム、硫黄、ラジウム、なんかの化学物質のどれかがある一定以上含まれているということなのよ」
「やっぱり僕よりふたつ年下だから記憶力がいいね」
「当たり前よ。光太郎さん、おはぎの用意は出来ているからね。わたしも今日は出掛けようと思っているの。光太郎さんより早く帰ってくるつもりだけど」
「さっそく自転車に乗ってみるつもりなんだね」
「そうよ」
「光太郎さんばかり、ここを散歩しているなんてずるいわ。私も光太郎さんの買ってくれた自転車でここを散歩してみるつもりよ」
 光太郎に胡麻のおはぎを持たせて背振無田夫のお墓参りに出してから飯田かおりは光太郎に買ってもらった自転車でこの田舎町を散歩してみようと思った。光太郎の家からこの町のメインストリートまで歩いて行くのは少し大変だ。買い物をしようと思っても近所にはない。メインストリートまで行かなければならない。それで光太郎に自転車を買ってもらったのだ。光太郎が出発してから家の用事をある程度すませて家の用心をすると飯田かおりは家の前の砂利道に自転車を出してサドルに腰をかけてみた。飯田かおりの丸いおしりが自転車のサドルにうまい具合に乗っかった。その姿は男の目を振り向かせるほどの効果はあるが、そんな男はこの近所には住んでいない。光太郎の家の離れたところにやはり下平の建てた建て売りが二軒あるが一軒は空き家でもう一軒の方はむかし国会で書記をやっていたと云う男が定年で退職して夫婦で悠々自適の生活を送っている。土地のことを云えば光太郎の家は借地だったがそのもと書記は土地も下平から購入したらしい。たまたまその家の前を通ったら家の中から尺八の鳴る音が聞こえた。 飯田かおりは家の前の砂利道に自転車を出してからメインストリートに行く左とは逆の右の方にハンドルを向けた。その砂利道は少し上り坂になっていて砂利道の上がりきったところから少し下っていけるようになっていると云う話しだが飯田かおりはまだ行ったことがないからことの真偽はわからない。飯田かおりがたまたまその方に行こうと思ったのはこのまちの駅に行ったときこの町の名所図絵と云うのが切符売り場の向かいの壁に貼ってあってその地図には弘法池が中心の位置に書かれていたのだがもぐら神の伝説のあるちょうど逆のほうに弘法池の二十分の一くらいの大きさでおおさんしょう池と云うのがあった。そこにもやはり嘘か真かわからない伝説があり、その内容がごちゃごちゃと書かれていた。それが男女の愛憎に関したものでおおさんしょううおが女に化けてどうしたこうしたと云うものだったが飯田かおりはその沼に興味を持った。飯田かおりにとって光太郎ははじめての男である。飯田かおりはどろどろとした男女の愛憎などと云うことはまったく知らなかったし、経験もなかった。そんな云われの沼を見てみようと思ったのはむしろこわいもの見たさに近い好奇心からだった。もしかしたら飯田かおりのこころのおくの方にはそんなものに対する興味があるのかも知れない。
 砂利道を自転車で走って行くと砂利の上の少し安定の悪い道を走っているので少し振動するし、早く走ることは出来ない。道の片側には申し訳のような茶畑がある。誰が栽培しているのか、飯田かおりにはわからなかった。茶畑の隣りには農作業で使うための道具や材料が収納されている掘っ建て小屋がある。そのまわりは木の杭が打ち込まれていてその杭を一回りするように針金が巡らされているのだがその針金もすっかりと錆び付いている。その掘っ建て小屋の軒の下には長い竹が荒縄で結ばれてぶら下がっている。その掘っ建て小屋の前には飯田かおりの家と同じように南天の木が植わっていて赤い実をつけている。その茶畑を越えるとぜんぜん手入れをされていない畑が続いた。畑のうしろのほうは孟宗が生えたいように生えている。地面が孟宗の落とした薄黄色い葉で覆われている。道はゆっくりと坂になっていて飯田かおりが二十分もペダルを漕いでいると坂を上がりきった場所に出た。その坂も来る途中に上がったり下がったりしていてここが坂の頂上になっているんだ、とわかったのはそこからさきが明らかに下り坂になっていてそのまままっすぐ行くと小さな山の中腹にぶっかってしまう。そこを左に曲がると竹藪の中に人の通れる小道があってもちろんそこも自転車で行けるようになっているので飯田かおりはその道を行くことにした。五百メートルくらいそのやぶの中の道を走り、やぶが途切れると急に坂になっていてゆるやかなすり鉢のようになっている場所にどろの色をした水が溜まっていて大きな葉っぱを持った水草が途中からするどい角度を持って茎が折れているのがたくさん水中から首を出している。男女不問と変な文句の書かれた看板が立っている。これがおおさんしょう沼だと云うことが飯田かおりにもわかった。まわりを孟宗と林に囲まれているので昼間から薄暗い。沼の真ん中には岡倉天心がどこかの海岸に建てたようなお堂のような住まいのようなものが建っていて沼の右手のほうからところどころ朽ちて穴のあいた小橋がついていて行けるようになっている。ますます飯田かおりのこわいもの見たさの欲望が刺激されて飯田かおりはその小橋を渡ってその六角堂の中に入ってみることにした。飯田かおりはその小橋の入り口のところに自転車をとめた。六角堂もその橋も古い木造の建物特有のオリーブグリーンに大量に白い絵の具を混ぜたような色をしている。その小橋を渡って行くと橋の途中の板が朽ちていてその下に名前のわからないうちわよりももっと大きい葉っぱがうかんでいる。こんなところに来る人はほとんどいないように思われる。沼の中央まで来ると六角堂の入り口の戸は開いていた。入り口の中から六角堂の中央が見えたのだがそこにはまた奇妙なものが置かれていた。六角形の上がり框のようなものがしつらえられていてその上に木製の像が置かれている。その像がまた奇妙なものだった。大きなおおさんしょううおがとぐろを巻いてひれ伏している上に吉祥天女がそれを踏みつけているように立っているのだ。これがどのような仏教的な教義にもとづいて立てられたものではないことはあきらかだった。その奇妙な立像に目を釘付けにされていると飯田かおりは心臓が飛び出すほどびっくりした。
「久しぶり」
入り口のかげからにゅっと首を出した者がいた。
「上田先生」
背振無田夫の指導教官であった上田がここにいたのだ。いつもはと云うよりも光太郎の母校で会ったときはフランスのどこかの宮殿の屋根で魔よけになっている魔物のようにぶっちょうづらをしていたのにここでは笑みを浮かべている。
「驚かせないでください。びっくりしましたわ」
「ふふふふ。びっくりさせて申し訳ない」
上田は口をもぐもぐさせてあやまったがやはりにやにやしていた。上田はレンズの上がエボナイト、下が金属になっている眼鏡のつるをいじくってまた空気のもれたような笑い声をあげた。そのとき目尻のしわが変な具合にできた。
「ふひょ、ふひょ」
「なんで、ここにいるのですか」
飯田かおりは上田の研究室で「しあわせか」などと云う変な質問をされたときからこの変人の学者には反感を持っていたが、なぜここに上田がいるのかは疑問に思っていたのでむげにも出来なかった。
「ここは研究の宝庫だよ。弘法池を筆頭にしてね。もちろんここもだ。三輪田さんはここがおおさんしょう池と呼ばれていることを知っていましたか」
「ええ、駅の観光図会で見て知っています。それで興味を持って来たんです」
「愚劣じゃ、愚劣じゃ、ここの学問的価値はそんな観光図会にのせるほど低級なものではない」
「愚劣」
飯田かおりは驚いて上田の顔をじっと見た。学問的なことなど飯田かおりが知るわけがない。だいたいいっぱんの人間がお祈りのときに祈祷師が祭壇の燃える火の前にあげるのがさんまのしっぽなのか鮭の頭なのかと云うことなどなんの興味もないだろう。煎じ詰めて云えば上田にしろ死んだ背振無田夫にしろさんまか鮭かに興味と云うよりも第一の主眼にしている人種と言えるだろう。飯田かおりはたぶんこの上田と云う学者が日常生活における精神活動は単純な人間なのではないかと思う。しかし、その研究生活においてはどんな思考回路を有しているのかわからない。ただふだん会いたいと云う人間ではないことは明らかである。そしてただたんに日常生活における単純な反応の仕方がある部分くずれているのではないかと思った。げすな言葉で言えば変態だと云うことではないか、古代の半ば化石となった人骨にあるやじりのあとを見て性的興奮を覚えるのではないかと思った。しかし、そういった方面にはまったくのなんの知識も素養もない飯田かおりではあったが光太郎とふたりで背振無田夫の遺品の研究を彼の研究室に届けた結果ではないかと云うことはわかった。それでこの変人の学者がこの土地に興味を持ち、飯田かおりにもこころを奪われているのではないか、しかし、上田の少し残っている男の部分を飯田かおりが刺激していることを彼女自身は知らなかった。
「背振無田夫さんの遺品からここに目を付けたんですか」
すると上田はなにも言わずににやりとした。飯田かおりの予想は当たっているらしかった。六角堂の内部のはじのほうに上田の研究道具が入っているらしいリュックが無造作に投げ出されている。飯田かおりはこの年になってもひとりも弟子もいず、リュックを背負ってこんなところにとぼとぼとやって来た上田を少し哀れになった。しかし飯田かおりはそれを上田が望んでいると云うことを知らない。ひょこひょことリュックひとつで研究対象の場所へ行き、弟子は死んだ背振無田夫だけで満足していたのだ。
「背振無田夫はやはり天才だった。自分の弟子であることを誇りに思うよ。自分がもしここに住めなかったら飯田かおりさんのご主人にここに住まわせるように遺言を残したそうですね」
「ええ、そうです」
「じつはわたしもこの町に引っ越して来たのですよ」
いつのまにか上田の顔は学者のそれに変わっていた。
「いつですか」
「五日前」
「お勤めは」
「通勤時間は二倍になったけど通えない場所ではない」
「本当ですか」
飯田かおりは不快感を押し隠した。こんな変人に近所に住まわれるのはいやだ。
「ここはわたしの研究の宝庫ですよ。そしてあなたも」
あやしい光が上田の目に光った。
そう言った上田の口調にはたしかに男が女にみせる不純なものがあった。変人と云っても特別に上田が性の倫理観が欠如しているというわけではないかもしれない。そこにはふたりだけしかいなかったからだ。それもふだんは誰も来ないような場所だった。そこで飯田かおりと顔をあわせているのである。
「なんでわたしが宝庫なんですか」
飯田かおりはぷりぷりして口をとがらした。
「あなたはどこの出身ですかな」
上田は学者らしくもなくにやにやして飯田かおりに聞いた。
「どこでもいいでしょう。わたし帰ります」
飯田かおりは向こうを向いたがやはり上田はにやにやしている。そのことを飯田かおりは知らなかった。飯田かおりは六角堂の橋を渡りきると自転車のところに行き、スタンドを跳ね上げてまたサドルにおしりを乗せた。
「なんでわたしが宝庫なのよ。失礼だわ。わたしの生まれ故郷がどこでもいいじゃない」
飯田かおりはかっかしながら自転車のペダルをふんだ。頭の中には上田のいやらしい顔が残っている。その映像を振り払うようにペダルを踏む足に力をいれた。そしてまたもと来た道を帰ることにした。飯田かおりの怒っている精神状態は自転車の運転を不安定にした。ハンドルが必要以上にふれて、来る道の途中にあった茶畑が見えるところまで来たときに道のはたに寄りすぎて落ちている小枝をはねあげた。はね上げた小枝はどういう具合かチェーンと前の歯車のあいだにはさまった。飯田かおりは空ペダルをふんだ。ペダルを踏む足に力が入らなかった。
「きゃあ」
飯田かおりは自転車から降りて横から自転車を見るとチェーンがはずれている。飯田かおりは困った。ここから自転車を押して帰るのは大変だ。この時代には携帯電話などと云うものはなかった。もちろんここはど田舎で近所に電話があるとは思えない。ここに一時的に自転車を置いて帰ろうか、飯田かおりは思案に困って自転車を見ていた。すると誰かの視線を感じた。
「チェーンがはずれただべか」
「ふん」
飯田かおりが鼻を可愛く鳴らして振り返ると中学一年生ぐらいの坊主頭の男の子がものおじをしながら飯田かおりの方を見ている。全体の印象から中学の一年生だと飯田かおりは判断したのだが平均に比べると少し背が低いかもしれない。どことなく天文クラブにでも入っていて理科室の二階から夜空をにらんでいるかもしれない。そしてクラブの発表会には大きな模造紙にガラス瓶に入ったマジックインキで天体図を描いている姿が飯田かおりの頭に浮かんだ。ごくごくふつうの中学生に見える。
「近所の子」
「うん」
たぶんむかしから代々ここに住んでいる家の子供なんだろう。
「おねえさん、道具があるから直せるよ。あの茶畑の向こうに掘っ建て小屋が建っているだべ。あの中に大工道具が入っているからな。ドライバーもレンチもあるだべ」
「かってにそこのを使っていいの」
「いいだべ。あれはうちの家の持ち物だべ」
坊主頭は上目使いで飯田かおりのことを見ている。そしてさびた鉄条網で囲まれたどこの田舎にでもあるような納屋のほうを見た。納屋の軒先には女郎蜘蛛が巣を張っていて黄色と黒のしましまの体で獲物をねらって巣の中央のあたりで逆さになりながらじっとしている。飯田かおりは既婚者ではあるがおねえさんと呼ばれてうれしかった。
「ええ、いいわ。行きましょう」
朽ちた木の入り口が道に面した逆のほうにあってそこから入れると飯田かおりは気付かなかった。光が漏れている。その光はこの掘っ建て小屋の板と板の継ぎ目から入り、さるかに合戦に出て来るような農家の古道具に当たって、光と影の境界を明確に形作っている。こんな大きな臼は久しぶりに見たような気がした。そして光の当たっている中で飯田かおりの目をひいたのは壁に立てかけてある折り畳み式のイーゼルだった。そのイーゼルには書きかけの絵がかかっている。それがルノアールの裸婦像の模写だと云うことはすぐにわかった。
「家族の中に絵を描く人がいるのね」
「うん」
中学生は恥ずかしそうにうなずいた。その返事の口調も少しなまっている。この大画家が陶器工場の絵つけ職人から出発したと云うことを飯田かおりも知っていた。その腕を見込まれて画家としての道を歩み始めて印象派と歩みをともにしながらそこを離れて女性の裸体画に生命を表現しようと試みた。もちろんその挑戦は成功したわけだが晩年は手が不自由になって手に絵筆を縛り付けて絵を描いたと云うことや、視力が衰えたこと、豊かな色彩がその絵の具の薄塗りの技法から生じていることは知らなかった。その模写が色鮮やかなことは漏れた光がそのキャンパスにあたっているからだろう。中学生はそのキャンパスのところに行くとあわてて絵を裏返した。そのイーゼルの足のそばには薄い茶色をした絵の具箱があった。そこから少し離れたところに脱穀機やくわやすきがあった。そして農作業の道具の横に置いてある工具箱を取り上げると道においてある自転車のほうに行ったので飯田かおりもそのあとをついて行った。
「簡単に治ると思うよ」
中学生の口調はやはりぶっきらぼうだった。中学生がかがんで自転車のペダルを持っているのを飯田かおりは上から見下ろしていた。中学生は工具箱からドライバーを一本取り出すとチェーンとペダルのほうについているギャーの下のほうに入れてペダルを逆回転させるとすんなりとチェーンはギャーにおさまった。
「ありがとう」
「またはずれるかも知れないだべ」
中学生はまた道具箱からスパナを取り出すと今度は自転車の後輪のほうについているチェーンの張り具合を調節するナットをいじってまたペダルを持って後輪を回転させた。
「これでいいだべ」
「ここのお茶畑も君の家でやっているの」
「そうだべ。でもこんなぐらいの茶畑では小遣いぐらいにしかならないだべ」
農家の経営と云うのは思ったよりも大変なのかもしれない。それがこの中学生の頭の上からおおいかぶさっていて頭の上から木槌でたたかれているように自分自身を縮ませているのかも知れないと飯田かおりは思った。
「ありがとう。君の名前はなんて云うの」
「いいだべ」
中学生はやはり飯田かおりを上目遣いで見るだけで何も言わない。
「わたしは弘法池に新しく建て売り住宅が出来たじゃない、あそこに住んでいるの」
「知っているだべ」
そう言った中学生の声は小さくて飯田かおりにはよく聞こえなかった。飯田かおりはまた自転車にまたがるとペダルにかけた足に力をこめた。中学生のくちびるがかすかに動いてなにかを言おうとしたが声は出てこなかった。それだけだったらその中学生のことを飯田かおりは忘れていたかも知れない。
 駅のそばにある煎餅屋の横に細い道があってそのさきがゆるい坂になっていてのぼって行けるようになっている。その坂のさきのほうが赤や桃色の色で満たされている。買い物にこの町のメインストリートのほうに来るたびに飯田かおりはその色が気になっていた。思い切って煎餅屋の横に自転車を止めてその小道を登って行こうと思った。その赤や桃色はつつじの花の群生だった。しかしそれは人工的に植えられたものだろう。そこはゆるやかな坂になっていてつつじの花の花畑になっている。しかし道がついていてさらに上のほうにあがれるようになっていたので飯田かおりはその道を上がって行った。すると高さが二メートルもありそうな大きな御影石の柱が二本立っていてその柱の並びには塀があるはずなのに塀もなく、きっとその敷地のまわりを塀で囲む計画があったのになにかの理由で立派すぎる門柱だけを作っただけで塀を作る余裕がなく、計画は途中でとん挫してしまったのだろう。その敷地の中には人もいない染め物工場らしい建物がひっそりと建っている。飯田かおりは赤ん坊の泣き声を聞いた。しかしそれは赤ん坊の泣き声ではなかった。その稼働していない工場の軒先にダンボールが置かれていてその中で子犬が泣いている。飯田かおりは興味を持ってそのそばに行った。そこに行ってダンボールの中の子犬を見下ろすと哀れっぽい表情で子犬は飯田かおりのほうを見て泣いている。飯田かおりは買い物に行ったばかりなのでその買い物かごの中にビスケットのあることを思い出した。飯田かおりがくだいたビスケットを与えると捨て犬はむさぼるようにそのビスケットを食べ始めた。その食べている姿を見ると飯田かおりはおおいに満足を感じた。飯田かおりはその子犬をしばらく見ていた。するとどこから来たのか玉子を順当に立てたような頭のはげた六十才くらいの男性がそこに立っている。
「困るんだよね。かってに捨て犬に餌をあげるようなことをすると、野良犬もここに寄って来るし、犬を捨てる人間も出てくるからね。わしはここの家主なんだけど。もしかしたらここに今犬を捨てて別れを惜しんでいるところじゃないの」
「いいえ、違います」
「本当」
もしかしたらこの家主はこの捨て犬を飯田かおりに押し付けたいのかも知れなかった。
「その犬は僕の家の犬だべ」
飯田かおりはうしろを振り返った。そこには茶畑で自転車のチェーンがはずれたときなおしてくれた中学生が立っている。
「おじさん、すいませんでした。この犬はおらが飼っていただべ。この女の人はなんの関係もないだべ。この犬を持って行くだべ」
その中学生はそう言うと捨て犬の入っているダンボール箱を両手で持ち上げた。
「そうか、犬を持って行ってくれるのか」
満面の笑みが残った。家主は面倒事が解決されればそれでいいと云う感じだった。中学生は犬を抱くとその門のところからまた歩き始めた。飯田かおりは彼のあとをついてつつじ畑をおりて行った。
 すぐに煎餅屋の横に出た。
「いいの」
飯田かおりは自転車を押しながら横にいる中学生に声をかけた。
飯田かおりは心配だった。この中学生が捨て犬を連れ出したことに、またどこかにこの犬を捨ててくるのかも知れない。かと言ってこの捨て犬を自分の家に連れて帰ることは出来ない。
「いいの」
自転車を押しながら飯田かおりは横を歩いている坊主頭の中学生にふたたび聞いた。
「いいんだべ」
飯田かおりにはなにがいいんだかわからなかった。不機嫌なのか満足しているのかわからない中学生の表情。この年頃の中学生の特徴だろうか。ふたりが蕎麦屋と居酒屋を兼ねた店の前を曲がるところに電柱が立っていてその電柱には張り紙がされている。その張り紙には「犬をさがしてくれた人には謝礼を出します」と書かれている。そしてその張り紙にはこまごまと犬の特徴やら犬がいなくなった経緯などが書かれているが要するにその犬の似顔絵が描いてあって中学生が抱いている犬の特徴をそのまま表している。駅のホームからさきに行き、線路をくぐるトンネルのところに行き、線路をくぐると盆栽を巨大にしたような民家が見えた。それは庭をいっしょにした風景のことを言っているのだが。富士山の麓に忍野八景と云う観光名所があるがその民家を小さなスペースに凝縮したような家だった。その民芸調の門の中は大きな丸い石を積み上げて階段のようになっている。その家の民芸品のような門柱のところで待っていると中学生はその犬をつれてその庭に入って行った。それから藁葺きのその家の中に入り、戻って来たときは犬を抱いていなかった。
 飯田かおりが家に戻ると弘法池に面した縁側に丸いテーブルを出して座布団を敷いて光太郎が飯田かおりの知らない若い男と面して座っている。若い男は光太郎よりも五才くらい若いようだった。かつての知り合いとの交流をあれほどいやがっていた光太郎がどうしたことだろうと飯田かおりは思った。かっての威勢の良い生活からほど遠い光太郎の現在の生活からすれば仕方がないと飯田かおりは思う。その光太郎の原則から離れていると云うのはどういうことだろうか。つまりその若い男が光太郎の得意な頃の生活を知らないためではないだろうかと飯田かおりは思った。その考えは半分は当たっていたが半分ははずれていた。丸テーブルの上には変な色をした茶碗が置かれている。そして若い男の座っている座布団の横には青銅で作られた長四角のまな板のような板が置かれていてその板の中にはサイケデリックと云う言葉がよく使われていた頃のいくつもの涙のような文様が刻まれていた。
 その男は背振栗太の同級生で飯田光太郎の後輩に当たっていた。背広をきちんと着こなしている。
「七万円」
光太郎がその壺を傾け、眺めすかししながら言った。
「五万円でどうですか」
「まあ、五万円なら夫婦で温泉が二泊だな」飯田かおりは今買って来た茶饅頭を台所に行き、皿の上に載せてふたりの座っている縁側まで運んだ。光太郎は爪楊枝みたいなもので大きく茶饅頭をふたつ割にした。
「飯田かおりさん、お邪魔しています」
突然名前を呼ばれたが飯田かおりはいやな感じがしなかった。その若い男の外見が清潔な感じがしたからだ。飯田かおりはこの男がなぜ光太郎に会いに来たのか思い出した。光太郎の幸福曲線の角度が失墜し始めてから骨董屋からも相手にされなくなっていたがたまたま光太郎はまだ手放していない骨董を持っていることを思い出した。これを売って飯田かおりとふたりで温泉旅行にでも行こうかと云う計画をたてた。いつも生活に追われそれに疲れさせられることからたまには解放されたかった。しかし今の光太郎は骨董屋の信用をすっかり喪失している。そこで後輩で歴史研究室に勤めている貝山と云う後輩にその骨董を売りつける計画をたてた。それは骨董と云うよりも学術的な価値のほうが高いものだった。「好意からただで寄贈してくれる人もたくさんいるんですよ」
「そういうわけにはいかないよ」
もちろん貝山は上田とは系統が違う。外見もきちんとしているし、変人の上田とは違う。遅かれ早かれ地位的には貝山が上田を追い越すのは明らかだった。結局、光太郎の所有している骨董は六万円で貝山が買い上げた。
「でも、三輪田さんはずいぶんと変わったところに住んでいますよね」
貝山は縁側から見える弘法池を見ながら言った。その調子はまるで銭湯につかって看板に描かれている富士山を見ているようだった。光太郎は茶饅頭をさらに半分に切ってその四分の一を自分の口の中にほうりこんだ。「最初、ここに住もうと思っていたのは背振無田夫だったんだ。きみは背振無田夫のことを知っているかい。しかし彼は死んでしまって彼の遺言で僕がここに住むことになったんだ。きみの同級生で背振栗太って知っている。背振無田夫の弟なんだけどね。彼が僕らがここに住むことに当たってすべて周旋してくれたんだよ」
「なにか、ここに住むことでいいことがあるのかな。ここから見える池は弘法池と云うんですか。と云うことは空海と関連していると云うことですか」
「そのことは僕のほうが聞きたいよ。本当に空海がここに来たのだろうか。名前は弘法池と云うことになっているけど」
「空海は僧侶と云う範疇には入らないと思います。だからなにが起こってもおかしくありませんが、空海がなにをしてきたか謎の部分が多いですから、だいたいその密教の修行を始めたと云うのも自分の記憶力を高めるためにやったという話しですからね。僧侶としての一面から高野山で東寺をたてたと云う一面のほかに僧侶でないものに縁の行者の後継者を作ろうとしていたふしもありますから。でもここにやって来たということは信じられないな」
「きみは知っているかな。うちの母校の上田先生もここに移り住んでいるんだよ。ここが学問的に非常に興味があると言って」
その情報は妻の飯田かおりから聞いたものだったが飯田かおりも彼女自身が上田に学術的に興味があると言われたことは言わなかった。上田と云う名前が出て来たので正統な学問の継承者である、貝山はとたんに口をつぐんだ。上田のような変人であり、異端の人物と関わりになることは出来るだけ避けたいと云う意識が働いていた。自分自身も異端として少数者の側にまわされてしまう。それにより経済的、社会的に不利な立場に追いやられてしまうからだ。そして上田の話題をふられた貝山の立場はなんの関係もない、しかしその話しが伝わってしまうかも知れない客に上司の悪口を聞かされている部下のようなものだった。はなはだ自分の立場をどこに持っていけばよいかむずかしい位置に置かれている。もっとも世捨て人のような光太郎の口から貝山の発言が部外者に伝わるとは信じられないが。貝山は話題を変えた。
「いま、これに夢中になっているんですよ」
自分の座布団の横に置かれた青銅でできた板を丸いテーブルの上に上げた。光太郎は少しだけむかしの学生時代を思い出した。
「これがなんなのか、今、学会で最大の謎なんですよ。これがなんに使われていたのか解決できたら学会の最大の話題になりますよ」
貝山の野心は隠されることもなかった。その青銅の板に掘られている図が問題なのだろうか、それともこの板も含めて重要なんだろうか。青銅の板に残されている不思議、それが光太郎の現実をいっときでも忘れさせる。たとえこの情熱が、貝山の情熱なのだがそれが学会での政略的なものがあったとしても、光太郎のほうにバトンタッチされたときには十分に純化されていて、さらに光太郎の学生時代のあまずっぱい感傷の味が加えられている。
「涙が何個か、掘られているみたいだね。韓国のほうの水遊びの道具でこんなものがなにかあったじゃないか。ほら上の方から水を流して花びらがどう流れていくか占うという」
光太郎はその石盤を手にとりながら門外漢の気楽さで思いついたことを言った。
光太郎は背振無田夫が生きていたらこんな問題は簡単に解けるのではないかと思った。貝山はその骨董を持って光太郎の家に六万円を置いて帰って行った。
 飯田かおりは買い物にこの町のメインストリートに来るたびに通りにくい場所がある。建物がある。いつだったか名前のわからない中学生が迷い犬を届けた盆栽のような民家のある線路の向こう側にある場所なのだが安い瀬戸物を売っている店があってそこに瀬戸物を買いに行こうとするとその前を通らなければならない。どちらもあの布袋を収集している旅籠屋とは違って駅からは少し離れた場所にある。
「濡れた夜、一夜妻」「色情狂スチュワーデス、フライト中」とか現代の錦絵が女の裸の写真とともに目に飛び込んでくる。色合いも本物とは遠く、肌色はオレンジがかっているし、ステインで塗られた木の枠の中に収まっているポスターの中の赤いくちびるは何かを言いたいようにこちらを向いている。しかし安い瀬戸物屋へ行こうとするとその看板の前を通らなければならない、そのたびに落ち着かない、そわそわとした不思議な感情におそわれる。どうやって自分の体裁を整えたらいいかと云う感情に似ている。その建物はトタン板を張り合わせて造られていて建物のはじのほうに大きなクーラーが置いてある。建物の側面には毒毒しい看板が扇情的な題をつけて掲げられている。看板の横のほうに入り口があってドアの半分が開かれ、ドアの半分が閉まっている。その横にガラスのたなの中に上映のスケジュールが張られ、その横で券を売っているのだが買う方も売る方もお互いに顔が見えないようになっていて下の方が半円が開かれていてそこで料金と券をやりとりしている。隣りにパチンコ屋があったのだかパチンコ屋はつぶれてそこだけが残った。そのチケット売り場のくすんだカーテンの裏には生気のないくすんだばあさんが座っているのだが買いに来た客はチケットを買ってその中に入らないかぎりそのばあさんの姿を見ることは出来ない。今は息子がそこを経営しているのだが電気代のかかるわりにもうけが少ないのでばあさんはこの商売にうんざりしている。もちろんここはピンク映画館である。飯田かおりはその横を通り過ぎるたびにその看板の色彩のけばけばしさと書いてある題名のあざとさに辟易していた。もちろん飯田かおりはそのなかに入ったことがなかったからその中がどうなっているのかわからない。もぎりを買って入るとすぐわかるのだが中は白々とした蛍光灯が天井から吊されている。外側は厚いトタン屋根が張られているだけなのでその中の太い木材が作る骨組みが構造的に重要なのだがどっかの廃材をもとに作ったらしいのでその材木は黒く汚れている。映画館特有の作りとしてその両側の通路は緩やかな坂になっていてどこからでも座席のある空間に入ることが出来るようになっている。しかしここは小さい映画館だったから真ん中と出口に近いところしか出入り口はない。しかし意外なことはその便所が思ったよりきれいだと云うことだ。その設備がきれいだと云うことではない。きれいに清掃されていると云うことだ。水色のタイルが便所の下一面にはられ、上の壁土はクリーム色をしている。小をたすほうの便器は今はあまり見ない石をけずったものでいっせいにならんで出来るもの、隣りの人間との境はない、大のほうは鎖がついていて鎖を引っ張ると上にたまっているタンクから便器に水が一斉に流れていく。座ると目の前に便所をきれいに使うために半歩前に出ようと云う張り紙が張られている。こういったことは少しパチンコ屋に似ているがこのピンク映画の館主のモットーではなく、便所のきれいなところは多いようだ。飯田かおりはもちろんそこに入ったことがないからそこの便所がどうなっているかと云うことはわからない。またそこの客席と云うのもだいたいが都電の座席のようにエンジ色をしたモールで出来ていてその金具は鋳物で出来ている。客が必要以上に身体をそらせるからばねが壊れている。来ている客も暇な学生、暇な老人、暇な商店主、暇なセールスマン、もちろんポッブコーンや南京豆もあるがもぎりのばあさんやおじさんに直接買うのだ。これは銭湯で番台に座っているおばさんから貝印のひげそりや五ミリリットル入りのビニール袋入りのシャンプーを買うのに似ている。そして上映が始まると近所の喫茶店の広告が入ってそのあと無くなった有楽町の日劇が出てくる時事ニュースが始まったりする。その有楽町と云う地名も織田信長の弟の織田有楽斎がここに住んだことがあるからだと云うことは飯田かおりも知らなかった。本編のほうはどういうものかと云うと、光太郎はここに来てから一度だけ見に行ったことがあるのだがスペインで作られた映画だった。なぜか人類がほとんど死滅していて海岸にはだかの男ふたりと女がひとりいる。海岸にはなにかの測候所のようなものが残っている。このままでは人類が完全に死滅してしまい人類存亡の危機だと思った三人はその測候所でセックスをすることにする。その測候所は下は車の車庫のようになっていてはしごで上のほうに登っていけるようになっていたので、もしかしたらそこは消防署だったのかも知れない。三人の男女はそこに登って行き、人類存続のために観測機械の中でセックスをしようとする。子孫を生産しなければならないと云う崇高な使命に燃えながら。しかし哺乳類最後の生き残りは彼らだけではなかった。突然、雌犬に飢えた雄犬がそこにやって来て人間たちのセックスを妨害してその女を狙うのだ。その犬と云うのも大きくて人間がかなわないような犬だった。その犬と人間との追いかけごっこ、つまり人間たちがセックスをしようとすると犬が妨害に入る。光太郎はそれを見ながら自分が他の惑星に降り立ったような気がしたのだが、飯田かおりはもちろんそんなことを知らない。
 飯田かおりはそのピンク映画館の入り口を見たいような不愉快なような複雑な感情を持って通り過ぎようとした。すると入り口のところでもぎりのばあさんに絞られている中学生がいる。よく見ると飯田かおりを助けてくれた中学生だった。
 親につれられておめかしをして写真館につれられて来たあやつり人形のような雰囲気に変わりはない。それが醤油で煮染めたようなばあさんの前でしぼられて小さくなっている。中学生も小さいほうだがばあさんも小さいので釣り合いはとれていた。ばあさんの声から発せられるガミガミと云う声が見えるようだった。ふだんは解けかかったアイスクリームのようにもぎりの受付のところであくびをかみ殺して座っているばあさんだったがこの日は元気が良かった。万引きをつかまえたときの駄菓子屋のばあさんに似ている。近所の子供が三輪車を運転しながらふたりのそばを通ってその顔を見あげた。中学生はやはり顔をうつむいている。
「まったく、中学一年生のくせになんだろうね。このガキは。中学生のくせに見られるわけがないだろう。高校生ならまだ話がわかるけど。親を呼び出すよ」
「・・・・・・・・・」
「だいたい、ただでここに入ろうと云うのがあつかましいんだよ。担任の先生の名前はなんと云うんだい。これは先生にうんと叱ってもらわなければならないよ。まったく、もう、なんか、お言いよ。この快楽亭ブラックのあやつり人形めが。親が見に映画館のなかにいるから入らせてくれって、あつかましいんだよ」
「・・・・・・・・」
「もう、なんか、言うんだよ。どこの子なんだい。言わないと警察に言うよ。このできそこないのマルコメ坊主が」
ばあさんの罵倒はとどまるところを知らなかった。その言葉に中学生が反論することもない。どうやら知り合いが中にいるからこのピンク映画館の中に入れてくれと中学生はばあさんを騙そうとしたらしい。
 映画館の入り口の向こうには碧める柳の並木が続き、その向こうには廃材となった木製の枕木を並べて作った線路の柵が続き、柵の裏側には小豆色をした列車が停まっている。入り口は夜になるとつける赤、青、黄色と三色の電球がレースの縁飾りのように飾り付けられているがまだ昼間なので点灯はしていなかった。この春の日ののどかな風物の中にばあさんと中学生が中心にいる。
 いざ鎌倉。こんな文句を飯田かおりはどこかで覚えていたが、ここで使わなくてはどこで使えるか。
 「この子は知り合いなんですが。この子の知り合いがこの映画館の中にいるんです。本当なんです。それで用があって中に入りたいんです。この子とわたしのふたり分の料金を払いますから中に入れてくれませんか」
「鑑賞券さえ買ってもらえればなんの異存もないさ」
ばあさんのガードは意外に簡単だった。金を払って飯田かおりと中学生はそのピンク映画館の中に入ることにした。入り口のドアの裏側に、壊れかけた傘立てが置いてあって客が忘れていったのか安物の傘が五、六本立てかけてあった。入ってすぐのところの通路の壁に花畑で女の子が花をつんでいる、そのうしろに顔を縫い合わせた人造人間が立っている映画のポスターが張られている。ピンク映画館でなぜこんなポスターが貼られているのか飯田かおりにはわからなかったが一般の映画も上映されることがあるらしい。そのポスターの下のほうには人造人間フランケンシュタインと書かれている。飯田かおりはそのポスターをちらりと見ただけだった。自分でもなんでこんな行動をとったのか、飯田かおりはよくわからなかった。飯田かおりが中に入って行くと中学生はうれしいのか悲しいのかわからないがとにかく中について来た。映画のほうは上映中で中は暗い。暗い中でぼんやりと見えるがぽつぽつと観客はいる。だいたいが座席の背もたれの上のところに頭がある。みんなが足をさきのほうにのばして寝ている姿勢をとっていることの証拠だった。飯田かおりと中学生は並んであいている座席に腰をおろした。ようよう暗闇に目が慣れてくると座席のほうもなんとか見えてくる。近所の年寄りが座っている。授業をさぼった学生らしいのが座っている。前のほうではまだ十代らしい若者で恋人らしいのが座っていることに飯田かおりは驚いた。
 スクリーンのもとを霧のかたまりのような光のつぶの三角の頂点のほうに戻ると映写室があって映写機から光りのつぶが客席のほうに放射されている。映写室のなかでは人影がちらちらとしていてそれが映写機を操作している技師だろう。光のつぶの量が増えたり減ったりして画面が明るくなったり、暗くなったりして客席も明るくなったり、暗くなったりする。飯田かおりはスクリーンの横にぼんやりと見える旅館の看板に興味があった。雪見灯籠と旅館の建物が描かれている。それは千亀亭かも知れない。自分の家の台所から見えるその姿をなんとなく彷彿とさせる。映画館の両脇におかれたスピーカーからは俳優の声が少し割れて聞こえる。スクリーンの中には突如として海に面している見たことのないような建物が出てきた。海が見えたのはスクリーンの両脇にその建物が建っていて真ん中が抜けていて海に面していたからである。その建物はアールヌーボー調というのだろうか。それが実際の建物ではないことは平面的な感じとなんとなく線がぼやけていることから飯田かおりにもわかった。実はそれは特殊効果のための絵でもなんでもなくて実際の絵で画面が変わって高校生がその絵を描いている場面だった。横にいる中学生を見ると食い入るようにしてスクリーンに見入っている。
 飯田かおりはなんでこの中学生がこんなものを見たがるのか理解できない。スクリーンの中ではなまこがからみあっている。たしかにその年の頃、飯田かおりにも性欲があった。しかし少し違っていたような気もする。そこで飯田かおりはある考えが浮かんだ。きっとこの中学生は初恋をしているのだ。そのやり場のない思いがこの中学生を動かしてこんな行動を起こしているのではないかと思った。きっとこの中学生は同じクラスの女の子、そうでなかったら違うクラスかも知れないが好きな女の子がいるんだ。だからその思いがこんな行動をとらせているんだ。そう思うと女の裸にこれほど執着しているこの中学生のすがたが微笑ましくもあった。二本立てのその映画を見終わって飯田かおりはその映画館を出た。外はまだ太陽が頭上にきらきらと輝いていて、飯田かおりにめまいを起こさせるような光線をあびせた。飯田かおりは自分の中の平衡感覚が麻痺させられたような気がした。
 映画館のあるほうの道は線路に平行に小川が流れている。小川の土手には柳並木が続き、川から吹く風が心地よい。飯田かおりはこの中学生と並びながら春の土手を歩いた。穏やかになった日の光が飯田かおりの豊かな顔や体を照らし出す。飯田かおりの肉体を語るとき豊かと云う表現がぴったりだった。太っていると云うのとも違う、古代の女神はきっとこんな外観をして地上に現れたに違いない。
その肉体を横に見ながら中学生は生まれたての赤ん坊の視力について学校で習ったことを思い出した。生まれたばかりの赤ん坊は視力と云ってももののかたちを判別する力はなく、明るいか暗いかの光量をはかる力しかない。中学生も自分がそんな赤ん坊のようだと思った。飯田かおりと云う光のかたまりしかないような気がするのだ。いま模写しているルノアールの裸婦像も似ていると思った。学校の美術の時間に習ったことだが、晩年にはルノアールは視力が衰えていて女の身体を光りのかたまりととらえていたのかもしれない。もしかしたら自分は中学生ではあるが飯田かおりを前にして同じ感覚を味わっているとするならルノアールの孫の孫の孫弟子ぐらいかもしれないと思った。その光のかたまりはなにも言わずに前を歩いていく。中学生は半歩遅れて飯田かおりについて来る。
「クラスに好きな女の子がいるの」
中学生はなにも言わなかった。

第七回
「じゃあ、違うクラスに好きな女の子がいるんだ」
中学生は無言でやはり飯田かおりのあとを半歩歩いてついて来る。
「いいのよ。白状しなくて、恥ずかしいんでしょう。わたしにも君みたいなころがあったのよ。きみから見たらわたしのようなおばさんが不思議でしょう」
「ううん、おばさんじゃない。おねえさんだべ」
飯田かおりは喜んだ。きわめて単純な飯田かおりだった。
「ありがとう。そう言ってもらえるとうれしいわ」
飯田かおりは首を曲げて中学生の顔を見た。
「おらの本心だべ」
中学生は山のほこらの中に住む小動物のように暗い表情でそう言った。
「君の名前を教えてもらえる」
「田所兵の進」
と中学生は侍のような名前を言う。
「田所くんは絵を描いているの。いつだったか、自転車のチェーンが壊れたときがあったじゃない。君が直してくれたときにわたしあなたの描いた絵を見たのよ。あれはルノアールの模写ね」
「練習だべ」
「絵描きさんになりたいの」
「そう云うわけでもないだべが」
それから田所少年は絵のことを語った。その知識は飯田かおりはよく知らないことばかりだったが、絵画クラブに入っている中学生ぐらいならみんな知っている知識だった。例の忍野八景のような民家のそばにあるトンネルを出たところでふたりの家は別々の方向にあったからそこで別れた。
 いつも降りる一つ手前の駅で光太郎は降りた。そこに地震計を作っている小さな会社があってそこに行くつもりだった。しかし地震計が目的でそこに行くわけではない。貝山の訪問を受けてから骨董品の買い付けをしていた時代のことがまた刺激された。むかし文庫本で読んだ作家の全集を買い揃える心理状態に似ている。刺激された光太郎の心理はまた骨董品に向かった。しかしそれを売り買いする経済状態にはいまはない。そこでもっぱらそれを見ることに方向を変えたのだが、前に見に行った旅籠屋の布袋のことを思い出していた。その前を通ったら旅籠屋の主人のほうから見せてくれたような骨董だったが、不思議とあれを見たとき精神的に落ち着いたことを思い出した。光太郎はまたそれを見たいと思った。そこでその旅籠屋の前を通ったときに主人にそれを見せてほしいとたのむと不思議なことにその布袋を紛失したと言う。盗難にあったのではないかと言うと決してそんなことはないと主人は言って彼自身も不思議がっている。しかし、主人の話によると宗源禅師は十数体の布袋を作って在所のはっきりしているのが十二体、そのうちの七体を旅籠屋が所有していて、もちろん、今は紛失してしまっているのだが、残りの五体は地震計を作っている工場主が持っていると言う。その工場主がどんな履歴でその布袋を手に入れたのかは聞かなかったが隣の田舎町に住んでいると云う話だった。その住所も教えてもらった。そこで勤めの帰りに光太郎は途中下車をしてその工場に行くことにした。そこは光太郎の住む町よりもさらに田舎だった。駅を降りると神社があってその横の道をまっすぐに行くとその工場があるそうだ。田圃の真ん中を走る田舎道を歩いて行くと案の定それらしい建物が建っている。それはどういう手づるで集めて来たのかわからないが鉄道に使われている枕木を集めて作られている建物だった。外観は小さなさいころの上に大きなさいころが乗せられている。力学的に平衡がとれているのかどうだか、光太郎にはわからなかった。その建物の前には蒸気機関車の前の部分を切り取ったのが小さなさいころにくつっいていてそこが出入り口になっているらしかった。奇妙な外観とは別に中にいたのは思慮分別を絵にしたような男だった。中は木の棚が左右に並んでいて部品がたくさんおかれている。そのそばには作業台が置かれているのだがひとりで全部この男が組み立てから調整までおこなっているらしい。これを気象台に納めているそうだ。その調整も地下で行っていると言う。その調整をするのはこの建物の真ん中に下に降りていける階段があってそこに宗源禅師の作った布袋もあると言うので光太郎もその地下室に降りて行った。地下室のランプを持って地下室に降りて行き男は照明のスイッチを入れた。部屋の中はほんのりと明るくなった。部屋の真ん中には大きな大理石のミルク色のテーブルがある。男の話によるとそこで地震計の調節を行うそうだ。その調整には微妙なものがあると言う。まるで地下に潜む腐葉土を食料にしている昆虫のような気が光太郎はした。その横の壁のほうを見ると棚の中に布袋が五体収まっている。薄暗い照明の中で光太郎はそれを鑑賞した。旅籠屋の布袋が紛失したことを知っているかと聞くと男はそのことを知っていると言った。自分は盗まれないように注意していると言う。そしてきっと旅籠屋のほうは盗まれたのに主人がそのことに気づかないのだろうと言った。布袋から少し離れた棚の上に光太郎は見たことがあるものがあるのを発見して驚いた。貝山が光太郎の家に置いていった青銅の板である。光太郎がなぜこれがここにあるのかと聞くと男は自身、骨董や考古学に興味を持っていてこれが今の考古学で一番の関心事だということを知っている、それは貝山の言っていることとまったく同じだった。もちろんこれはレプリカであって本物ではない。そして光太郎の興味のあることをいった。上田がここに訪ねて来たそうである。男は東京から来た偉い考古学者だと思ったのでこの布袋を調査してもらったそうである。上田がどんな学問的目的でここに来たかと云うことは詳しいことはわからないと言った。
 飯田かおりがいやがるのでそのことを言わなかったのだが、あるラジオの放送で樫の木にその村の子供が産まれると渦巻きの彫刻を彫ると云う話が出て来て、その中で上田の弟子にあたる人間の名前が出て来た。光太郎はご飯の上にみそ漬けを上げてお茶をかけ、さらさらと食べていたところでついなにげなしに上田の名前を口に出した。地震計を作っている工場で聞いた話が思い出された。光太郎は飯田かおりに上田がこの町だけでなく隣の町まで行っていろいろな調査をしていると云うことを伝えると飯田かおりは眉をしかめた。光太郎はなにげなく言ったのだが、光太郎はまたあぐらをかいたまま、新聞を広げてその中に顔をうずめた。しかし飯田かおりにとってはそれほど深刻な問題ではないようだった。飯田かおりは急須のふたをあけると腕のすそに注意しながらお湯を注いだ。
「いやだわ。あんな人が近所にいるなんて」
その一言に飯田かおりの気持ちはすべて表れていた。しかしそんな深刻な響きはなかった。飯田かおりは今いれたお茶を光太郎が空けた茶碗の中に注いだ。
「そんなことより」
飯田かおりは笑っている。うれしそうである。
「見たのよ。見たのよ。地主の下平さんを」
そう言った飯田かおりはまだ笑い転げている。よっぽど楽しいことがあったのだろう。飯田かおりの話によると下平は日本人にしては大柄なほうで、大きな卵の上に中くらいの卵を乗せたみたいである。田舎の中学校の校長か神主さんのように見える。飯田かおりが買い物に行く途中で牛を飼っている家がある。飯田かおりがそのそばを通るといつも昼寝をしているような牛が干し草のあいだから冷笑するように飯田かおりのほうを見る。そこを通るときはいつもの田舎のにおいがしているなと云う印象だけではなかった。そこにはいつも牛が小屋の中でのんびりと草を食べているだけなのに今日に限ってそこは人だかりがしていた。買い物かごを持った飯田かおりは人をかきわけて前のほうに進むと見たことのある下平のふたりの娘の姿があった。ふたりの娘は牛小屋の前で太鼓を持って立っている。そのふたりにはさまれるようにしてその神主みたいな男が立っている。男は安物の縦笛を構えていた。ふたりの娘が「父ちゃん、いくよ」と言うとその男は縦笛を吹き始めた。ふたりの娘は太鼓を叩きながら父親の縦笛に合わせて俗謡を歌った。牛の方はその合奏、歌付きを聞いているのかどうだかわからない。
「これをしてもらうと牛の乳の出がよくなるそうですよ」飯田かおりの隣にいた男が飯田かおりが聞かぬ前からそのわけを話した。男は汚れたむぎわら帽をぬいで自分の腹の前あたりに持っている。ふたりの娘はあいかわらずうまいのか下手なのかわからない都々逸か、さのさかわからないような歌を歌っている。
「富士の高嶺に降る雪も、京都ぽんと町に降る雪も・・」
飯田かおりはこれが調子がはずれているが歌謡曲だと云うことがわかった。それでその男が地主の下平だと云うことがわかったのである。その俗謡を歌い終わると牛小屋の主人が出て来て下平に頭を下げると、「これで牛の乳の出がよくなります。うちの牛乳もよく売れます。余ったお金でかたちの良い牛乳瓶を買うつもりです。みんな下平さんのおかげです」とかなんとかわけのわからないことを言って金一封をうやうやしく差し出したそうである。もちろん下平はそれを受け取るとふたりの娘を従えて千亀亭のほうに帰って行った。
 その下平の外観は前に言ったように大小二個のゆで卵を順当に立てて重ねたようなものだった。もちろん小さなほうの卵が頭に当たっていた。神主にも見えるし、田舎の中学の校長にも見える。神主の格好をして結婚式で祝詞をあげていても絵になるだろうし、その神聖な場面ではなく、結婚式のあとで幼い夫婦を自分の家に招いてお茶を飲んでいる姿も似つかわしい。中学の校長だったら桜の花の下で新入生に訓辞を与えているのも、さらにはその任地での勤務の最後の日に、生徒を前にして実は自分は今日がこの学校での最後の日ですとさらりとうち明けて、自分の若い頃の初恋の一端でもひとくさりするとほほえんで教室を後にする。そんな想像をさせる人だった。だから顔には笑いが浮かんでいても表面的なものではなく、心の基底から押し上げて表面に現れたもののようだった。背は日本人の標準よりも大きいだろう。見た目は若い人は知らないかも知れないが俳優や司会をやっていた人物で三国一郎と云う人がいた。いたと言うのはもう死んでしまっていると云うことだが、その人に似ている。
 「じゃあ、神主でもない下平がそんないんちき祈祷師のまねごとをして、酪農農家の乏しいさいふの中から金一封をだまし取ったと言うのかい。大金持ちのくせにずいぶんと因業な奴だな。下平と云う奴は」
光太郎の批評に飯田かおりは居間の片隅のほうに目をやった。そこには真新しい箒とちりとりがオズの魔法使いに出てくる不思議な生き物のようにたたずんでいる。
「そうでもないのよ。下平さんと云う人は。いつだったか、下平さんに自分の屋敷を騙し取られたと言っていた人がいたじゃない。きっとあれは嘘よ。下平さんって思ったよりも気前のいい人よ。その牛小屋に集まった人たちみんなにと言って置いて行ったんですって。わたしもちょうどよかったから貰って来たのよ」
下平はそこに集まったやじうまにあげるために箒やちり取りをたくさん置いて行ったと云う話だ。それもなにか理由があってその理由もこの町に住んでいる人間ならみんな知っているようだったが、飯田かおりはそれを知らなかったし、聞きそびれてしまった。もし下平がそう云った祈祷師のつもりだったら、なんで箒やちり取りと云う些末なものを置いて行ったのだろうか。光太郎にはその信条が理解できなかった。しかし真新しい箒に飯田かおりのそうじ熱は刺激されているらしい。しかし、飯田かおりが箒やちりとりを貰って来たと云うことは掃除の必要を感じていた光太郎には都合が良かった。
「とにかく良かった」
「光太郎さん、なにが良かったの」
「きみがお使いに出ていたあいだに変な動物が来て家の中を汚していったんだよ。ちょうど庭にいて楓の木についた害虫を根気よく捕っていた最中だったんだよ。すぐ気がついて追っ払ったんだけど、足跡がついていたから雑巾でふいたんだけど、取りきれなかったかもしれない」
「変な動物」
「大きなにわとり」
「大きなにわとり」
光太郎は繰り返した。
「大きいってどのくらい大きなにわとりなの」
「ふつうのにわとりの五倍くらいの大きさはある」
「うそ」
「本当」
「うそ」
「本当」
「でも廊下が汚れていると云うのは事実なのよね」
「そう」
「ちょうど良かったわ。午後から掃除をしない。それに居間のある場所を隣の部屋にしたほうがいいわよ。前から光太郎さんはそう言っていたじゃない」
飯田かおりが下平から貰った箒やちりとりを家に持って来たと云うことはふたりにとって好都合だった。
 光太郎の家は池に面して平行に建っている。池に面しては台所や寝室、風呂のある部屋などがある。その反対側は居間と物置のような部屋、それに玄関がある。ふたりは前から話していたのだが、今の居間のある部屋をとなりの物置代わりに使っている部屋に移したらいいのではないかと云うことだ。居間から外を見ると殺風景で道路に接している垣根が見えるだけなのだが、今、物置代わりに使っている部屋を居間にすると外の景色は風情を添えられることになる。梅の木といちいの木が外の景色にうまい具合にそえられて、ちょっとおもしろいかたちの庭石も目の保養になった。それは安物の日本画を見るくらいの効果はあった。ふたりは住むまではそのことに気づかず家財道具の割り振りをしていたのだが、住んでからそのことに気づいた。それでいつかそのうち部屋と云うか家の模様替えをしようと思って来たのに日曜になったら日曜になったでその日はゆっくりと休んでいたかったりしてなかなかその機会がなかった。飯田かおりひとりでその引っ越しをするにしてもなかには重いものもあるのでそういうわけにもいかなかった。今日はふたりが揃っているし、それをしようと思ったのだった。
「じゃあ、午後から一服したら居間の引っ越しも兼ねて、掃除をしようか」
「うん」
「そのとき、廊下をふけばいいよ。そうしたら僕が嘘を言ったのではないと云うことがわかるから」
「そうだ、光太郎さんが貰って来た伊勢屋大福堂の黄金餡餅があったわね。今、戸棚のところから出して来ます」飯田かおりは台所に行くとその菓子を盛って来て、そのあいだに光太郎はお茶を入れた。ふたりでお茶を飲んでいるあいだに台所にも春の風が吹き込んでくる。それは弘法池の面を吹いて来た風だった。今度は食事の支度をすっかりと片づけて丸いちゃぶ台の上には光太郎と飯田かおりの夫婦茶碗がのっている。その上には名前だけはものものしい饅頭ものっていた。
 弘法池のほうから小鳥らしい声が聞こえてくる。小鳥も春ののどかなな陽光を浴びてその喜びを歌っているのかもしれない。この小鳥の声を聞いて土中の虫もはいだしてくるのに違いない。庭木にも小鳥のえさになる木の実も実をふくらませつつある。
 玄関の方から光太郎の家の名字を呼ぶ声が聞こえた。
光太郎が玄関に出ていくとこの建て売りの一軒、おいて隣に住んでいる住人が訪ねて来た。光太郎が玄関に行き、引き戸をあけるとかつて議会の書記係をしていて今は悠々自適の身だと云う老人が光太郎の目の前に立っていた。駅で光太郎はこの老人と話したことがある。それもあたりさわりのない世間話だったが。途中で光太郎の家の前を通ったので立ち寄ったと老人は言った。奥の方から飯田かおりが座布団を出すと老人は上がりかまちに腰をおろした。
「ちょっと三輪田さんにお伺いしたいことがあるんですが」
「なんですか」
「うちの家主さんのお使いが来て、はたきや箒、ちりとりなんかを置いて置いていったんです。これはどういうことなんでしょうかね」
「そうですか。実はうちの家内もそんなそうじ道具の一式をもらってきたんです。それがどういう意味があるのかわからないんですけど」
「三輪田さんの家もそうですか」
「地主の下平さんが牛小屋の前で歌を歌ったときにみんなに配ったそうです」
「どういうおまじないなんでしょうね」
「本当に」
その老人もその意味合いがどんなものなのか知らないようだった。老人も光太郎と同様にこの街に外部から来た人間だったから、この意味を理解していないようだった。老人はすぐにいなくなると思っていたのだがそうではなかった。老人は思いがけないような話題を口に出した。
「わたし、こう見えても劇団をやっているんですが、三輪田さんご夫妻も参加しませんか。いや、素人劇団なんですがね」
そういえば駅で列車を待っているあいだ老人がそんなことを話しているのを聞いたことがあったような気がする。老人の話の内容は以下のごとくだった。老人は書記として毎日、日常の生活に追われていたが、仕事の都合上ある外国人と知り合いになったそうである。その外国人が芝居好きで自分もその影響を受け、いつか芝居と云うものに関わってみたい気持ちがあったのだが、仕事も忙しく、また堅い仕事をしていたので。世間になんと言われるかもしれないと思い、その方の欲望は抑えていたのだったが、そのあいだに芝居のアイデアや構想も浮かぶこともあった。そのあいだ趣味としてそこそこに観劇などをしてお茶をにごしていたのだが、いよいよ書記をやめて自分の自由な時間が増えると、有志をつのって趣味として劇団を始めたのである。
「劇団と云っても五人しかいないのですが」
老人は言った。
「最近、おもしろい芝居の筋を考えたんですよ」
老人は座付き作者でもあるらしい。その老人の考えている話と云うのは宇宙から異星人の女がつるに姿を変えてやって来て仕掛けたわなにかかってけがをして猟師にすくわれるのだが、そしてその恩返しに高価な織物を織って猟師をおおいに富ませると云う展開になっている。しかし見てはいけないと云う機織りの場面を猟師が見たために女は宇宙人に姿を変え、宇宙船にのってふるさとの星に戻ると云う筋書きだそうだ。話は鶴の恩返しに似ているが鶴を異星人にしたことがみそで、鶴よりも異星人の方がいろいろなマジックを使えるのでおもしろいと言った。
「それでその異星人にぴったりな女性がいるんですよ。三輪田さんの奥さんがイメージにぴったりなんですよ。奥さん、やってみませんか」
そばでその話を聞いていた飯田かおりは苦笑いをした。そばで聞いていた光太郎はたしかに飯田かおりにはそんなイメージが、どこかの惑星から降りたって来た異星人のイメージがあると思った。ある意味では平凡ではあるが平凡な中に非凡なものを隠している。だいたい、もしも宇宙人が地球侵略のためにこの国に降りたって来たのだったら、やかんをひっくり返した頭にトカゲの肌を持っていてトンボみたいな目玉をして手足はカエルやイモリのよう、そして真夜中の銀行の前でぺたぺたと歩いている影が異常に長いなんて云うことがあるだろうか。もし異星人が地球に降り立ったなら四角い鞄を手に持って日差しの強い日にはサングラスでもしているだろう。まったく何から何まで人間と同じなら宇宙人の存在理由がないからね。少しは変わったテイストを持たしてやらなければならないと云うことで、しかし、見方によれば地球人だって宇宙人であることもあるんだけど。しかし、いつだったか、駅で飯田かおりをじっと見ていた学生がいたと云う話を聞いていたからそんな話は承知できるはずがない。もしかしたら、飯田かおりのそばにいたいからこの老人がそんな話しをしているのではないかと邪推した。一種の追従に違いないから飯田かおりに気に入られようと思っているのかもしれない。
「いや、イメージにぴったりなんですよ」
そう言った老人の言葉にどこまで純粋なもの
があるのか光太郎にはわからなかった。
 「いやだわ。どこで誰に見られているのかわからないなんて」
飯田かおりはお茶をすすった。
「ただたんに飯田かおりのそばにいたいから、そんな役の話をしているのかもしれないよ」
「うそ」
「本当だよ」
「うそよ」
ふたりがじゃれ合っていると南天の茂みの陰からにゅうと首を伸ばして首を曲げると光太郎の方をにらんだ眼があった。光太郎はむかしこんなものを見たことがあると思った。怪獣映画である。ビルの高層の一部屋に閉じこめられている主人公が正気を取り戻してむっくりと起きあがると窓の外から巨大な瞳がこっちを見て通り過ぎて行く、主人公は肝を冷やすのだった。それが原子の灰を浴びて凶暴化した巨大怪獣ではなくて、ふつうの五倍はあろうかと思えるにわとりだった。
「あれだよ。あれだよ。あいつが廊下にあがって来て汚したんだよ」
光太郎は風呂場でごきぶりに出会ったようにうろたえた。巨大なにわとりは茂みの陰から急にスタートを切ると光太郎たちが憩いでいる居間のほうに向かって突進してきた。
「わわむ」
光太郎はわけのわからない奇声を発し、飯田かおりは目を丸くして言葉を失った。そのときするどい言葉が発せられた。
「おやめ。筑紫の国の宮津湖岩井の蘭子」
南天の茂みの逆の方に大きな庭石があってその陰からふたりの女の子が顔を出した。ふたりは顔を見合わせてくつくつと笑った。
「ついに見つけたべ」
「ついに見つけたべ」
巨大なにわとりは首をきゅるきゅると回し首の筋肉をほぐしているようだった。
そしてふたりは居間の方で凝視しているふたりの方にぺこりと頭を下げた。
「迷惑をかけたべ」
「迷惑をかけたべ」
にわとりはじっとして動かない。
「どういうこと」
「ここにお饅頭があるからお食べなさい。こっちに来て」
飯田かおりは手招きをするとふたりの女の子は居間のほうにやって来た。にわとりもやって来ようとしたが、ふたりの女の子がまた厳しく叱責したので、静止した。このふたりはもちろん下平のふたりの娘である。彼女たちは縁側から居間にあがると饅頭に手を伸ばしてむしゃむしゃと食べ始めた。
「あのにわとり、筑紫の国の宮津湖岩井の蘭子と云うの。じゃあ、女の子ね」
「男の子だべ。昔は男でもなになに子と呼んだんだべ」
「そうだべ。生まれたときそういう名前をつけられたんだべ。もう筑紫の国の宮津湖岩井の蘭子は千二百年も生きているだべ」
 けふ。光太郎は意味もなくげっぷをした。光太郎はまた始まったと思った。いたち柱の伝説といい、もぐら神の花畑にしろ、作り話が多すぎると思った。この街は。にわとりが千二百年も生きるわけがないではないか。しかし、こんな大きなにわとりを放し飼いにするのは、風紀上よくない。第一、にわとりはどこででもふんをする。
「考えていることがわかるだべ。にわとりはどこででもふんをする。だから汚いと思っているだべ」
光太郎は目を丸くした。
「図星だべ」
するともうひとりの娘のほうが空を仰いで、流れゆく雲を指さした。
「天に雲、流れゆく風、そしてどんな不吉な暗雲が立ちこめていても、流れる風は不吉な雲を吹き払うだべ」
そしてもうひとりの娘のほうが地を指さした。
「地に人、人に畑、と野良仕事。人は畑を耕して、かぼちゃやキャベツを作るだべ」
「キャベツにロールキャベツ、人はロールキャベツを食べて、お仕事に出かけるべ」
「お仕事に出かけた人は自動販売機で缶ジュースを飲むだべ。そして空き缶を捨てるだべ。空き缶はゴミになるだべ」
「そして人に庭、庭ににわとりだべ」
「どういうこと」
飯田かおりも光太郎のように目を丸くした。下平の娘の言っていることの要領が得ない。
「そもそも、この鳥は宮中に参上していただべ。宮中の庭にいたからにわとりと云うだべ。筑紫の国の宮津湖岩井の蘭子は宮中でおそうじ係をしていただべ」
ふたりの娘がそう言うと巨大なにわとりはそうだ、そうだ、と云うように首を縦に振った。国によっては首を縦にふることが非同意の意志表示であり、横に振ることが同意の意志表示だったりするから、このとりは日本の文化圏の中で生息していると云うことを意味している。
「だから蘭子はおそうじ好きだべ。うちのお掃除も全部蘭子が担当しているだべ。箒やちりとりをみんなに配った意味がわからなかったかもしれないだべ。いつもこの街のお掃除を蘭子に頼んでいるから、今日は蘭子のお休みの日だべ。蘭子の日頃の感謝の意味でみんなにちり取りや箒を配っているだべ」
そこでまたにわとりは首を縦に振った。
「嘘だ」
光太郎が突然、叫ぶと、にわとりは激しい威嚇の視線を向けたので光太郎はたじろいだ。そして小声でまた嘘だとつぶやいた。するといやにゆとりのある態度でふたりの娘は光太郎を諭すような視線を投げかけた。
「嘘ではないだべ」
「そのにわとりが廊下を汚したんだよう」
光太郎はほとんど子供のようだった。するとふたりの娘は今度はポケットの中からくちゃくちゃに丸まったえんじ色の布きれを取り出すと、それ広げた。それは針山のようでもあり、ミシンの足カバーのようでもある。また色のついたてるてる坊主のようでもある。
「蘭子」
光太郎と飯田かおりは縁側に出ていたのだが、その縁側ににわとりは腰掛けると庭のほうに足を投げ出した。
飯田かおりはこんな光景をどこかで見たことがある。そうだ、よく小さな子供が列車に乗ると窓際の席に座って靴を脱いで窓から移りゆく外の景色を眺めたりする。それでもって降りる駅に近づくと今度は母親が脱ぎ捨てた靴を拾い上げて子供にはかせたりするのだ。
その様子はちょうどそんな様子に見える。
「蘭子は人間のように指がないからふき掃除のときはおらたちがこうやって蘭子を助けてあげるだべ」
にわとりの足にミシンの足袋をはかせた。それからもう一つの布きれを餌をあげるように差し出すと蘭子はそれを加えた。
「蘭子、掃除開始だべ」
「蘭子、掃除開始だべ」
中にモーターが入っているようににわとりは首を前後に動かしながら廊下のふき掃除を始める。にわとりはおしりをこちらに向けていた。くちばしにくわえている布で廊下を掃除しているのではない。足にはいている布ぶくろで床も磨いているのだ。にわとりは疲れを知らない運動を続けている。
 光太郎はこのにわとりの年齢が千二百歳かどうかはともかくこの街の掃除をしていることは認めなければならなかった。
このにわとりの謝意を表すために地主の下平がこの街の住人に掃除の道具の一式を送っていることも。
「よかったわね。光太郎さん、これで廊下もきれいになるわ」
「蘭子はこのくらいの掃除はへの河童だべ。掃除の途中だったなら、おら達と蘭子で掃除を手伝うだべ」
「ちょうどいいじゃないの。光太郎さん、この三人に掃除を手伝ってもらいましょうよ」
「三人ではないだろう」
光太郎はぶつぶつと言った。
「それに掃除じゃないよ。引っ越しだろう」
「引っ越しも手伝うだべ。ものを運ぶのはおら達がやるべ。箪笥なんかを運んだあとにほこりであとが出来ていたりするだべ。そこのふき掃除は蘭子にやらせるだべ。本当は蘭子はゴミをひろうのが上手だべ」
「そうだべ」
「そう、じゃあ、始めましょうか」
飯田かおりはいつの間にか姉様かぶりをして手にははたきを持っている。飯田かおりの姿はいまにも踊り出しそうだった。
「まず、今度から居間にするほうの部屋を掃除するから、わたしははたきをかけるから、ふたりは箒で部屋の中をはいてちょうだい。それから、筑紫の国の、ええと筑紫の国の」
「筑紫の国の宮津湖岩井の蘭子だべ。蘭子はおら達以外の人間には正確に名前を呼ばなければ言うことを聞かないだべ」
「筑紫の国の宮津湖岩井の蘭子さんね。あなたは私たちがその部屋を掃いたら畳を水拭きしてちょうだい」
するとこの巨大なにわとりは首をこくりこくりと傾けた。
「ええと、それから、光太郎さんは、もとの居間の部屋の移動する荷物を整理していてちょうだい。私たちが新しい部屋の掃除が終わったら一緒に運びましょうよ」
飯田かおりは野城を造る現場監督のようだった。むかしの豊臣秀吉もこんなふうにして一夜で山の中に陣地を作ったのかもしれない。春の日が縁側を照らしている。飯田かおりの声は春の日のように若やいでいる。光太郎は冬眠中の穴熊のようにもとの居間に戻った。新しくなる居間のほうには飯田かおりを先頭にしてふたりの娘とにわとりがブレーメンの音楽家のように入って行った。光太郎はもとの居間のほうに戻るとそこには整理されていない他人から見たらがらくたとしか言いようのないものが組み立て式の本箱なんかに積み重なっている。そしてそのうしろの木箱の中には乱雑にやはりわけのわからないものが積み重なって置いてあった。新しい居間になる部屋のほうでは飯田かおりたちが忙しく働いている。しかし、仕事とはいえない。なぜだって、仕事と云うのは休みの日以外にやるものだからさ。そしてやった褒美にお金がもらえるものだからさ。これはやってもお金ももらえないし、出世するわけでもない。でももっとなにかをもらえるかもしれない。
それは春の日のぬくもりか。
飯田かおりには春の日のぬくもりがぴったりとしている。
光太郎はお目付役がいないので木箱の中をあさってみた。するとまたわけのわからないものが中から出て来た。
 それは木で出来た自動車である。黄色の車体に緑に塗られたおりがくっついている。そのおりの中にはさいが入っている。それが手のひらにのるぐらいの大きさでさいにはたこ糸がついていてさいを引っ張ると中の動力になっているゴムを巻くようになつている。アフリカの狩猟用のトラックをおもちゃにしたようだった。光太郎がそれを畳の上に置いてみるとサファリ用のトラックはするすると動き出しておりの中にさいが入っていった。光太郎はなぜこんなものを持っていたのかよくわからなかった。しかしすぐに思い出した。いつだったか、動物園に行ったとき、大きなキャラメルを買ったことがある。キャラメルが大きいのではなくて箱が大きいと云うことなのだが、その中に入っていた自動車のおもちゃだ。それから木の箱をさらに探っていくとレコードが入っている。レコードのジャケットは色あせていたがレコードに写っているアイドル歌手の顔は輝いていた。その下にもう一枚レコードが入っている。タイトルは君の瞳は百万ボルトと書かれている。光太郎は高校時代の頃を思い出した。そう言えばそんな歌がよくかかっていた。百万ボルトの電気ショックを与えるような瞳はどんな瞳なんだろうと思った。光太郎はそのレコードをかけてみたいと思ったが電蓄がなかったのであきらめた。
 それから組み立て式の本箱のほうを見るとなぜこんなものを持っていたのだろうかと云う本があった。本と云うよりも正確に言えば図鑑である。白黒ではあるが写真がたくさんのっている。
 世界の産業と題が書かれている。子供用の辞典だった。印刷の半分は写真になっている。あるページをあけると水路があってその上を船が走っている写真が載っている。
 また違うページをあけると大きな風車が風を受けて回っている写真が載っている。
 今度は新しいページをあけると見開きでページいっぱいにトウモロコシ畑が写っている。トウモロコシは秋の日の中に実をつけてたわわに風に揺れているようだった。
 光太郎はふとうしろから誰かの視線を感じた。あつい息を首筋あたりにふきかけられた。そして喜びに満ちたうなり声が聞こえた。光太郎が振り返るとそれと目があった。にやにやしている。くちばしからは激しく息をふいている。トウモロコシ畑の写真を見ながら興奮している蘭子の姿があった。
「まあ」
「まあ」
「まあ」
三人の声が聞こえた。
「光太郎さん、なにしているの」
「蘭子、なにしているだべ」
「蘭子、なにしているだべ」
ひとりは光太郎にふたりは筑紫の国の宮津湖岩井の蘭子に叱責の声をあげた。
「ぼくがこの写真を見ていたら、にわとりがうしろからのぞき込んでくるんだよ」
にわとりはまだそのトウモロコシ畑をじっと見つめている。このにわとりがなにを想像しているかはあきらかだった。しかし、いろいろな作物の残っているこの街で放し飼いにされているこの巨大なにわとりに畑を荒らされたと云う被害届けがやって来ないと云うことはにわとりと云え、しつけがきちんと出来ているのだろう、このふたりの娘はあっぱれである。さもなければにわとりのくせに農家の作った作物を勝手に食べてはいけないと云う道徳律がその自己の中に存在しているとすればこのにわとりこそがまことにあっぱれなことである。なるほど宮中に参上していたと云うことが事実だと認めなければならない。
「まあ」
「まあだべ」
「まあだべ」
いつか飯田かおりは光太郎の横に座っている。
「ここは」
光太郎はページをさらにめくってみた。運河の中から赤、青、黄色、白の飴棒をねじって作ったようなともづなを結ぶ棒の水面から突き出ている運河の写真が出ている。オペラの大道具にでも出てきそうな船が浮かんでいる。
「ここは」
飯田かおりは甘えたような声を出し、その写真を指で指した。
「ベニス」
その写真の下の隅のほうには小さくスパゲッティの写真が載っている。ふたりと一羽はその部分をじっと見ていた。
「運河で建物を結んでいるんだ。アドリア海の女王、ベニスを見ないうちは死ぬなってね」
光太郎はうろ覚えの知識を頭のどこかから引っ張り出してきた。
「行ってみたいわ」
「そのうち行けるよ」
「食べてみたいだべ」
「食べてみたいだべ」
「コケコッコー」
飯田かおりのうなじのあたりは光太郎の眼下にある。飯田かおりの耳のうしろあたりにある後れ毛もはっきりと見える。飯田かおりはその写真に心を奪われているようだったし、光太郎に身も心もゆだねているようだった。そこには女と云う肉のかたまりがあった。においのかたまりがあった。同じページにのっているふたつの対象物に心を奪われている存在がある。ひとつはベニスのゴンドラに、そしてもうひとつはスパゲッティ、ペスカトーラに、そしてもうひとつは女に。
 女は首をねじって光太郎のほうを見た。高校生ぐらいの乙女のように見える。
「行きましょうよ」
「行く」
「食べるだべ」
「食べるだべ」
「コケコッコー」
光太郎の印象にはほほえみだけが花びらのように残る。
光太郎はいつもの自己の幸福理論をすっかりと忘れていた。幸福曲線もすっかりと忘れていた。飯田かおりがさげまん女ではないかと云う懐疑もなくなっていた。幸福とはなんだろうと光太郎は思った。自分が不幸だというのは間違った解釈ではなかろうか。幸福と云うと運命、運命と云うと時間の流れがある。運命は外からやってくる。幸福は自己の中心がその発生場所だ。しかし、ここには時間の流れはない。外と内の区別もない。だいたいが自己と云うものがないのだ。ここには眩惑がある。眩惑と云う現象だけが。そして飯田かおりと云う時間の流れに対する点が、女と云う肉体がある。そして強い興奮が。
 それから引っ越しはひととおりにすんだ。「今日は手伝ってくれてありがとう」
丸いちゃぶ台を囲んでふたりの娘とにわとりは塩水につけられたあさりのように飯田かおりのほうを見つめた。出水管と入水管を出し入れしている。飯田かおりは珍しい果物の皮をむいた。台所のほうではお釜が湯気を噴いている。玄関のほうでまたよびかける声が聞こえた。光太郎が出ていくと劇団をやっていると云うもと書記が都心のほうに行って戻って来たらしい。なにか買って来ておすそわけだと言っている。そして玄関の閉まる音がして光太郎は戻って来た。飯田かおりは釜にかけていたご飯が炊き終わったので台所に行った。飯田かおりと光太郎はふたりの娘とにわとりに晩ご飯をごちそうするつもりだった。もちろん引っ越しを手伝ってくれたお礼にである。ふたりと一羽が丸いちゃぶ台の前に座っていると湯気のあがっているご飯のもられている三つの茶碗を持って飯田かおりがやってきた。その茶碗は外側には海のような青色の上薬を塗られて焼き上げられていてその中は乳白色でつるつるしている。茶碗の中はつやのあるご飯が湯気をたてていた。飯田かおりはちゃぶ台の上に茶碗を三つおいた。
 するとふたりの娘と一羽のにわとりははしを取ってご飯の上に置かれて置かれている柔らかい芥子明太子をはしで圧力をかけてみた。はしで押されている芥子明太子の部分は復元力を見せずにげんなりとへこんだので彼らは驚愕と危惧と見たことのないものに対する畏怖でその表情は一瞬凍り付いた。そしてあらためてその茶碗にのったものをおそるおそる見つめた。
「お猿の指がのっているだべ」
「お猿の指がのっているだべ」
「コケコッコー」
ふたりと一羽はうろたえていた。
その口調にはあきらかに当惑のいろが含まれている。
飯田かおりはおかしさに声をたてて笑った。
「これはね、辛子明太子と云うものなの」
ふたりと一羽ははしでそのお猿の指をつついていたがぱくりと口に運んだ。それからご飯を口の中に運んだ。これを気にいったのか、彼らはそれぞれ五杯もおかわりをした。その辛子明太子はもと書記が都心に行って買って来たものだった。彼らは芥子明太子をそれぞれ五本も平らげた。
*********************************************五********************************************
 

第八回
「好きで、好きで、大好きで、死ぬほど好きなお方でも・・・」
光太郎は鼻歌を歌いながら厠から戻って手ぬぐいで手をふきつつ縁側とも廊下とも変わらない自分の家の中を歩いて新しく出来た居間に戻ろうとすると自家発電式の電話のベルがけたたましく鳴った。ちょうどその前を通った光太郎は木の箱の横についているエボナイトの送受話機を取り上げて耳にあてた。
「飯田光太郎さまですか。今回はどうもありがとうございます。お陰様で矢作焼きの名称を思い切って名乗ることが出来ます」
「矢作って」
「愛知県の矢作でございますよ」
「饅頭のことですか」
光太郎にはまったく見当のつかない電話だったが、矢作焼きと聞いて、饅頭がとっさに頭に浮かんだ。
「饅頭ではございません。焼き物の名称でございます」
「焼き物と云うと土をこねて、窯で焼くあれですか」
「そうです。そのうち機会を見つけてあらためてお礼をしたいと思いますが、今日はとりあえずこれで」
そう言うと電話の相手は光太郎に忖度するゆとりも与えずにがちゃりと電話を切った。
「ふん、馬鹿にしている」
光太郎は手に持った日本手拭いを下から上にまわして肩にかけると居間の前を左に曲がって台所に入った。台所には妻の飯田かおりはいなかった。
「光太郎さん、庭のほうに出てお風呂に薪をくべてくださらない」
姿は見えず飯田かおりの声だけはする。光太郎が庭のほうに出て、風呂の窯に薪をくべると窯の上のほうの窓ががらりと開いて飯田かおりの白い生首が顔を出した。肩胛骨の下のあたり、乳の少し上のほうまでが窓の外に現れている。風呂場に面しているのは弘法池だからこんな大胆な格好ができるが、ここが都会だったらこんな格好は出来ないだろう。ぞろぞろと見物人が集まってくる。光太郎は竹の筒を抜いたので窯の中に息を吹いた。窓から出ている飯田かおりの上半身は手拭いで首のあたりをふいている。飯田かおりは汗の流れるくらいの熱い湯に入らなければ風呂に入った気がしないらしい。
「変な電話がかかってきたよ。急に電話がかかって来て、僕にお礼を言うんだ」
「どんなお礼」
「矢作焼きの名称を名乗ることが出来ましたと言うんだよ。どういうことか僕にはわからないんだけどね」
「そう、変な電話ね」
光太郎は釜の中に息をふきながら、しゃがんだ姿勢で空いている窓を通して飯田かおりに声をかけた。
そのあとにお湯が流れる音がした。窓から飯田かおりは首を引っ込めていた。飯田かおりは洗い場に出て身体にお湯を浴びているらしい。
 風呂から上がった飯田かおりは鏡台の前に座って化粧を始めた。その横で光太郎はうつぶせになりながら日本地図を広げて愛知県のあたりを見ると確かに矢作川と云うのがあり、矢作台と云う地名がある。
「たしかに愛知県に矢作と云う場所があるな」光太郎はくの字に曲げた足のさきをぶらぶらとさせながら愛知県のその場所に指先をたてた。
「光太郎さん、そんなことより早く支度をしてくださらない」
そう言って振り返った飯田かおりの顔はいつもより少し化粧が濃い。それに少し興奮しているようでもある。
「きみ、少し興奮していないかい」
「そう、そうでもないわ。だって、でもすごいじゃない。英雄に会うのよ」
銀座の若旦那、背振無田夫の弟の背振栗太の友達で新新吉郎と言う男がいる。新と書いてあたらしと読ませるのだ。飯田かおりはこの名前を新聞で読んで知っていた。かいつぶり号一周記と言う読み物でその名前を覚えた。新聞を開いて第二面の五分の一ぐらいのところにその読み物がのっていた。読み物と云っても作り話ではなく、実話である。記録文である。
 新新太朗は背振栗太の友達でありながら半年前に手作りヨットで世界一周を果たしたヨット冒険家であり、そのあいだ無線を使ってその航海日誌を地方新聞社に寄稿していた。その目的はもちろん冒険費用をその地方新聞社に援助してもらうためである。その無線を受信した新聞社はその記事を新聞の小さなスペースにのせていた。その読み物は地方新聞の購読者のあまりないものであったから、世間の関心をそれほどかうこともなかった。
 その読み物のそれほど多くない読者のひとりが飯田かおりだったのである。
 その実録ものの読み物は新太朗が航海に旅立つ前から始まっていた。
 新太朗はヨット仲間の少し年上の仲間から頼まれた。今度、喜望峰を回って世界一周しようと思っている。そのヨットを作るのを手伝ってくれと。
 新太朗は世界一周の冒険にはどちらかと言えば否定的だった。
 生命をかけてやるまでの理由があるのだろうか。
 功名心に先輩はとらわれていると。
その先輩がヨットでの航海の練習中に突然に死んだ。作りかけのヨットを残して。
 彼が死んだあとで新太朗は彼の青春の日のやむにやまれぬ情熱を知ることになった。
 人のいない静かな海の静寂や、突然荒れ狂う海の様子、ビルくらいの大きさのある波が彼や彼の愛艇を飲み込んでしまおうとすることや、灼熱の砂漠のような太陽に身を焼かれる、そして油のような海の上で絶望感にとらわれること、かと思うと突然大きな魚が釣れて刺身にして食べること、そしてその魚がすこぶる美味であることを、話す人もなく孤独にヨットのふなべりを眺めているとくらげの赤ちゃんの妖精が近寄って来て話し相手となって彼の孤独をいやしてくれることを。
 作りかけのヨットを完成すると新太朗はそのヨットにかいつぶり号と云う名前をつけて冒険に旅立った。
 かいつぶり号と云う名前は水中に潜って餌をとる野鳥の名前でヨットが大波をかぶっても沈まないようにと云う願いをかけて名付けたものだった。
 その手作りヨットによる世界一周旅行に成功して新新太朗は日本に戻って来た。
 飯田かおりはその読み物の熱心な読者だった。
その新太朗が背振栗太の友達だったことを突然に知った。
 そしてこの航海の成功を祝って有志でパーティを開くという。背振栗太もそのパーティに招待されていた。飯田かおりはそのあこがれの人のパーティに栗太を通して参加させてもらうことにしたのである。
 そして飯田かおりは光太郎とともに東京に向かう列車に乗り込んで、田舎の景色の中を、それがだんだん畑や海や田圃が少なくなっていく様子を窓から見ていた。
 そのまま東京駅まで行かずに途中でふたりは列車から降りた。光太郎の職場での知り合いが携帯トランジスタラジオを職場に置忘れたので東京に遊びに出るついでにそのラジオを届けようと云う腹づもりがあったからだ。
その同僚はもう光太郎の職場を退職していた。光太郎と挨拶をすることもなく、会社での事務的手続きを終わらせると何も言わずに次ぎの働き場所に移っていった。
 こんな散歩のような東京行きもいいもんだと光太郎は思った。
 光太郎がラジオのスイッチを入れると銀色の小さな穴を数え切れないほどたくさんあけた金属の板の裏にあるスピーカーから放送が流れてきた。横に座っていた飯田かおりはそのそのラジオを眺めた。
「そのラジオを返しに行くの」
「別に借りたわけではないよ。隣の席に座っていたんだ。僕が横でよく聞こえるねえと言ったら、少し使ってみればと言って、休み時間に貸してくれたんだが、その次の日にその男は勤めを休んで、次の日も勤めを休んだんだ。その次の日に出てくるかと思ったら、それから一週間も勤めも休んだんだ。それからその男が会社やめたと云うことを他の同僚から聞いたんだ。もっと待遇のよい会社に移ったそうだ。きっと僕に試しにこのラジオを使ってみればと言ったことも忘れていたんだろうな。いいよ、ちょうど東京に出てきたんだから。勤め帰りだったら、わざわざこんなことをする気にはならないよ」
光太郎は音の流れているラジオのスイッチを切ると袋の中に、また、しまった。
「たしかによく聞こえるね」
東京の列車の乗り換えは飯田かおりよりも光太郎のほうがよく知っていた。大きな野原に平屋建ての家がたくさん建っているところを過ぎると谷の中を列車が走っているところに景色が変わった。その谷の両側には木がたくさん茂っていて、木のあいだには谷の斜面を登っていけるように石段が所々に作られている。その木や石段の間に墓石がたくさん建っている。石仏もたくさん建っている。きっともっと日がかんかん照りに照っていて暑かったらあそこに行って涼んでいれば涼しいだろうと光太郎は思った。そこには下の地面が乾かないようにと云う配慮なのか植木がたくさん植わっている。
 光太郎は走る列車の中から遠く隔てて見ていてどんな木がはえているのか、よくわんからなかったのだが、百日紅と椿の木だけはわかった。みんな幹の細い木ばかりである。地面はいつも湿っているみたいでチョコレートの表面のようにも見える。
 斜面に見える墓石や石仏はその一部でそこをあがって行くとその地域全部がお墓になっていてお寺や、墓地やそこで働く人の家があったり、することを光太郎は知っていた。
 九州のグラバー邸のような洋風建築の駅を出ると出口の横は達磨屋と云う土産物屋のようなものが建っていて軒先には大きな達磨の姿をした煎餅がたくさんつるされている。店の前には広いスペースが空いているのでそこに乗り合いバスなんかが停まるのかもしれない。達磨屋の平台の上には赤、青、白といろいろな色の達磨の起きあがりこぼしが置いてある。飯田かおりは立ち止まって、面白いと言ってその煎餅を指さした。その達磨屋の横には赤電話の置かれている電話ボックスがあって、その横には木の看板が立っていて路面電車の乗り口はこちらです。と書かれている。
「飯田かおり、こっちだよ」
光太郎はその木の看板のほうを指さした。
「最近、完成したんだよ。路面電車が」
「それに乗っていくの」
その看板の指し示すほうを歩いて行くと道が石畳になっていてその細道の両側は格子窓の張ってある平屋建ての家にはさまれている。格子戸の裏側にあるガラス窓には当たり屋と書いてあって矢の図が描かれている。この家の表のほうをまわったら居酒屋になっているのかもしれない。細道の途中で大きなコンクリート製の水桶のようなものが置いてあってそこには水がはられている。火事のときにはそこの水をくみ出して消火にあたるのだろう。その水桶の横には柳の木が立っている。安物の映画セットのような気もする。
 その細道を抜けると急に見晴らしがよくなった。その道は日本橋のほうに抜けることの出来る大通りで道のちょうど真ん中に路面電車の線路が走っている。そこの石段が中学校の運動場のトラックコースのようなかたちをしていて道路よりも少し高くなっていて路面電車の駅になっている。ホームの端のところには床屋よりも少し立派な中に電球が入っていて夜になるとその掲示板を中から明るくする仕組みになっている。そのホームの向こうはなんとか云う陸軍大将の屋敷で塀の外から庭の木の渋い緑色がこぼれ出ている。
 光太郎と飯田かおりのふたりがそのホームに立って待っていると芋虫みたいなかたちをした路面電車がむこうからふたりの目の前に滑り込んで来た。ふたりはこの電車が生き物で、かつ、ふたりの召使いのような気がした。電車の中は窓に接して一列ずつに長い座席がついている。電車の中にはちらほらしか客はいなかった。中年のビジネスマンと老夫婦が一組、学生帽をかぶった小学生がランドセルを背負ったまま、三人ぐらいで座席に座っている。それに赤ちゃんを背負った若い母親は大きなふくろに入った荷物を自分の前に置いている。その中にはきっと赤ちゃんのおしめとか哺乳瓶とかがたくさん入っているのだろう。
 飯田かおりは座ってハンドバッグを膝の上にのせた。飯田かおりの生まれ故郷ではけっして見られない風景だった。やがて窓の景色が動き出した。電車の窓の外を流れていく風景はかばん屋だとか、味噌屋だとか、メリヤス屋だとか銀行だとか、いろいろなものがある。店の前の歩道には柳の木が植えられていて春の日に青い芽をふいていた。イギリスはロンドンの街を真似したと云う街路灯がその重厚なデザインから飯田かおりの印象に残った。
 電車の走っていく振動が快く、光太郎と飯田かおりのふたりは眠気を催した。
 目で見てもわからないのだが日本橋のほうにつながっているこの道は測量してみれば微妙に傾斜していて坂の上にあたっているのは日本橋のほう、坂の下りに当たっているのは王子のほうだった。ふたりの乗った電車は王子のほうに向かっていた。途中で電車は停車して一部の客を降ろして、また客が乗ってくる。乗り降りして来るのは近所に住んでいる客なのだろう。なんとか云う社会学者が電車を都市の血管だと云うのはなるほどだと思った。
「光太郎さん、どこの駅で降りるんですか」
「飛鳥山」
「飛鳥山に光太郎さんは行ったことがあるんですか」
「花見に行ったことがあります」
光太郎は最近、花見で会社の催しで花見に行ったことがあった。そこで最近出来た路面電車が飛鳥山のそばを走っていると云うことを知った。それから光太郎の机の上に携帯ラジオを置き忘れた同僚がやはり飛鳥山の裏手に住んでいると云うことを花見のときの話題で知った。
 路面電車は目で見てもわからない微妙な傾斜を直線的に下って行ったが大きな曲がり角にさしかかろうとしていた。曲がり角の外側の円弧のところに鉄の鍋を作って卸しているらしい店があって屋根のところから大きな鉄の鍋がかかっていてたぬきも煮えると書かれている。その曲がり角の手前で電車は停まった。そこに飛鳥山のほうに行くときの路面電車の停留所があった。そこがちょうどゆるやかな崖の頂点に当たっていてすこぶる見晴らしがよい。途中でこの線路が曲がらずにまっすぐ走って行けば山と云うか尾根伝いに電車は走って行くことになるだろう。しかし電車を降りてから光太郎は気がついた。自分の錯覚であることを。これが自然の摂理で出来たものではなくて光太郎も気がつかなかったのだが継ぎ目がわからないくらいになっていて途中から人工の橋につながっていたのだ。だから電車の停まっているところは人工の橋の上になっている。山の尾根だと思っていたところは人工の尾根になっている。急に見晴らしがよくなったのももっともなことだった。
 光太郎の立っている場所は実際は谷底でそこから見晴台を立ててその上に上っているのも同然だったからだ。
 そういえばここから見るとここが切り立った崖になっていることがよくわかる。右の方は人工的に作られた坂で目の前に見えるお茶漬け屋だとか、団子屋だとかが遮っていてよくわからないが、その家の裏のほうは崖になっているのだろう。左のほうは人工的な細工がされていないから橋の欄干の向こうに谷底が見える。光太郎は飯田かおりと一緒に左手の橋の欄干のあたりに行ってみた。橋の下には小川が見える。その水のちょろちょろと流れるのも見える。川をたどって行くと農家や畑が見える。ここは都内と云ってもだいぶ田舎だった。そしてまた橋の下のほうに目をやると崖の途中のところに料理屋がある。
 養老屋敷と云う看板が立っている。光太郎と飯田かおりが橋の上からその料理屋を眺めていると大根を両手にぶら下げた農家のものが向こうからやって来た。
「なにを見ているだべか。養老屋敷を見ているだべか」
「ええ」
飯田かおりが答えると田舎の親父は飯田かおりに相手にされて喜んだ。
「あんた、なになにに似ているな」
親父は頭をサボテンみたいなかたちにしている流行歌手の名前をあげた。
飯田かおりはその歌手のことを知らなかった。そのことも気にせずに親父はしゃべった。
「ここでも酒がわきだしたと云う伝説があるんだべ。くくくく」
なにが面白いのか親父は笑った。
「暇だったら、川の下までおりて見るがええだ。大きなひょうたんみたいな木の彫り物が下に置いてあるから。そして変な白髪のじいさんがその大きなひょうたんを胸にかかえてひょうたんの口から酒がわき出している絵も置いてあるだ」
それから少し間をおいて
「あんたら、お似合いの夫婦だべな」
そう言うと両手に土のついたままの大根をぶら下げたまま親父は向こうに行ってしまった。
 もちろん光太郎も飯田かおりも携帯ラジオを返しに行かなければならないし、新新太朗のパーティに出席しなければならないからそんな暇はない。
「飛鳥山の裏にあるの」
「そうだよ。飛鳥山の中を通り抜けていくんだ」
右手のほうに曲がって行くと役所が作った飛鳥山の入り口の門柱が立っていて、その門柱は石造りだった。ふたりはその門柱をくぐった。門柱には大きな装飾をほどこした鉄の門がついていてその門は開いていた。そのうしろには大きな木が空中に枝を広げていて空を覆ってトンネルのようだった。光太郎は自分が花見のときに来た入り口はこっちのほうではないと思った。だいたい花見の客はこの入り口から入らずに桜の木がたくさん植わっている高台にすぐ行ける道のほうをえらぶのだ。
 その門から入るとその高台のほうには行かずに大きな木のたくさんはえているトンネルの下のほうを歩いて行き、幅の広い木の階段を下りたり上がったりしながら飛鳥山の裏のほうを抜けて行き、なんとかの滝とか云う注連縄の飾られている穴のぽつぽつと無数にあいている火山岩がたくさん置いてある場所の横の細道を抜けて行くと人の住むほうに出る。ラジオを置いていった男の家はそこにある。表札を見ればわかると同僚が教えた。
「光太郎さん、こんなところに花見に来たの」
「花見に来たのはこっちの入り口からではないよ。こんな寂しいところではないよ。こっちの入り口から入るとこうなっているんだ」
光太郎はあらためて下がったり、上がったりしている、まるで波が交叉しているような公園の中の坂道をつくづく見ながら言った。頭上からは木漏れ日が地上を舞う無数のほたるのように揺れている。
 同僚が教えたようにそこを抜けるとなんとかの滝があって水が絶えず出ている火山岩の置物みたいな前は注連縄で飾られている。その場所から飛鳥山の裏のほうに出て行けるようになっていて、出口から出ると小店があってその上の看板にはなんとか占術と云う看板がかかっていた。その細道を抜けて行くと草原の中に車の通れるくらいの幅の道があった。草原の中には三角に赤さびたレールが野ざらしに無用心に置かれている。その並びに何軒か家が建っていて光太郎は表札を確かめてその同僚の家の玄関を叩いた。玄関の引き戸ががらがらとあいて、携帯ラジオを置き忘れていった本人が顔を出した。
「これは、これは」
光太郎のうしろに飯田かおりの顔を認めて男は言った。
「きみはラジオを忘れていったじゃないか」
「そうか。まあ、あがれよ」
おくから手をふきんでふきながら彼の妻が出て来た。光太郎と飯田かおりは六畳の和室に通された。床の間にはどこから持って来たのかわからないが、大きな黒い石が飾られていて、そのうしろにはうぐいすの絵がかけられている。和室から見える庭には孟宗が乱れて生えている。会社にいるときはわからなかったがこの男は金持ちのようである。
「光太郎さんの会社の人はみんなこんな立派な家に住んでいるの」
「僕も意外だったよ」
もしかしたら寿司の出前が来るかもしれないと思ったが彼の妻が持って来たのは茶饅頭だった。茶饅頭と一緒に同僚もやって来た。
「まず、これを返すよ」
光太郎は袋の中から携帯ラジオを取り出すと紫檀のテーブルの上に置いた。
「きみが僕の机の上に置いたまま忘れていったものだよ」
「忘れていた。忘れていた。わざわざ持って来てくれたのかい」
男はその携帯ラジオを受け取った。
「急に会社をやめることにしたからね」
「いい就職口があったのかい」
「まあね」
男はまんざらでもないようだった。
「とにかく、わざわざ持って来てくれてありがとう。すぐ僕の家がわかったのかい」
「飛鳥山の裏の細道を歩いて行けばいいと同僚が教えてくれたからね。それにここは会社の花見でやって来たことがあったからね。すぐにわかったよ」
「今度はどんなところに勤めたんだい」
「ちょっと待っていてくれるかい」
男は立ち上がって外に出て行くと古ぼけたノートを何冊も持って戻って来た。そのノートをテーブルの上に置いた。
「奥さん、これがなんのノートかわかりますか」
「いいえ」
飯田かおりにはその少し汚れたノートがなにを意味しているかもちろん少しもわからない。とにかくそこに熱心に男がなにかをつけていたことはわかる。
「前の会社にいたときからこのノートをつけていたんですよ。これは企業秘密なんですけどね。小豆市場の値の動きを前もって予測出来る数式をみつけたんですよ」
その男はノートの束の表紙をぽんぽんと叩きながら満足げな表情をした。
「うそ」
飯田かおりは思わず言葉をもらしたが自分でしまったと思ったのか、下を向いて口を押さえた。「うそじゃないんですよ。おくさん」
男はにやにやと笑ったが光太郎にももちろん信じられなかった。
「じゃあ、その数式でこの家を買ったとか」
「それは違うよ」
男はそんなことはどうでもいいと言うような表情をして否定した。それから男はその数式のことをいろいろ話したが光太郎にも飯田かおりにもなんのことを言っているのかよくわからなかった。それから男は自分の話を終えると満足したのか茶饅頭を一口で半分食べた。それから日光の華厳の滝で起きた心中事件について語り始め、湯飲みの茶を半分ほど一気に飲んだ。男女の痴情話が政治上の口調で語られ、その話の最後のほうは都市と農村部における家制度の隔絶について論が及んだ。
 この男の職場での印象を知っている光太郎は意外だった。職場ではほとんどしゃべらないのに、この場の能弁についてである。
「今度、小説を書こうかと思っているんだ」
「どんな小説ですか」
飯田かおりは茶饅頭の五分の一ほどを囓りながら言った。
「空想科学技術小説をですね」
「空想科学技術小説って」
飯田かおりはこわいものでも見ているような表情で尋ねた。
「海底も地中も自由に進んでいける軍艦の話をですね。書こうかと思っているんです。水中を走ったり、地中を潜っていく軍事兵器の話はですね。これが意外と歴史が古い。レオナルド・ダ・ヴィンチも扱っているわけです」
「レオナルド・ダ・ヴィンチが潜水艦を作ったんですか」
「おくさん、そうではありません。レオナルド・ダ・ヴィンチはチェザーレー・ボルジアの歓心を買うためにそんな設計図を作っただけですよ。レオナルド・ダヴィンチはそうやっていろいろな諸侯に売り込みを計っていたわけですよ。そしてレオナルド・ダ・ヴィンチはアトランティスの存在に興味を持っていました。それがなぜだか、わかりますか。おくさん。イタリアのフィレンッェは教皇権をその支配のよりどころにしていました。つまりキリスト教をですね。そしてキリスト教は紀元前以前の文明を否定している。すべてはキリストを中心にしているからです。従って教会の中ではそういった書物の存在を否定している。しかし、キリスト教の教義の記述にはローマ時代に確立された哲学を利用しなければならない。それももとをただせばギリシャにある。したがってギリシャやローマの学問の成果が手書きの本として残っている。そこにはアトランティスの記録も残っている。だからレオナルド・ダ・ヴィンチもそのことを知っていた。彼が作りたかったのはアトランティスで使われていた地中軍艦だったのではないか、と云うのが僕がその小説を書きたい理由なんです」
いつのまにか、レオナルド・ダ・ヴィンチとアトランティスが結びついている。
 飯田かおりはこの男がなにを言っているのかよくわからなかった。光太郎は床の間に飾ってあるわけのわからない石の値踏みをしていた。飯田かおりもアトランティスと云う言葉は知っている。プラトンの対話に出てくる伝説の島で一種の楽園と云うことになっている。もちろん伝説であり、作り話であることは明らかだ。
「じゃあ、アトランティスの存在を信じていらっしゃるの」
「あなたがアトランテイスの人間の血を引いていないと誰が言えます。もちろん僕も」
「わたしがですか」
飯田かおりは頓狂な声を出して笑い出した。小説家らしい飛躍である。これが須弥山の天女の生まれ代わりだと言われればまだ納得がいく。お互いに生まれたときにはお尻に青いあざを残して、お米を主食にしている連中で朝昼版にスパゲッティを食べる人間とは違うわけだから、これも飯田かおりを喜ばすためにこの男が話しをおもしろく言っているのだろうか。寿司は出なかったが茶饅頭のあとにはフルーツの盛り合わせが出て来て、ふたりはそのあとその家を暇した。光太郎と飯田かおりはまた電車を乗り継いで銀座に出た。そこはまた路面電車の集結地でもあった。いろいろなところに出ていく電車の線路は扇の要のようにそこに集まって見たこともない惑星の異星人の住居のような倉庫に入っていく。その倉庫に電車が着いたときはあたりはすっかりと暗くなっている。扇の要と云うのは単なる比喩ではなくて見た感じもそうなっている。光太郎は夜の中に窓から漏れてくる路面電車の明かりを見て模型の電車のようだと思った。それらの電車がおもちゃのメリーゴーランドの部品のようにきらきらと輝いている。この光景を知り合いの写真家に教えてあげればいいと光太郎は思った。
 その男は中学生の頃の同級生で、中学の頃はカメラばかり扱っていた。おもに同級生の女を撮るのを目的にしていたが光太郎自身は同級生の妹で好きな女の子がいてその男に頼んで彼女の写真を撮ってもらったことがあった。それが光太郎の中学三年のときのことだった。
 その男はメリーゴーランドを撮影することを仕事にしていて、欧州のほうには移動式の遊園地というのがあるらしい。それを撮影するためによく欧州に行っていた。しかし、その男ももうメリーゴーランドでもないと言って撮る対象を別のものに変えたことを光太郎は知らなかった。 
 新新太朗のパーティーは銀座でも有名な中華料理屋で開かれると背振栗太は言っていた。
 なるほどその中華料理屋の前に行くと窓から明かりが漏れている。窓ガラスには大きな丸の中にぎりぎりに収まるように変わった字体で店の名前が書かれている。入り口の横の窓のところには**ビールと大きく描かれていてその下にはビールの酒樽がいくつも重ねられている。そばには川が流れているわけでもないのに川風が流れているような気がする。光太郎はこの名店に自社のビールを入れたくていくつものビール会社が日参したと云う話を聞いたことがある。窓から漏れる光が微妙に揺れていて中の喧噪を物語っているようだった。中から中国人が被っている丸い帽子を被っているのが出て来ればいいと、光太郎は思った。
 光太郎にも飯田かおりにとってもそこはある意味では別世界のようだった。それは飯田かおりにとっては特にそうだった。特にそうだと云うのは理由がある。
 ふたりはおそるおそるそのドアをあけてみた。一階は大広間になっていてそこが借り切られている。人がまばらになってごちゃごちゃと動いているのが見える。ありが乱雑に動いているようだった。
 ふたりがそこのドアをあけたとたんにある人物が目に入った。
 目に入ったと云うのではない。突然、その顔が目の前に現れたのだ。ふたりの視界のすべてをおおいつくすようにその顔が目の前にあった。現実とグラビアの世界が交錯する。
 今までにまったくいなかったタイプの俳優だと映画や雑誌で大人気の俳優である。少し不良ぽい感じを残しながら、その本質はいいところのお坊ちゃんだという、演技や技術と云うのではなく、その天然の持ち味が最大の魅力だと批評家に絶賛されている俳優だった。
 そのドアが開かれたときその俳優の顔が至近距離に入って来たので飯田かおりはびっくりした。銀幕の向こうにいるスターが目の前にいるのである。
 スターは飯田かおりの顔を見るとほほえんでやあと言った。そして向こうの通路のほうに行った。映画での仕草とまったく同じである。便所に小用をたしに行ったようだった。
「ねえ、今の」
「あいつだろ」
「そうよ。ほんものよ」
「なんであいつがいるんだ」
光太郎は飯田かおりほどは驚いていないようだった。
「遅いじゃないですか」
人混みとざわめきの中でふたりを見つけた背振栗太の若夫婦がやってくる。
「途中で用事があってね。飛鳥山のほうに寄って来たんだよ」
「知っている人ですか」
「会社の人です」
「でも、良かった間に合って」
「栗太さん、ありがとう。新新太朗さんだけではなくて****さんも見ることが出来たわ」
飯田かおりは少し興奮気味で話した。顎が少し前につきだしているのが彼女の興奮を示している。
「見るだけじゃないですよ。飯田かおりさん。****さんもこのパーティに参加してくれるんですよ。あの人の席もここにあるんですから」
「ええ、本当、うれしい」
飯田かおりはここでまた喜んだ。
「でも、なんで****がいるんだ」
「光太郎さんは知らなかったんですか。****はうちの学校の卒業生じゃないですか。新新太朗と同じですよ」
「なんだ。知らなかったよ」
「新新太朗の冒険に感動して今日のパーティに参加してくれたんですよ。会費もだいぶ払ってくれたし、こんなことは珍しいんですよ」
「うれしい」
ミーハーの飯田かおりはまた喜んだ。
「みなさん、着席してください」
この会の主催者らしいのが叫んだ。
一階の大広間には長いテーブルが五脚ほど並んでいてテーブルにはチェックのテーブルクロスが広げられている。
「みなさん、早く、着席してください。そうしないと会が始まりませんよ。みなさんのテーブルの上には名前が書かれているでしょう。そこに座ってください」
光太郎と飯田かおりは自分の席を探した。背振栗太夫婦のそばの席になればいいと思ったが彼らは遠いところに座っている。
 ふたりは自分たちの席をさがした。
そしてようやく自分たちの名前の書かれている席を見つけてそこに腰掛けた。席の前にはもう料理が並んでいる。牛肉を蒸し焼きにしたものや、サラダのようなものである。そしてまだなにもつがれていない水晶のようなコップやグラスが置かれている。サラダの緑色がテーブルの木の色に妙に対照をなしている。ビールの瓶ももちろん並んでいる。ふたりは長いテーブルの中間のような位置に腰掛けた。
 飯田かおりは背振栗太夫婦をふたたびさがした。彼らは遠くの新新太朗のそばのほうに座っている。飯田かおりの斜め前の席はふたつまだすいていた。飯田かおりはそこに誰が座るのだろうかと思った。
 光太郎のとなりには新新太朗の甥っ子だと云う坊主頭の少年が座っていた。新新太朗の親戚でいて本当に良かったとしきりに繰り返し、この中華料理屋は僕の憧れだったと言い、テーブルの上の牛肉の蒸したのをすでに口の中にほおばっている。この料理はいくらでもおかわりが自由だと云う話だ。それを見て光太郎は学食の焼きそばパンを何個でもおごってやると教師に言われて何個も口にほおばり、焼きそばのもじゃもじゃが口からはみ出しながら学食に向かう階段の中間のところに立っていた同級生の姿を思い出した。
 その少年がもぐもぐと動かしていた口をとめて宙の一点を凝視したので飯田かおりも光太郎もおもしろいと思って見ていたその少年のほうから目を離してその少年と同じほうを見るとまわりの人間たちも同じほうを向いていた。それと同時に多少のざわめきも起こっていた。
 背の高い男が向こうからやって来る。飯田かおりはにんまりとした。向こうから****が歩いて来るのである。多少飯田かおりの気にさわったのはそのうしろからひょこひょこと貧相な男がついて来ることである。
「ここかな。僕の席は」
*****は椅子を大振りな身振りで引くととそこに座った。少しもぎこちなさがなく、さまになっている。やっぱりスターだ。飯田かおりの斜め前にその男は座り、飯田かおりを見るとほほえんだ。そのあとから小柄で貧相な男が空いているスターの隣の席に座った。
「はじめまして」
スターは飯田かおりの顔を見るとほほえんだ。スターの隣の席に座った男はしきりに椅子を動かしてその椅子の位置を微調整している。その丸めがねも滑稽な感じを醸し出している。
「いろいろ料理が出ていますな」
丸めがねがつぶやいた。
 飯田かおりはスターが目の前にいるのでおすましをした。
「****さん、今度の映画で本物の遠洋漁業の外洋船を買ったって本当ですか」
突然、牛の蒸し肉をほおばりながら中学生がスターに聞いた。
「本当だよ。それをスタジオに入れて撮影をしたんだ。二ヶ月もかかったよ」
「本当ですか」
中学生はスターに話しかけて、答えが与えられたことを明日の学校でみんなに話そうと思っていた。そのときの得意な様子も自分で想像して悦に入っていた。会話の中心に自分がいるのだ。きっとみんなはいろいろなことを訊いてくるだろう。
 飯田かおりはそのスターの生の声が聞いていられるので満足だった。後ろのほうから給仕が来てみんなのコップにビールをついでいるのも気がつかないくらいだったから、飯田かおりはそれほど舞い上がっていたのかもしれない。
 そのとき前のほうの席でざわめきが起こって動きが激しくなった。そのざわめきの中でひとりが立ち上がってみんなに拍手を強要した。すでに新新太朗はゲスト席に座っていた。スターも拍手した。もちろん飯田かおりも光太郎も拍手をした。蒸した牛肉を口にほおばりながら中学生も拍手をした。中学生の目の前に置かれている白い皿の中にはレタスの緑の葉っぱだけが残っている。
 新新太朗のそばの席ではフオークソングの指導者のようなひげ面の男が立ち上がってまわりを見渡して右手をあげて、まあまあと云うようにみんなの拍手を制した。顔には満面の笑みを浮かべて得意気である。新新太朗の会なのか、自分の会なのかはっきりとしない。ここでみんなの拍手が終わったのを確認して立ち上がった男は演説を始めた。
 ここに一つの快挙がなしとげられた。希望峰をまわって世界一周をすると云う。それもかいつぶり号と云う手作りのヨットを使ってのことである。快挙である。これはひとつヨット界のことだけではない。
 人間の可能性への挑戦でもあった。それも快挙を成し遂げようとしてなされたものではない。そこが偉い。
 ここでまた拍手が起こった。飯田かおりは目の前のスターが拍手をしていたので負けずに拍手をした。話は突然にかなり飛躍して人類の挑戦と云うことになっていた。新新太朗のやったことは偉いが人類のと、云うことになれば話は飛躍しすぎだろう。
 しかし聴衆は納得しているのか、しんとした。そこで男は一呼吸おいて言った。
 それを成し遂げたのがこの男である。一体この男のどこにそんな可能性が潜んでいたというのか。身近にいたものとして僕は自分の不明を恥じる。
 ここでその男は軽く新新太朗のほうを向いて頭を下げた。
 新新太朗は照れくさそうに頭をかいた。
 頭を下げる理由と云うのも君が僕の店からビーフジャーキー三十人分ただで提供してくれと言われたとき、無碍にことわったからである。そのときは君の決心がそれほど固いものだとは知らなかったからである。すまん。
ここで芝居がかって男はまた頭を下げた。
 そしてその決心と云うものが君の畏友のこころざしをつごうと云うことだったから、そこも偉い。
 光太郎はまるで自分がヨットの英雄、新新太朗の祝賀会に来ているのか、結婚披露宴に来ているのか、自分でもわからなくなった。あいかわらず中学生は牛の蒸し肉を口にほおばっている。この中学生は前世でよほど牛に縁があったのかもしれない。それならここらへんでバウムクーヘンか、ショートケーキが出て来なければおかしい。そして帰りのおみやげには伊勢えびの中身をくりぬいてグラタンみたいなのを詰め込んだのが出されなければならない。
 しかし偉いのは新新太朗だけではない。マリア様がいなければキリストは生まれなかった。子供のために引っ越しを繰り返す母親がいなければ孟子は生まれなかった。太陽がなければ月も地球も誕生しなかっただろう。新新太朗が最後の難関の希望峰を越える瀬戸際のとき、やめようかと弱音をはいたとき、最後まで一周しないうちには家には帰って来るなと言ったご両親も偉い。
 虎は死んで皮を残す。人は死んで名を残す。その言葉の本当の意味はなんだろう。ここにいる新新太朗が新新太朗なのではない。新新太朗の行為こそが新新太朗なのです。
 ここでまた割れるような拍手が起こった。飯田かおりの前の丸めがねが陽明学ですな。王陽明とつぶやいた。それから新新太朗が頭をかきながら立ち上がって挨拶をした。
 祝賀会はずいぶんと盛り上がって、その雰囲気に酔ったのか、飯田かおりはビールを飲み干した。頬が赤くなっている。
「どちらから来たんですか」
スターが飯田かおりに聞いた。
「弘法池ってご存じですか」
「弘法池」
スターは首を傾けた。
「弘法大師が開いたと云う池なんです」
光太郎が代わりに答えた。弘法池なんて言われてもスターがそんな地名を知るはずがない。
「弘法大師、空海のことですね。その池が空海に関係しているのかな」
スターのとなりのちんけな親父が口を開いて、スターになれなれしい態度をとっているので飯田かおりも光太郎も驚いた。
「なんで、銀幕のスターにこの男がなれなれしく、話しかけるのか、驚いているのですかな。わしはこの男のおじなんです。意外ですかな。わたしはこのねたを使って飲み屋そしてのお姉さんにずいぶんともてるのですよ。これでも若い頃はこの男に似ていたんですよ。この男が赤ちゃんのはらまきをしている時分から知っているんですよ。すいかの大好きな赤ん坊だった。赤ん坊のくせに母親のおっぱいよりもすいかが好きなんだからな。本当にちょっと変わった赤ん坊だった」
スターはさかんに頭をかいた。このちんけな親父にスターは頭が上がらないらしい。
「この男が自分からにょしょうに声をかけることはめったにないのですだ。きっとこの男はあんたに好い印象を持っていると云う証拠ですな」
飯田かおりは顔を赤らめた。
「しかしじゃ、この男には婚約者がいる。もうすぐ結婚することになる。このことは企業秘密ですがな。あはははは。このことは誰にも言わないようにな。そうだろう」
「ひでぇなあ。おじさんは」
スターはまた頭をかいた。
「たぶん、そういうことになると思うんで、びっくりしないでくださいよ。でも弘法池なんて池があるんですか。おじさん、僕は聞いたことがないよ」
「そういうことに詳しい人間が来る。ほら」
そう言ってスターのとなりに座っていた男は飯田かおりのうしろのほうを目配せした。
「****さんも来ていたんですか」
飯田かおりのうしろのほうから声がして、光太郎もうしろを振り向くと、そこには正当派の歴史学会のホープの貝山が立っている。
「三輪田さんもおくさんもいたんですか」
貝山はなぜここに光太郎と飯田かおりがいるのか不思議だったが、むしろ飯田かおりにはこの貝山がいるほうが不思議だった。聞くと貝山も新新太朗も背振栗太も光太郎と同じ学校だったと云うことがわかった。
 光太郎はここで知り合いに会うかもしれないと思うと気分がふさいだ。しかしそんなことは貝山には関係がないようだった。
「光太郎さん、大手柄ですよ。大手柄」
光太郎も飯田かおりもそんなことを言われてもなにが大手柄なのかわからなかった。
「貝山くん、今夜は久しぶりに気分がいいよ。楽しい会だ」
ポテトチップの切れ端をかじりながら人品いやしからざる銀髪の老紳士が貝山を追って来た。
「あっ、先生。ポテトチップの切れ端なんかかじりながら、こっちに来ないでくださいよ」
老紳士はスターの隣に座っている親父に目で挨拶をした。どうやら知り合いらしい。これが歴史学会の正当派の元締めである吾妻だと云うことを光太郎はやがて気づいた。そういえば在学中に吾妻がいたということは知っていたが、そっちの方面の学校の派閥関係にはきわめて疎い光太郎だったのですっかりと忘れていた。
「先生、ここにいるのが三輪田さんですよ。資料を売ってくれた」
貝山は骨董のことを資料と云う言葉を使った。
「大手柄とはどういうことですか」
「僕も聞きたいな」
スターも口を添えた。
スターの隣の親父はなにをつまらないことを聞くと云うような表情をしている。貝山はこの表情をも無視した。
「三輪田さんの家に矢作のほうからお礼の電話が来ませんでしたか」
貝山の話を煎じ詰めて云うとこうである。
 矢作のほうで作っている焼き物の名称をなんと云うかで争っている最中に光太郎の売った骨董からある学問的な結論が出て矢作がその特許のようなものを主張出来たと云う話だそうだ。飯田かおりにはそれの詳しい部分まではわからなかったが。しかし、それよって単に矢作の町の住人から感謝されると云うことだけではなく、多少の金銭が動いたことは確かであろう。それがどのくらいの額になっているのかはわからないが。
 しかし、それ以上に光太郎の興味を引く部分がある。今度のその手柄と云うものが学会の正当派の得点につながっていると云うことである。しかしである。それをもとを正せばその骨董も光太郎が見つけて来たと云うものではなく、背振無田夫と云う天才が見つけて来たものだ。背振無田夫の先生は変人であり、異端学派の上田である。つまり敵の兵器を使って成果をあげたと云うことである。もしこの成果がそれなりに権威のある学術雑誌にでものせられてその資料の出所が異端の上田からだと云うことが白日のもとに出たら、どういうことになるだろうかと、光太郎は門外漢の無責任も手伝っておもしろく感じた。この点では芸能人のスキャンダルを無責任にはやし立てる、野次馬みたいなものだと自分を感じた。貝山はその理由をくどくどとまだ話している。貝山が話し終わると、今度は吾妻が光太郎のそばに寄って来て礼を言った。そのあいだ、光太郎はそんなことを考えていた。 スターとそのおじはその様子をおもしろそうに眺めている。どちらもそんな世界から遠いところで生きているのかも知れない。
「先生、先生」
貝山が吾妻のそでを引っ張った。向こうから変な親父が手にコップを持ちながら歩いて来る。その姿を見て飯田かおりは不愉快になった。向こうから上田が来る。みんな新新太朗のつまり光太郎の学校関係者であるからここに招待されても不自然ではない。
 しかし新新太朗となにかの関係があったとは思えない。儀礼的な関係で呼ばれたのだろう。
「じゃあ、これで」
吾妻と貝山はその場を離れた。上田がやってきた結果に違いなかった。行き過ぎるときに上田と会って二言、三言言葉を交わしたようだったが、その内容は光太郎にはわからなかったが、やあ、とか、はあ、とか表面的なものだろう。
 最初、飯田かおりは上田がこの会場に自分を認めてやって来たのかと思ったがそうではなかった。上田が見つけたのはスターの隣に座っている親父だった。
「やあ」
上田は親父に声をかけた。
親父のほうも返事をした。
飯田かおりは上田がここに来ることはいやだったが光太郎はそのことをしらなかった。理由ももちろんわからない。その現象も光太郎は理解していなかった。そしてどういう関係なのかわからないのだが星の下の竜宮城と云う映画に出てスターと競演した若手の女優が来ていて、中学生は糸の切れたたこのようにふらふらとそのほうにひかれて行って席を離れてそのほうに行ってしまった。となりの席に座っていた中学生は腹をふくらました未確認生物のようだった。
 その席が空いていたので上田はそこに座った。
「おくさんも来ていたんですか」
上田は身を乗り出していやらしい目をして飯田かおりに挨拶をしたが、飯田かおりはそれを無視した。光太郎はなぜだかその理由がわからない。
「君も来ていたのか」
上田は向かいに座っているスターのおじに
話しかけた。
そうとうな知り合いらしい。むかしから面識があったのか。
「君が彼らと同席している姿を見たかったですな」
「くだらない」            田上田ははきすてるように言った。
飯田かおりは上田がいるのでぶっすとして座っている。
「おじさん、この人と知り合いなの」
スターが聞くと親父は答えた。
「そうさ。異端の歴史学者であり、僕のむかしの学友ですね」
「別に学友でもないさ」
上田はむっつりとして言った。この関係は自分と背振無田夫の関係に似ていると光太郎は思った。変人と普通人との組み合わせと云う感じで。
「僕は君のほうが吾妻より偉くなると思っていたよ」
「くだらない」
上田はまた吐き捨てるように言った。
光太郎は思考を停止したときこの偏屈な学者がくだらないと云う言葉を使うのではないかと思った。
「いま、吾妻たちが来て、こちらの三輪田さんの資料を使って手柄を立てたと言っていたよ」
「くだらない」
上田はまた同じ言葉を言った。そして身を乗り出して飯田かおりのほうを見るとまたいやらしくにやりとした。
「歴史上、突然としてある豪族の消息がとだえたり、不連続に宝物が出現したりする。もっとも高貴な人として知られる人間の血筋をたどって行くと遠い異国にたどり着いたりする。だいたいどこからどこまでを日本だと言うのか」
上田は謎めいた言葉を言った。スターはめったに見られない珍しいものを見ているというような表情をしている。たしかにロケの現場や映画スタジオのなかではこんな人物は発見できない。
 「手柄と言ったってどんなことを見つけたと言うんだい」
上田はコップにつがれたビールを飲んだ。
「ここではこんなうまいビールを出しているのか」
「なんか、焼き物のことで元祖を名乗れるとか、どうか、言っていましたよ」
「つまらん」
今度はくだらないと云う言葉を使わなかった。
「灯台がいつから日本にあるのか、知っているかな」
上田はスターの顔を見て話しているのではなかったが、スターは上田に話しをふられているのではないかと思っているようだった。
「江戸時代からではないんですか。四国のほうでロケに行ったとき、古い灯台を見ましたよ。江戸時代に作られたと地元の人は言っていました。灯台が立っているのを見るとほのぼのしますね。いろいろな建物がそれぞれの表情を持っていると思いませんか。社長のような建物があったり、殿様のような建物があったり、吟遊詩人のような建物もある。そのなかでも灯台って崇高な感じがしますよね」
「なんのために、その灯台を建てたのかな」
「海に出て行った漁船が自分の浜に戻るため、さもなければ外回りで大阪や、九州のほうに荷を積んだ千石船が目印にするため」
「君の話によると江戸時代にならなければ日本人は海に出ていかなかったと云うわけかな」
「もちろん、もっと前から日本人は海に出ていたでしょうが。灯台と云うと上のほうの行灯みたいなのに火を入れて燃やして明かりにならなければならないでしょう。電気やガスが発明されていたわけではないんだから、そんな高いところで火を燃やすと云うのは大変なことだっただろうから、そんな昔の人はやらなかったでしょう。手間も費用もかかるでしょうから」
「手間がかかると云うが船が沈没したりして多くの人間が死んだり、たくさんの商品が沈んだりして大きな損失になると思えば無理をしても灯台を造るでしょうな。とくに本州と九州をつなぐ海峡のあたりでは地形も複雑に入り組んでいるし、船が座礁する可能性も高いですな。だいたい灯台が海に出た船がそれを目指して帰ってくると云うよりも、そこには陸地があるのでそこをさけると云う意味あいのほうが強いのではないでしょうかな」
隣の親父も口をはさんだ。
「なぜ、こんなところに灯台があるのかと思うようなところに灯台があるわ」
飯田かおりも口をはさんだ。
光太郎はお台場のほうに石を組んで作った灯台があることを思い出した。木場のほうには木造の灯台を見たこともある。木の表面が渋く煮染めたようになっていて作られたのは江戸時代だろうから、こんな時代から灯台が造られていたんだと感心した。
「みんなせいぜい灯台と云うと江戸時代に作られたものだと思っているようだが、意外とその歴史は古い。そしてそれ以上の発見をわしはしたのじゃ」
上田はちらりと飯田かおりのほうを盗み見た。
「どういう発見ですか」
光太郎はそれほどの興味もなかったが話を合わせるために訊いてみた。
「平安時代から灯台は造られているのじゃ。そのあとをわしは確認している。そのうえ、海辺に造られているのではない。山の中に造られているのだ」
「灯台と云うとあののっぽな塔が山の中に立っているんですか」
スターは信じられないと云うように上田にたずねた。
「そうだったら観光名所かなにかにならなければならないでしょう」
「そんなものが森の中からにょっきりと姿を現したら誰でもがおかしいと思うはずじゃ。もちろん、その台の部分しか残っていないのじゃがな」
「なんだ、それでは灯台かどうかわからないじゃないですか」
上田は素人がなにを訊くと云うようにせせら笑った。
「その台座の部分は残っているのじゃ。その台座の構造を調べると上の部分にどんなものがあったのかわかる。そのうえ、そこの古い資料に確かに灯台が立っていたと云うことがわかるのだ」
「うそ」
飯田かおりは下を向いて上田にはわからないように舌打ちをしたがその声は上田には聞こえていないようだった。親父は若い頃の上田のことを知っているらしかったがそのほうの関係から上田がどんなことをやっていたのか、もっと詳しく知っているらしい。それに関連したことを訊くことが出来るようだった。
「上田くん、きみが平安時代に建てられた灯台の跡を見つけたと云う話だが、それはきみの持論とどういう関係があると云うのですかな。そこのところを僕にも教えて欲しいものだな。きみは学生の頃から独特の論を持っていたじゃないですか」
「おじさん、独特の論と云うのはどんなものなんだい」
スターも少し興味を持っているようだった。
スターは両手でテーブルのはじをつかんで親戚のほうに顔を向けた。
「この男はな、現代の村でも、そこに住む村民でも、決して断続したものではなく、遠い過去の歴史から続く連続したものだと云うのがこの男の論なのですな。もちろん都会ではそれは成り立たないがな、人が出たり入ったりするだろう。そしてその村で霊媒師と呼ばれるような人間をたどっていくとやはり昔その村に住んでいた人間にいきあたる。霊媒師なんかは一番特徴があって調べやすい。だからその系統図を作ることが出来る。なんというか、そういった霊媒師のような人間は村の祭祀のようなことに関わっているためにそれをたどっていくことは容易だから、調べる価値があるのであり、一般の村民でもそれが可能なら同じ現象が見られるだろうと云うことだそうですな。そうだろう。上田くん。きみはいまでも似たことをやっているのか。そしてきみの持論によれば生物の進化図が枝分かれのかたちをしていてもとを尋ねていけば細くなっていくように日本にある村落も数えられるぐらいの数にしぼられる。といつも言っていたのですよ」
とスターのほうを見ていた親父は今度は光太郎のほうを向いて、光太郎に説明するように言った。
「それからきみの研究は進歩したのかい」
「ふふふ」
上田はビールを飲んで饒舌になっているのか、気楽に自分の考えを述べた。
「わしは日本にある村を奈良時代までさかのぼって調べた、本当に日本にある村は数えるくらいの数の村がもとになっている。それらの村はある共通な基盤にのっている。つまりこれらが日本のルーツであるのじゃ。しかし、みんな同じようなものだと思うと大違いで、分類に収まり切れない村がある。その村に灯台があるのじゃ。しかも森の中にな。くくくく」
上田は声をかみ殺して笑った。
スターは不気味なものでも見るように首を縮めた。薄気味悪いじじいだ。
「その灯台のある村ってどこにあるんですか。見てみたいな」
スターは甘えるような声を出した。
「秘密じゃ」
「なんだ、つまんねぇ」
スターはぷりっと怒った。光太郎はこんな学説をたてているから上田は異端の歴史学者と呼ばれるのだろうと思った。
そしてはなはだその説は信じがたいと思った。
「じゃあ、なんでそんな山の中に灯台なんか建てたのかな。上田くん。まさか、そんな山の中の灯台をどんな船が見ると言うのですかな。また必要とするのですかな」
「灯台の光というのは意外と遠いところから見られるものだよ。今の時代のように凌雲閣のような建物はなかったからだが、山の中の灯台でも船から見ることが出来る」
「それは山のてっぺんに灯台が立っているからですか」
スターは間延びした声で訊いた。
 この中華料理屋は生の木肌を生かした材木で建てられていてこの大広間の四隅にはゴムの木のような観賞用の植物が置かれている。部屋のはじの壁には家庭では使わないような大きな中華鍋がきれいに整理されて並べられ、飾られている。入り口よりも奥に入っていくにつれて天井が高くなっている。というのも入り口から入ったところは天井の上に客席があって一階からその客席の二階に上がれるようになっている。奥のほうは二階がない。 さっきから店の人間が忙しげに広間の中を行き来している。広間のテーブルのあいたところに店の人間が少し小さな頑丈そうな木のテーブルをしつらえた。そして丸い帽子を被ったウェーターが重そうに、これが機械だと断言できるような映写機を引きずるように運んできて、そのテーブルの上に置いた。
 鋳物で作った本体に小さな歯車や、わっかがたくさんついている。その中に透明なレンズがついていて機械の本体は焼き上げ塗装と云う縮れた布のような灰色の塗装がなされている。映写機のレンズは巨大な昆虫の目のようにきらきらと輝いていた。
 光太郎は上田がビールを飲んだいきおいからか、しきりにしゃべるのでそのほうに気をとられて店の人間がそんなことをしていることに全く気づかなかった。
 だいたい今日の祝賀会がどんなふうに進んでいくのか、事前の知識はまったくない。店の人間が窓のほうへ行ってカーテンをいじくっている。でも光太郎はなにが始まるのかわからなかったが、飯田かおりは予想がついていた。
 綿ぼこりのようにいろいろなテーブルをわたり歩いていた中学生が自分の席に戻って来て、そこに顔を赤くした上田がビールを片手に酔っぱらっているのを見ると自分の食べ残した七面鳥のももをテーブルの上に残していたのをみつけて手を伸ばしてとり、飲みかけのジュースも確保した。その行為を上田の肩越しにおこなうと、上田は少年よ大志を抱けとか、歴史学会は若き有為の若者を待っているとか、わけのわからないことを言ったが中学生はまったく無視した。中学生の目には変なよっぱらいとしか映っていないようだ。
 「僕は二階席のほうへ行きますから」
中学生は両手にジュース、七面鳥のもも肉を口にくわえて光太郎に言って、そそくさと二階に上がるほうの階段に向かった。
 座はすっかりと乱れていたがさきほどの司会者が穴蔵にまかれた種が高速撮影で芽を出すすがたが写されているもやしのように、つまり右に左に肩を揺らしながら上に伸びていくように立ち上がるとゴムボールの栓みたいな口をして静粛にと言った。そのくせその司会者の顔はすっかりと赤くなっている。
「これから、新新太朗くんが一番気に入っている映画を上映しますので広間は暗くなります。みんな席についてください」
司会者は声を張り上げた。
「どんな映画をやるんだ」
うしろのほうで声を張り上げたものがいる。「おまえ、新新太朗のファンではないな。新新太朗が一番好きな映画と言ったら決まっているだろう」
うしろのほうで大きな笑い声が起こった。
「その映画の主演はここにいる****くんです」
まわりの人間はスターのほうをいっせいに見てスターは頭をかいた。
「ふん、映画。くだらない」
上田はまたぶつぶつと言った。
むべなるかな。飯田かおりは女だからこんな表現はとらないが飯田かおりは上田がそうつぶやいたことを当然としてうけとった。上田と映画、どうしても結びつかない。スターはみんなと同じように無邪気に手をたたいている。客たちの目は前方のスクリーンのほうに向いている。新新太朗の目もそのほうに向いている。
「なんという映画が上映されるのかわかるんですか」
飯田かおりがスターに訊くと「知らない」とスターはあっさりと言った。店の人間が外に面した窓にカーテンを引き始める。広間は暗くなり始めた。
「暗くなるのか。暗くなるのか」
上田は狼狽を示した。上田は暗くなることに本能的な恐怖を抱いているようだった。「もっと光を」と言えば偉人になることが出来たが上田はそんな気のきいたことは言わなかった。いつのまにか広間の一番奥のほうにはスクリーンが広げられている。飯田かおりは月を恐れる狼男のことが思い浮かんだ。狼男が恐れるのは狼男のするどい犬歯や爪ではない。自分が狼男となる狂気である。それによって引き起こされる惨事である。もしくは自分のなかの人間以外の部分が白日のもとにさらされる恐怖である。人間は起きている時間と寝ている間の時間のふたつの時間を持っている。夢の中は夢の中でなければならない。しかし夢の中が現実としたら、上田がもし狼男だとしたら、上田が始終自分のほうに向けるいやらしい目つきのことを飯田かおりは思った。月を見てではなく、暗くなると上田はその狼男の本性を表すのではないか、酒を飲んでいることでもあるし、飯田かおりはおぞましかった。
 そんなことは光太郎はさっぱりと知らないらしい。
 映写機から漏れる光が店員の顔を妖しく赤っぽく照らした。
 スクリーンに海底のような景色が浮かんで空中に変な穴ぼこのたくさん空いているゴルフボールみたいなものがいくつも浮かんでいるそのうえそのゴルフボールにはてぐすが見えていて光りのあたる角度によってそのてぐすがきらきらと輝いてその存在をばらしてしまっている。海底だと思ったのは実は宇宙で、ゴルフボールは惑星だった。宙を飛んで見知った顔が画面の前方のほうに出てくる。そこで一斉に拍手がおこった。
 それがスターだった。
それから大きくタイトルが出る。
「宇宙金星王子」
会場はしんとしていた。
「子供向きの映画ね」
飯田かおりはあほくさくなった。飯田かおりの思ったとおり、宇宙から来た超人が地球征服をたくらむ悪の天才科学者から地球の平和を守るという内容だった。しかし平和を守るという活動もはなはだ珍なるものである。それはある小学校のできごとだった。原因のわからない難病で学校を休み、病院に入院せざるを得ない女の子がいる。クラスでその女の子をはげまそうと月の砂漠という劇をやると発言する生徒がいる。担任の先生はそれに反対する。恋人と旅行に出る計画があり、むだな仕事をやりたくないからだ。そして担任ではない図工の先生がそれをやることにする。しかしクラスの生徒はそれに参加しようとしない。その女の子がその地区では***という差別を受ける集団に属していて親の意識を子供たちは受け継いでいたからだ。そこで女の子の友達は山の中に住む山芋仙人のところへ行く。そこで山芋仙人は言う。月夜の晩に水晶風穴という場所に行き、そこにはえている千人きのこと云うものをとって来ればそれが人間のかわりになるからそれに役をつけて月の砂漠をやればいいと。
しかし、悪の科学者はそれを恐れた。千人きのこは悪の科学者の計画している皆殺しロボット軍団の大きな敵となるだろう。
 悪の科学者は子供が千人きのこを採ってくる邪魔をする。そして千人きのこは純心な子供が採取して来なければその効力はない。
そこで宇宙金星王子の出番となる。悪の科学者の魔の手から子供を守るのだった。そして宇宙金星王子は何度もいのちを落としそうになる。この子供の姿を見て無視していたクラスの友達も月の砂漠の劇に参加をする。女の子はクラスの子供、千人きのこの参加した月の砂漠と云う劇を見る。
 子供はいのちを危うくしてまでなぜ助けてくれたのかと宇宙金星王子に尋ねる。
すると宇宙金星王子は答える。
 わたしは宇宙超人ではあるが半分は人間の血が流れている。母親は地球人である。しかし母親はどんな人なのかは知らない。自分が超人と云っても死ねば墓穴に放り込まれ肉体は腐っていく。超人としての事跡も忘れられるだろう。しかしこの地球はわたしを生んでくれた母の生まれた場所である。その母親を生んでくれた母親がいて、そのまた母親を生んでくれた母親がいる。それがどこまでも続いていく、だから宇宙のあらゆる場所を自由に飛んでいける自分であるが気がつくといつもこの地球にやってくるのだ。
 そのせりふを聞いて飯田かおりは少し心を動かされた。それがなぜなのかは飯田かおりなりに理由がある。
 そして暗い中で映写機の光の中で肌の表面がてらてらと輝いている人物がいた。飯田かおりはいぶかった。
 それは変人歴史学者の上田であった。目からは涙を流してそれが頬に伝わっている。飯田かおりはおぞましくなった。気持ち悪いと思った。その意識が上田に伝わっているのか、上田は飯田かおりのほうを見た。その目は涙でぬれている。飯田かおりは思わず、目をそらした。そして哀願するような上田の目が記憶の中に焼き込まれた。
 「今晩は久しぶりに楽しくイブニングを過ごすことができたなあ」
ベンチに腰掛けながら銀座の街の星のように光が点滅するのを見ながら光太郎は飯田かおりの横顔を見た。光太郎は飯田かおりがいつもよりきれいに見える。光太郎の意識が高揚しているからだろうか。坂道を登り切ったところに小さな公園があり、片方の端が銀座の街を一望できる石垣になっている。空には星が輝き、月も出ている。いやがうえにもロマンティクな雰囲気を盛り上げている。
「今日はきみに謝ろうかと思って」
「なにを」
「なんでもないけど」
「わたしに謝らなければならないようなことをしたの」
「もちろん、そういうわけではないけど」
「知りたいわ」
光太郎が飯田かおりに謝りたいという気持ちになったのは、飯田かおりにはそうとは言わなかったが、飯田かおりが自分の幸福曲線を低下させているのではないかと云う疑いである。幸福曲線と云う呼び方は正しくはないかも知れない。むしろ幸運曲線と呼んだほうがよいだろう。そう思うのも会社での世間一般での噂話のような考え方がもとになっている。つまり美人薄命と云った類の考え方である。あんまり可愛い奥さんを貰うとその主人は出世しないと云う巷でよく云われることである。自分はそれにとらわれすぎているのではないか、そう思うから悪いほうに引かれてしまうのではないか。つまり原因は自分自身にあるのではないかと云うことである。
 そうだとするとこういう楽しい一夜を与えてくれた飯田かおりにむしろ感謝しなければならない。経済的、社会的に今のように下り坂にいることは決して飯田かおりのせいではない。そして自分の側にその原因を求める必要もないのである。もちろんどこかに原因があるには違いない。飯田かおりのせいでないとすれば光太郎自身にふられるかも知れないし、そうでないかも知れない。もっと大きな光太郎をとりまく社会かも知れない。でもそうなればもうお手上げだ。今がこれほど幸福ならばいいではないか。飯田かおりは無邪気に銀座の街を眺めている。飯田かおりはいつもよりきれいだ。
 「感動したのだ」
ふたりが並んで腰掛けているベンチの背後からにゅうと首を伸ばしてこのロマンティクなシチュエーションに参加しようとした不心得ものがいる。光太郎と飯田かおりは後ろを振り向いた。
「感動したのだ」
どこかの総理大臣のような文句を言った。そしてそのうさんくさい首ねっこを背後から光太郎と飯田かおりのあいだに割り込ませてきた。前から見たら光太郎と飯田かおりのあいだに上田の首だけが宙に浮かんでいるように見える。その目はやはり眼下に見える銀座の街に注がれている。そこには映画鑑賞で涙を流していた上田が立っていた。上田が感動したと言っているのはもちろん中華料理屋で見た映画のことだ。
「きみたちのあとをつけてここに来たのではない。誤解しないで欲しい。感動の余韻を味わうために歩いていたらこの公園に来たのだ。自分自身銀座の街を一望できる場所に来たかったのかも知れない。その気持ちがこの場所を選ばせたのかも知れない。きみたちもわしと同じ精神状態だったのではないかな。精神状態が同じなら同じ行動結果を生じせしめる」
光太郎はよほどよしてくれよと言いたかったが死んだ親友の背振無田夫の先生だと思うとその言葉ものどのあたりで止まって胃のあたりにすとんと落ちて行った。
「きみたちも感動したかも知れないが、わしにはその意味合いが違う。つい自分自身に宇宙金星王子を重ねあわせてしまうからだ。宇宙金星王子はわしをモデルにして制作されたとしか思えない。自分の家系のことをとやかく言うのをわしは好まんが、わしの中には高貴な血が流れている」
そう言って上田は夜空に輝く星を眺めた。
光太郎と飯田かおりがうしろを振り向くと上田は足を三角にひろげて夜空の星をじっと見ている。
「この地球を救うためにわしはこの地につかわされた」
上田はぽつりと言った。光太郎と飯田かおりは自分自身の耳を疑った。
「いま、なんて言ったんですか」
やはり上田は天上の星を見つめてその問いには答えずに遠い世界に自分をワープさせて、そこにすとんと落とした。
「崇峻天皇に氷水を初めて献上したのはわしの祖先である。もちろんその頃はそれを氷水とは呼ばなかったが、それも蘇我馬子にあやめられた三ヶ月前のことだった。ちょうどそのとき、わしの祖先は東北の方へ地形調査に行っていたので陛下をお助けすることができなかった」
光太郎も飯田かおりも崇峻天皇と言われてもなんのイメージもわくことは出来ない。上田の言うことが本当なのか、嘘なのか審判の入り口に立たせることも出来ない。
「氷水と云うからには甘いのでしょうか」
光太郎が聞いた。
「甘い」
「甘いと云うと砂糖を使っているのでしょうか。それとも蜂蜜を」
光太郎は何の関係もないことを聞いた。蜂蜜があるとすると蜂を飼うと云う仕事がそんな昔にあったことになる。
「黒砂糖だ」
「黒砂糖」
飯田かおりは小さな疑問が生じた。そんなむかしに黒砂糖が使われていたのだろうか。どこか南のほうの国でなければとれないような気がする。
「そもそも今ではわしはこんなよぼよぼの年寄りではあるが、武門の出である」
「武門の出というと」
「わしの祖先は八岐大蛇を退治してあまのむらくもの剣を手に入れて天照大神に献上した。まったくの武門の出である」
上田の話は神話の世界にまで達していた。すでに記録された世界を越えている。上田の祖先を目で見るには青木繁の絵画でしか方法はない、福田たねとの燃えるような恋愛の末に二十九才の若さで命を絶った明治時代の天才画家である。古代への憧憬からすさのおの尊を油絵に描いている。しかしそれは青木繁の想像の世界でしかない、そのうえにその顔は自分の恋人の福田たねをモデルにしているのかも知れない。したがった今目の前にいる上田とはなんの関係もないかも知れない。だいたいすさのおの尊と云うのが本当にいたのかどうかわからない想像上の神話の世界の人なんだから。
「たんに天皇や大和国を守ったと云うだけではない。この日本を救ったのである。わしにはその血が脈脈と流れている」
そう云ってまた天上を見つめた。そして今度は変な自信を内に秘めて肩をいからせている。宇宙金星王子は上田に大変な影響力を与えていた。光太郎はきちがいに刃物と云う言葉がふいに浮かんだ。
「その活動を続けているのですか」
「活動」
「つまり日本を邪悪なものから守るという」「活動。ふん。天職と呼んでもらいたいな」

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